第15話 分身
炸靭が、構えていた弓をさらにきりきりと引き絞った。
一方、瀬城は動かない。逃げようとする気配もない。すべての感覚を遮断するかのように瞼だけをそっと閉じると、微動だにせずに静止した。
見守っているだけの祝の頬に、冷や汗が伝う。あれだけの啖呵を切ってみせた彼のことだ。観念したわけではないことくらいは、わかっている。それに、診察室で〈腐敗の瘴気〉なるものを吐いてみせたときと同じ挙動だ。おそらくは霊力とやらを漲らせている最中であることも想像できた。
だが、それと同時に、
(あんな煙、今はなんの役にも立たねえだろ)
と、不安が胸を波立てる。
たちどころに肉を腐らせる妖煙であると日暈は言ったが、目に見えない矢をも腐らせることができるとは思えない。そもそも、やれるならすでに診察室でやっていたはずだ。
ならば、いったい瀬城は、あの〈波動の弓矢〉に対し、いかなる迎撃を試みようとしているのか――
息ひとつ分の刹那のあいだに、そんなことを目まぐるしく考えていると、
「死ねっ!」
一声あげて、炸靭が張りつめる弦から手を離した。
直後、グチャッと生々しい音をたて、〈波動の弓矢〉はあやまたずそれの眉間に穴を開けた。
祝は、あっと息をひく。
それは、軽く仰け反ったままで目をかっぴらき、寸とも動かずに凝固している。一息――二息――と時を置いても、倒れることもなければ、痛苦に顔を歪めることもない。そのうえ、穿たれた眉間からは、一滴の血すらも流れていない。
死んだのか? と、祝は思った。が、すぐにその考えは打ち消した。おそらくは、生物ですらないはずだ。
それは、瀬城そっくりの物体だった。炸靭が弦から手を離すとほぼ同時に、瀬城の身体から飛び出したのだ。そして、現れるや否や盾となって、瀬城の代わりに波動の弓矢の犠牲となった。
「分身ですの」祝の顎の下で、日暈が言う。「瀬城が駆使する二つ目の神通術――〈分身〉。己と寸分違わぬ物体を発現させて、操ることができるですの」
「マジかよ……」祝の口から驚愕が湧く。
「されど、生き物ではないとはいえ、致命傷を負えばもう使い物にはならず、すぐに消滅するですの」
その通りだった。眉間に穴を空けた瀬城の分身の身体の色が、みるみる薄くなってゆく。次第に向こう側の景色が透けて見えて、次の瞬間には、完全な透明となって消え失せた。
しかし瀬城は、その合間に四体の分身をつくりだしていた。さらに、その四体と本物の瀬城が分裂すると、合計十人の瀬城が肩を並べた。
一人と九体が、右手に持っていたサバイバルナイフを微かに振った。すると、左手にもサバイバルナイフが忽然と現れ、今度は左手でサバイバルナイフを振ると、一本だったサバイバルナイフが二本になった。どうやら瀬城は、瀬城自身を増やすだけでなく、手に握っているものすらも増やすことができるようだ。
十人の瀬城が、炸靭に向かって一斉にナイフを投げ放った。絶えずナイフを増やしつつ、とめどない投擲で炸靭を攻める。
しかし炸靭は、鉄骨梁から配管パイプへ、配管パイプからダクトへと敏捷に飛び移っては足場を換えて、いとも容易くナイフの飛来を掻いくぐる。
かたや瀬城と分身たちの投擲は、とてもじゃないが慣れた手つきとは言い難かった。軽捷な炸靭の動きをまったく目で追い切れていないうえに、投げ放つナイフの速度は、目で追えるほどに生ぬるい。
対する炸靭は、蝶のように空を縫っては、飛び交うナイフをすり抜ける。そのうえ刹那の虚を衝いては弦を弾き、一体、二体と瀬城の分身の眉間に穴を空ける。
そうして、あっという間にその数を四体に減らしてしまった。
一人と三体の瀬城も、負けじとふたたび分裂し、数を増やした。さらに分裂を繰り返し、合計八人が追加され、その数を十二に増やした。
それでも、炸靭の顔色は変わらない。飛燕のごとく軽やかに身を翻してはナイフを躱し、一ミリの狂いなく、瀬城の分身たちの眉間を貫いてゆく。
いったいどれが本物の瀬城なのか、祝にはとっくにわからなくなっていた。しかしふと見ると、いちばん奥に控えていた一体だけが、肩で息して、額に玉のような汗が浮いていた。表情にも疲労の色が滲んで、誰が見てもそれが本物の瀬城であることは明らかだった。
もちろん炸靭も、それに気づいた。ほかの分身には見向きもしなくなり、明らかに本物の瀬城だけを狙いはじめた。
分身たちはじりじりと後退し、本物を庇うための守備へと転じた。
嗜虐的な笑みを口の端に刻み、炸靭が分身たちを射抜いてゆく。
「まずいんじゃないのか? 先生が押されてる……」
あまりの歯痒さに、祝は訊いた。
「……」
日暈からの答えは返ってこない。
「おい! 聞いてんのかよ」
真下にある小さなつむじに向かって、祝はなるべく声が響かぬように語気を強めた。
「かつてーーこの国の民は、誰しもが神通術を駆使することができたですの」
唐突に、日暈が神妙な声をのぼらせた。「なぜならば、人の魂は神より分け与えられたものであり、ゆえに神の御力の一部を己も生まれながらに携えているのだと、皆が知っていたからですの」
神は、その魂でもって奇跡を起こす。
ならば人も、その魂でもって神にも通ずる奇霊なる奇跡を起こし得る。
「それこそが、神通術の基本であり、真髄ですの」
祝は、イライラと眉毛を吊り上げた。
「なに言ってんだ、おまえ。先生が危ないんだぞ!」
つまりーーと日暈が落ち着き払って呟いて、祝の顔を仰ぎ見た。
「そなたにだって、神通術を駆使することができるですの」
決然とした目で貫かれ、祝は、お、おい……と、困惑した。
日暈が祝の下から抜けだし、後方へとまわった。何が始まるのかと思いきや、粛々と正座して、すぐ前の地面をトントンと叩いた。おまえも正座し、わっちゃと向き合え、と言いたいようだ。
しかし、祝は素直に従う気にはなれなかった。従ったところで、良いことが起きる気が一つもしなくて、横目で恐るおそる日暈をうかがった。
「なあ……いったい何なんだよ」
「いいから正座!」
鞭打つようにピシリと言われ、祝は慌てて日暈の向かいに正座した。ついつい言われるがままに動いてしまったことにむかっ腹が立ったが、
「瀬城がどうなってもいいんですの?」
と凄まれて、言い返す言葉を失った。
従順しくなった祝を見て、日暈が、いいだろう、と言わんばかりにうなずいた。
「そなたには、今から〈火凝霊法〉を覚えてもらうですの」
「カゴタマホウ?」
「神通術を駆使するための、秘鍵の一つですの。身体の中で燈る火である魂を凝らし、そこから発っせられた熱で霊力をつくる。そして、その霊力を身体の外へと解き放つことで、初めて神通術となるですの」
なに言ってんだ、こいつ――としか思えなかった。しかし、日暈はいたって真剣だ。だから祝は、はあ、とも、へえ、ともつかない声をとりあえず返しておいた。瀬城を助けるには、今はこの狛犬の話を素直に聞き入れるしかないのだから。
しかし、そう思った矢先、
「それではまず、魂を凝らしてみるですの」
まるで、腕を上げてみるですの、と言うような調子で命じられ、祝はすぐさま反発した。
「いや、意味わかんねーし! 無茶ぶりかよっ!」
日暈が、まあ落ち着け、とばかりに片手を上げる。
「わかってるですの。腕の存在を知らぬ者に、腕を動かすことはできない。それと同様に、魂の存在を知らぬ者に、魂を凝らすことができないことくらい、わっちゃだって承知ですの」
だったら、できてトーゼン、みたいな言い方すんじゃねえよ、まぎらわしい、と祝はぼやく。
「だけど、腕の存在をひとたび知れば、目を閉じていても動かせる。それと同様に、一度でも魂の在処を知ることができれば、ふただび目にすることが出来なくとも、簡単に凝らすことができるですの」
だから――と、日暈が唐突に腕をまくった。
「今からわっちゃが、そなたの魂を見せてやるですの」




