第9話 嬰児の叫び
出し抜けに、どこからともなく声が聞こえて、鼓膜のさらに奥を震わせた。
赤ん坊の愚図るような声である。いやいやするような、むずがるような、今にも泣き出しそうないたいけな声だ。耳元で囁かれるよりももっと近く、脳に直接響いてくる。
「なんだよ、これ……」
言いながら、祝は思った。みんなには、聞こえていないんじゃないか、と。しかし、その不安にかぎっては、すぐに散った。
「どこから、聞こえてくるの!?」
八尋が耳に手を添えて、辺りをぐるぐると見回している。
八尋ほどではないものの、目を泳がせる瀬城と狐耳姉弟にも、明らかな動揺がうかがえる。
診察室にいる全員が、出処のわからない奇異な声を共有し、浮き足立った。
「地震いが起きるですの! みんな、気をつけるですの!」
「ですぞ!」
青くなった顔色で、二匹が鋭い叫びをあげた。
直後、唸るような地鳴りとともに、本当に地面が揺れ動いた。
昼過ぎに起きた地震よりもさらに大きく、小波に浮かぶ小舟の上にいるかのような感覚だった。
窓ガラスやスチール製のキャビネットが、振動に叩かれてカタカタと鳴る。机の上のペン立てが倒れ、ペンが床じゅうに散らばった。
「大きいぞ……二人とも、診察台の下に潜って!」
瀬城に言われ、祝と八尋は、慌てて診察台の下へと潜り込んだ。
瀬城は、鬼灯を抱えている日暈と、打ち震えている月暈を抱えて、診察台の向かいにある机の下へと身を寄せた。
祝と八尋、そして瀬城と二匹は、二、三歩程度の距離を挟み、屈んだ状態で向かい合った。
「祝、見て!」
八尋が、鬼灯に向かって指を差した。正確に言えば、鬼灯の中にある、炎と一つになった赤ん坊を。
首のないそれは、海老のように反り返り、あるいは腰を折り曲げ、全身をねじり回すようにして身を捩っていた。手足も忙しなく空を彷徨い、全身を使って不満と不快感を訴えている。
日暈が、「おーよしよし」と声をかけ、優しく鬼灯を揺すり始めた。月暈は、赤ん坊に向かって、いないいないばあを繰り返している。
しかし、そんなあやし方では損ねた機嫌は直らないようで、さらにもがきっぷりは激しさを増した。
同時に、頭の中に直接流れ込んでくる愚図るような声も大きくなった。頭蓋骨を鷲掴みにされ、揺さぶられているかのような感覚に、祝はたまらず頭を押さえた。
直後、地震がその声に呼応するかのように大きくなった。最初は、沸騰するかのように。次いで、大きな生き物が、直下で蠢いているかのような不穏な揺れに、総毛立つほどの恐怖を覚えた。
「やっぱりあの子たちが言ってたことって、冗談なんかじゃなかったのよ」
八尋が、震える声で囁いた。
祝の頭に、否定の言葉は浮かばない。それどころか、早く機嫌直してくれよ――と祈ってさえいた。さらには、必死に宥め賺そうとしている日暈と月暈にも、歯がゆくてじれったい苛立ちを覚えた。その赤ん坊を慰めるのが、おまえらの仕事なんだろ? だったら、早くなんとかしてくれよ、と。
そんな最中、唐突に殺伐とした視線が、祝の総身を捕まえた。
今にも心臓を噛み破らんとするような明らかな殺気に、肩がびくりと跳ね上がった。
瀬城たちがいる、机の下から確かに感じる。
しかし瀬城は、赤ん坊の影を必死に宥める日暈と月暈を見守っている。その二匹も、もちろん祝なんかには目もくれない。
だとすれば、この視線の出処は――
祝は、赤ん坊のーーかつては顔があったであろう虚空へと恐るおそる目を移した。
目が合っている、と、すぐさま感じた。
目なんて、無い。なのに、自らの視線と絡み合うのを確かに感じて、竦みあがった。
(なぜ、俺を見る……)
そう思っていると、彷徨っていた赤ん坊の諸手が、祝へとおもむろに伸ばされた。
……せ……えせ。
頭の中から聞こえる声が、調子を変えた。赤ん坊の愚図るような声ではなく、明らかに言葉を知る者の声だった。
……せ……えせ。
しかし、何を訴えようとしているのか、はっきりとは聞こえない。
おまえ……ふたつも……っている。
……せ……えせ。
「何なんだよ……何が言いたいんだよ。俺が何したって言うんだよ」
声に出して尋ねてみても、答えは返ってこなかった。
「カグツチよ、どうか、お鎮まりくださいですの! そなたの首は、必ずや死神どもから取り戻してみせるですの!」
「ですぞ!」
日暈と月暈の宥め賺しが、涙声の懇願に変わった。
「先にもお約束したはずですの。わっちゃらが死神どもを成敗し、お体を元通りにしてみせると。だからどうか、今はしばしのご辛抱を。焦らずとも、約束は必ず果たしてみせるですの!」
「ですぞ!」
ややあって二匹の願いが通じたのか、もがいていた赤ん坊の動きが穏やかになった。
地震も次第に小さくなり、静寂が診察室に満ち渡ってゆく。
赤ん坊の愚図る声も、もう聞こえない。言葉でもって訴えかけようとしていた声も、もう届かない。
気がつけば、あの殺気ともいうべき視線も消え去っていた。
やがて、赤ん坊は背中を丸めて、胸を上下させながら眠るような仕草に転じた。
「もう、大丈夫ですの」
「ですぞ」
息をついた二匹が、瀬城に告げた。うなずき返した瀬城も、張り詰めていた目許をやわらげて、溜め込んでいたのであろう息をふう、と吐いた。
それから、よいしょ、と机の下から抜け出すと、何事もなかったかのような朗らかな顔で、一人と二匹はうーんと唸って腰を伸ばしだした。
そんな光景を、祝と八尋は診察台の下で唖然としながら見上げていた。
「やっぱりあの赤ちゃんて、神様なのね……」
八尋が、気の抜けた声でつぶやいた。
祝の背筋に、冷たい汗が流れ落ちる。だとすれば、あのおぞましい視線はなんだったのか。こちらへと手を伸ばし、何を訴えようとしていたのか――
ちらりと八尋の顔に目を遣ってみると、不思議そうにこちらをのぞきこむ目とぶつかった。どうやら、彼女が赤ん坊の視線で射抜かれることはなかったようだ。聞こえてきた声も、おそらくはいたいけな愚図る声だけだったようである。
じゃあ、なんで俺だけが、と祝は思う。今日、初めて知った名前の神様に、怒りなど買った憶えはない。ましてや、殺意を抱かせるようなことなど、やりようがない。
いつまでも診察台の下から抜け出そうとしないからだろう、八尋から注がれる視線が、訝しげなものに変わってもゆく。それでも曰く言い難い不安に駆られ、祝はうずくまったまま、指一本動かすことすらできずにいた。




