第12話(最終話) 「finis(おわり)」
「何か見つけ次第すぐに連絡しろ」
木野に連絡を入れ、私は本部の長机で息をつく。
闇無が地理的プロファイリングで割り出した三角地帯。その範囲に捜査員を大量に配置した。木野たちはまずホスピスに向かっている。他のチームは廃墟、トンネル、地下道。隠れ家でもスプレーの練習場所でも何でもいい。時田がアジトとしていた場所、長く滞在していた場所を見つけたい。
佐野殺しとアパートの老女殺しは、現在確たる物的証拠がない。唯一の望みは、アパートの現場前で加東を襲った時に時田を刺したとみられる蚊。
そこから出たDNAと照合できるものを手に入れたい。そうすれば、加東への暴行と殺人未遂でまず逮捕し、
拘留中に灰川に尋問させて殺人二件を自白させればいい。愛弟子として可愛がっていた灰川になら遺言代わりに話すかもしれない。
ゆっくりやっても本人はいずれ見つかるだろうが、もしも胃ガンの話が本当で、末期だとしたら。
逮捕前に被疑者病死など、冗談ではない。それにそんな事態になったら本部長が黙っていないだろう。私の進退に関わる。
残っていた数人の捜査官もおのおの外へ出る準備をしている。九十九署の武石もやっと重い腰を上げた。あの男はやる気があるのか。
私は手元の資料をパラパラとめくった。
「……ん?」
佐野の携帯電話は、現場に無かったのか。見落としていた?いや、あの汚い駅裏を警官たちが探して、そして見つからなかったのだ。だから犯人が持ち去ったと判断したのか。
加えてずっと気になっていた基本的な事実。
なぜ二件目は犬なのか。
通常シリアルキラーはターゲットのタイプを変えない。間に犬をはさんだ今回の犯人は変わっている。あの寺町の飼い犬たちが夜中に吠え続け、近隣の受験生が迷惑をこうむっていたのは事実だ。時田は、死ねば誰かが喜ぶ人間を慎重に探していた可能性があると、闇無は言っていた。私もその線は支持する。
しかしだったらなぜ犬の飼い主を狙わなかった?なぜ犬そのものなのだ?犬好きは飼っていた犬が死んだあと、しばらくして再び同じ種類の犬を飼うことが多い。結局同じことの繰り返しだ。解決にならない。
何か。
何か他の目的が。
そういえば、あの現場に最初に行ったのは。
「武石」
私と彼以外誰もいない刑事課に、一番高い場所から降りた太陽が窓から斜めに日差しを注ぐ。
ずっと探していた時田春哉が、目の前にいる。
落ち着け、闇無乃衣。とにかく話すんだ。どんなシリアルキラーも会話することで落ち着くことがある。
「本当に……あなたが時田さんなんですか?」
「そうだよ。灰川とはうまくやってるようだね」
信じられないくらい落ち着いた口調で、時田は言った。私を見る目も穏やかで優しい。
この人が、佐野さんを殺し、犬を大量殺害し、罪の無いおばあさんを無情に殺した男。
そして、灰川さんが慕っていた師匠。
「色々と、聞きたいことがあるんですけど」
「何なりと」
時田が一歩近づく。私は一歩しりぞいた。
……失敗した。引いちゃいけなかった。
「どうして、ここにいるんですか?」
聞くと、時田は軽く笑った。
「いきなりそんな質問か。いちゃいけないみたいで傷つくなあ」
「なっ……何を」
傷つく!?何を今さら。
「あなたは何を言ってるんですか!?自分が何をしてきたか、自覚が無いんですか!?」
大きな声が出る。しまった。興奮しちゃいけない場面で。
時田は細い目をさらに細め、首を振った。
「いけないなあ、大きな声を出しちゃ。会話で相手を落ち着かせて主導権を握る場面なのに、自分が興奮しちゃ負けだよ」
ぞわっ、と両腕に鳥肌が立つ。そうだった。この人は抜群に仕事ができた人で、独学でプロファイリングを研究してたって。相手の気持ちを先回りするようなところがあり、
資料を見た安藤さんが言うには「しつこくて細かくて、怖いくらい」の人。
「そんなことは考えていません。あなたはここに自白しに来たんですか?だったら今から県警本部に行きましょう。そこで話を聞きます」
「県警に用は無いよ」
時田は言って、もう一歩近づいた。私は動かなかった。
「今度は引かなかったね」
笑って、時田は続けた。
「そういえば質問の答えがまだだった。僕がここにいる理由か。それはね、この九十九署が僕たちにとって大事な場所だからだよ。そうだろ?灰川」
時田はまっすぐ前を向いたまま、言った。
「何ですか?」
上着をかついだ武石が足を止めて振り返る。
「ちょっとこっちへ来い」
武石がけげんな顔で引き返してきた。今捜査本部には二人だけだ。
「あの、そろそろ出たいんですけど」
「わかってる。君に質問がある。簡潔に答えてくれ」
「はあ」
「寺町の犬の殺害事件の後」
「寺町ですか?それが何か」
「時田と接触したんじゃないか?」
一瞬の静寂の後、武石は笑いだした。。
「何突拍子もないこと言ってるんですか、課長らしくもない。闇無ちゃんに影響されたんですか?」
私は構わず続けた。
「くわしい動機は不明だが、時田は駅前の裏路地で佐野を殺した。その後髪を切ったり顔をつぶした理由も不明だ。だがそれは問題じゃない」
「はあ」
きょとんとした顔で武石がイスに座る。
「佐野を殺したことによって、時田が九十九署の内情や灰川の現状を知るツテが無くなったということだ」
「ああ……そういえば佐野さん、タバコ代もらって時田と会ってた可能性があるって」
「だが時田は、灰川が当日急に体調不良だと言って休んだ日、自分が昔住んでいたアパートに先回りして、老女を殺した。隣の大学生に世話を焼き過ぎて
困らせていた老女だ」
「ひどい話です」
「時田はなぜ、当日灰川が仕事を休んでそのアパートに行くとわかった?アパートに行くこと自体は、灰川の立場になってみればわかるかもしれない。頭のいい男だからな。
しかしいつ行くかはわかりようがない。しかも急な休みだ」
「それは……不思議ですね。灰川にGPSでも埋め込まれてたりして。ナハハハ」
「もしくは、佐野の次に選ばれた連絡係が教えたか」
「そんな……」
笑いかけた武石が、途中で口をつぐむ。
「まさか、俺を疑ってるんですか?」
「ちがうのか?」
「何で俺が」
「私の考えを言おう。時田は佐野を殺したことで、九十九署の情報を得るツテを失ってしまった。長期的にかどうかはわからないが、とにかく後継者が必要になった。
そこで選ばれたのが君だ」
武石は黙っている。
「人ではなく犬を大量殺害することで、君を確実に寺町の現場へ導いた。犬好きの君に無残な死骸を見せるために。そしてその日か翌日か、すぐに着信があったはずだ。死んだはずの佐野の携帯から」
「……」
「細かい文言は知らない。だが時田はこう言ったんじゃないのか。"お前の犬を同じ目に合わせたくなかったら、協力しろ"と」
「しょっ……証拠はあるんですか?ただの憶測で部下を共犯者扱いするなんて、ひどいじゃないですか!」
汗びっしょりで立ち上がり、武石が一気にまくしたてる。そして二、三歩後ずさる。
本部の電話が鳴った。
「いいのか?証拠を探しても」
「へ?い、いいのかって」
私は立ち上がり、ゆっくりと武石の方へ歩みを進めた。同じ速度で武石も下がって行く。
「君も馬鹿ではないだろうから、着信履歴をそのまま残すようなヘマはしていないだろう。しかし電話会社には記録が残っている。いつ誰から、誰にかけられたか」
「あ……あう……」
「記録を開示させて調べた時、死んだ佐野の携帯から君の携帯に着信があり、数分会話したことが判明すれば」
「す、すれば……?」
「君は殺人の共犯になる。人生の終わりだ」
武石は唇を震わせながらさらにあとずさり、やがて壁に突き当たった。
「お……お……おどされたんだ……マイクを……寺町の犬と同じ目に合わせるって」
「マイク?」
「か、飼ってるポメラニアンです。まだ六か月で、ふわふわで可愛くて」
「何でそれを時田が知っている」
「全部佐野さんが、タバコ銭目当てに時田にペラペラしゃべったんですよ!灰川のことだけじゃない!俺のことも、署のことも、県警のことも!」
「具体的には、何と言われた」
「今言ったじゃないですか……うわっ!」
私は武石の胸倉をつかみ、壁に押し付けながら左手で持ち上げた。
内ポケットの携帯電話も鳴りだした。多分木野だろう。
「か、かちょ……くるし……」
武石の手が私の腕を叩く。
「一言一句、正確に答えろ。時田はいつ、どのようにお前に連絡し、何をしろと言った」
「はな……はなして……」
「もしもウソや隠し事が後から発覚したら」
私は右手を握って武石の顔に近づけた。
「この拳だけでお前をブチ殺す」
早く報告しないと!
私は指紋の照合結果をプリントアウトし、鑑識課を出ようとした。
その時、課の電話が鳴った。ドアに手をかけた私に、受話器を握った後輩の職員が声をかける。
「あ、安藤さん。捜査課の木野さんから電話です」
「木野さんから?私に?」
何だろう。仕事でもそんなに話したことないのに。とりあえず書類をデスクに置いて、私は受話器を取った。
「もしもし、お電話代わりました。安藤です」
「おお、安藤か。いてくれて良かった」
木野さんの野太い声が受話器から聞こえてきた。
「そりゃいますけど、どうかしたんですか?」
「聞き込みで報告したいことがあったんだけどよお、本部の電話も課長の携帯も誰も出ないんだよ」
「それは変ですね」
本部で課長が電話に出ないなんて。何かあったのかな。
「悪いけど、今から言うこと課長に直接報告してくれねえか?安藤は闇無の嬢ちゃんや灰川と一緒に、時田のことくわしく聞いたんだろ?」
「う……わかりました。伝えます」
私は手元にメモ帳とペンを引き寄せて構えた。まったく、あの課長は何をしてるんだろう。
「どうぞー」
「えー、まずホスピスから。写真を見せて職員たちに聞いたら、あっさり時田だと確認が取れた。責任者によると、半年前から入所してたけど、先月の末に急に退所したと」
「先月末、ですか」
佐野さんが時田と会った、四月十五日より後だ。
「時田は毎月十五日に、大事な人の月命日だという理由で一日外出していたそうだ」
「あ、だから佐野さんと会ってたのが十五日なんですね」
資料で見た六年前の幼女殺害事件。確か女の子が殺された日が十五日だった。口実なのか、本当に墓参りに行っていたのか。それは本人に聞かないとわからないけど。
「あとは別動隊が、近くの地下道でスプレーの練習跡を見つけた。他にも落書きがあるからわからないが、『ありがとう』って何百回も赤いスプレーで書いてあって、不気味なことこの上なかったそうだ」
「あ、それ見たくないです。何か物証は出そうですか?指紋とかDNAとか」
「いや、ホスピスは時田が退所した後、リネン類は全部クリーニングに出されて、部屋もすでに別人が使ってる。地下道の方もスプレーの分析くらいしかできねえな。一応鑑識はよこしてくれ」
「わかりました」
「退職届の指紋はどうだ?」
「タバコのヤニのおかげで、すぐに佐野さんの指紋が出ました。これで佐野さんが、灰川さんの引き出しを開けて封筒を見ていた裏付けが取れます。時田の犯行の根拠にはなりませんが、裁判では使えると思います。今から課長にまとめて報告しますね」
「そうか、ごくろうさん」
ごくろうさん?珍しい。木野さんてガサツで、そんな気遣いする人じゃないのに。
木野さんの口調が変わる。
「安藤よー」
「はい?」
「刑事としちゃ失格かもしれねえけどさ」
「はあ」
「ホスピスで時田のこと聞いてるうちに、色々考えちまったよ。行き過ぎた正義感から職を失って、病気になって。最期は好きな場所で死にたいって言って出て行ったらしいぜ。時田と直接の面識は無いけど、同じ刑事として身につまされちまったよ」
「……」
どうしてそんなこと私に言うんだろう。何と言っていいかわからない。
「だからよ、灰川のことが心配でな。退職願書くくらい思い詰めてたんだろ?お前が支えてやれよ」
「何で私に言うんですか?」
「灰川のことが好きなんだろ?」
「なっ……何のことですか?」
電話の向こうで笑い声が聞こえた。我ながら最悪のとぼけ方だ。自分がイヤになる。
「じゃあな。がんばれよ」
「木野さーん!」
ツーツーとしか言わなくなった受話器を、私は思いっきり叩きつけた。
床にへたりこんだ武石が、放心した顔で語り始めた。
「……寺町の現場に行った日、家に帰ってからマイクの散歩に行ったんです。一通り回って戻ってきたら、携帯に着信があって。佐野さんの名前が表示された時はすげーびびりましたけど、とりあえず出ました」
「時田からか」
「はい。『こんばんは、武石君。俺は時田春哉。面識は無いが君の先輩だ。犬好きの君には酷な現場だったね。すまない』って」
「すまない、か」
白々しい。ヘドが出る。
「それで、あんたがやったのかって言ったら、あっさり『そうだ』って答えました。すぐに切って本部に連絡しようとしたんですけど」
「おどされたのか」
武石はうなずいた。
「先回りするみたいに、『今切ったら君のポメラニアンを寺町の犬たちと同じ目に合わせる』って。散歩コースも全部言い当てられて」
「……あらかじめ、監視してたのか」
周到な男だ。では佐野を殺したのは衝動的ではなく、かなり早い段階で決めていたということか。
「それで、具体的な要求は?」
「今月の灰川の休日を、当日の急な休みも含めて必ず連絡すること。あとは闇無ちゃんはどんな子か。それだけです」
「それだけだと?捜査の進み具合や、本部の方針も連絡していたんじゃないのか?」
「そんなことしてません!本当に、灰川と闇無ちゃんのことだけで。それもこないだの下川町の事件の後連絡があって、『もういい。君の犬には何もしないよ』って。それっきり、何も連絡してこなくなりました」
ふざけてる。こんなバカな話があるか。
「本当か?ウソだったら許さんぞ」
「本当ですって!」
「時田は……その気になれば捜査の内情もお前から聞き出せたはずだ。なのにあえてしなかった」
私は右手を振りかぶり、思い切り壁に拳を叩きつけた。
「ひいいっ!ごめんなさいいっ!」
武石が体を丸める。
県警の、私の捜査など、時田は最初から相手にしていなかったというのか!
「あ、あの……」
声のした方を見ると、鑑識の安藤が入り口で書類を抱えたまま青い顔で硬直していた。
「何だ」
「武石さん、どうかしたんですか?」
「どうもしない。用件を言え」
「す、すみません。木野さんから、ホスピスで時田を確認できたことと、スプレーの練習場所が見つかったと連絡がありました。電話がつながらなかったとかで、私に連絡があって」
「そうか。それは悪かった」
「滞在していた部屋はすでに別の人が入っていて、DNAなどの物証は望めません。一応、スプレーで文字の練習をしていた地下道にはうちが向かいます」
「他には?」
「灰川さんが書いた退職願の封筒ですけど、佐野さんの指紋が検出されました」
「わかった。時田自身は見つかりそうか?」
安藤は首を振った。
「ホスピスを出た後の住居は見つかっていません。郵便の転居届も出してないそうで」
「……そうか」
どこだ?どこにいる?四件目の殺害の可能性もゼロじゃない。ガンの進行具合を考慮しても、わざわざ遠くへは行かないはずだ。何より、あれほどこだわっていた灰川から遠く離れるわけがない。
「あ、そうだ」
安藤が何かを思い出したようにつぶやく。
「何だ」
「いえ、あの、木野さんの話の中でチラッと出てきただけで、手がかりと言えるかどうかわからないんですけど……」
「何でもいい。早く言え」
つい口調がキツくなるが、気にしている暇はない。
「時田はホスピスを出る時、『最期は好きな場所で死にたい』って言ってたらしいです」
「好きな場所……」
私の脳裏に、必然的にある建物が浮かぶ。
「……九十九署だ」
「え、九十九署?」
今、九十九署にいるのは。
「課長!今九十九署には、灰川さんと闇無さんが戻ってます!」
安藤が叫ぶ。私は携帯電話を内ポケットから取り出した。
「武石、すぐに九十九署に連絡しろ!窓口でそれらしき人物が来なかったかどうか聞け」
「え?は、はいっ!」
「安藤は、灰川と闇無の番号を知っているな?両方かけてみろ」
「はい!」
「どちらかつながったら私に代われ」
「ど、どっちもつながらなかったら?」
安藤の質問に、私は答えた。
「つながらない時は……まずい状況ということになる」
その時、部下の一人が本部に勢い込んで走ってきた。
「課長!やばいです!ますいです!」
「何だ、今取り込み中だ。手短に言え」
中年刑事は息を整え、私に告げた。
「時田が登録してた派遣介護会社をガサ入れしたんですが」
「何か出たのか?」
「銃が十一丁、見つかりました。地元の暴力団に細かく卸してたようで、むしろ介護は隠れ蓑でそちらが主な収入源だったようです」
「なるほど。拘留時間を伸ばす理由になる」
携帯電話を耳にあてがう私に、刑事は続けた。
「それだけじゃないんです!取調室の川上代表に裏を取ったんですが、数が合わないって」
「……何だと」
私、安藤、武石の三人が刑事に注目する。
「銃は一ダース、十二丁仕入れたはずだって。一丁足りないんです!」
「……お久しぶりです、時田さん」
身を隠していたドアの陰から、俺はゆっくりと姿を現した。
両手で拳銃を構えた姿勢で。
窓際に、こわばった顔で立っている闇無。しまった。あいつにはまだ、銃が支給されてなかったっけ。
そして時田さんは部屋の壁際に後ずさり、俺と闇無の丁度中間の距離で三角形を作るように位置する。三人それぞれの距離は三メートルくらい。
二人で一度に飛びかかれば確保できそうだが、武器の所有が不確定で、うかつには動けない。何より時田さんは、ああ見えてかなり強い。
本部は気づくか?
「そうだな、久しぶりだ。元気だったか?」
細い温和な目は五年前から変わっていない。でも目の下はくぼんで、頬もこけている。顔色も青黒い。
「元気?よくそんなことが言えますね。白々しい。自分が何をしたかわかっていないんですか?」
懸命に抑えた声で俺は言った。時田さんは表情を変えずにこちらを向く。
「銃を下ろせよ。俺は丸腰だ。手持ちの最強の武器を簡単に見せるな。奥の手は最後に取っておけと教えたはずだ」
「確かに銃は持っていないかもしれない。でも何も武器を持っていないとは言っていない。常に慎重に行けと教えてくれたのはあなたですよ」
「まったく、融通が利かないところは変わらないな」
時田さんはため息をついた。
刑事課の電話が鳴った。遅れて俺の携帯、そして闇無の携帯も鳴る。それぞれの電話は電子音とメロディを定期的に流し続ける。
「出ないのか?」
時田さんの問いには答えない。今俺たちが本部にできる状況報告は、これしかないんだ。
「どうしてここに来たんですか?」
電話に構わず、俺は続ける。
「それはさっき言ったはずだ。そこで隠れて聞いていたんだろう?」
「ここで自殺する気ですか?」
闇無が大きな目を見開いて俺を見る。時田さんは足元を見て笑った。
「それもいいかもな」
ずっと黙っていた闇無が、おもむろに口を開いた。彼女にしては強い、鋭い口調で。
「どうして佐野さんをあんなふうに殺したんですか?」
時田さんは顔を上げ、微笑みながら闇無を見つめた。
「最初に見つかる死体は、少し猟奇っぽくした方がいいかと思って。すぐに佐野だとわかったら、灰川にとってもつまらないだろう。スプレーの演出とも合うし」
「それだけの、理由ですか?」
「そうだよ。刑事にとってやる気が出る条件は、身内が殺された時と、謎めいた現場だ。スプレーの文字はだいぶ練習したよ。まあまあ上手かっただろ?」
二階廊下の曲がり角で、ほんの一瞬何かが動く音がした。
闇無は気づいているか?時田さんは?
「闇無さんは頭がいいね。なぜ佐野をあんなふうに殺したか、だって?じゃあ殺した動機そのものは理解しているということかな」
「……おおむねは」
俺は言った。
「やめろ、闇無。この人と話すな。取りこまれるぞ!」
時田さんはおおげさに首を振った。
「ひどい言われようだ。可愛がった弟子に全く信用されていないなんて、俺は師匠として悲しいよ」
それには答えず、口を開きかけた俺を目で制して、闇無は続ける。
「六年前、刑務所に弁護士のフリをして幼女殺しの犯人栗野に会いに行き、あなたは彼を殺した」
時田さんが目を閉じて壁に寄りかかる。
「殺した、とは言い過ぎかもしれません。実際は、狂った動機で幼女を殺した男に、一種の呪いをかけに行ったのだと思います。天国へ送ってあげたと言い張る男を長く苦しめるために、
あの子は地獄へ落ちたと告げることで」
「うんうん。続けて」
「でも心臓がもともと弱かったのか、栗野はその場で発作を起こして死んでしまった。あなたは期せずして最初の殺人を成功させました」
「あれを殺人と言われるのは過大評価だなあ。単なる若気の至りだよ。我ながら馬鹿なことをやった。今だから言えることだけどね」
殺人が過大評価?
ダメだ。もうこの人は、俺の知ってる時田さんじゃない。
ただの狂った殺人鬼だ。
「あなたがここをやめてから五年間、何をしていたかは知りようがありません。でも、どこかの病院で半年前に末期の胃ガンの告知を受けた」
「ああ、そうだ」
「死に直面したあなたは、やり残したことはないかと考えた。そして思い至ったのが、灰川さんです」
銃を構える手に力がこもる。
「師匠として慕っていた灰川さんに何も告げぬまま、あなたは刑事を辞めた。その後五年間、灰川さんはショックで仕事への意欲を失い、ただの公務員に成り下がった」
「おい、言い過ぎだぞ」
たまらず俺が口をはさむと、時田さんは声を上げて笑った。その笑顔と笑い声は、五年前まで俺が見ていたものと同じで、みぞおちが急に苦しくなる。
俺は自分の銃を持つ手が、自然とゆるんでいくのを感じた。
「すまない、続けてくれ」
闇無が音を立てないように少しだけ窓に後退する。
「ホスピスに滞在することにしたあなたは、十五日のお墓参りで外出した時、どこかで佐野さんと偶然出会った。そして今灰川さんが佐野さんと組んでいることを知った。あなたは禁煙中でイライラしている佐野さんを見て、タバコ代を払う代わりに九十九署と灰川さんの現状を毎月十五日に教えてほしいと取引を持ち掛けた」
「見てきたように言うじゃないか。佐野がイライラしているとなぜわかった?」
「すぐにタバコ銭に飛びつくような時期なら、一番禁断症状が激しいと推測しました。ちがってますか?」
「いいや、合ってる」
時田さんは目を閉じて背中を壁に預けたまま、ずるずるとしゃがみこんだ。
「ついでに言うと、同じ時期に佐野の奥さんが愛人と一緒にいるところを見かけたよ。黙ってたけどね」
「その件については、また後で。四月十五日の秘密の集会で、あなたは佐野さんからある出来事を聞いた」
「……俺の、退職願か」
闇無がうなずく。
「そこで初めて、あなたは自分がやり残したことに気づいた。指導半ばで放り出してしまった愛弟子を、刑事を辞めるつもりでいる愛弟子を、もう一度刑事として立ち直らせること」
「そうはっきり言わないでくれよ。恥ずかしいじゃないか」
時田さんが目を閉じたまま言った。
闇無の言葉が突き刺さる。ああ、そうなんだ。認めたくなかった。できれば目をそらしたまま生きていたかった。
佐野さんがゴミのように殺されたのも、犬たちが無残に殺されたのも、アパートのおばあさんが殺されたのも。
全部、俺が退職願を書いたせいなんだ。
「時田さん、一つ聞きたいことがあります」
俺は言った。
「何だ?」
「もしも、何をしても俺が刑事を辞める決断を覆さなかったら、あなたのやったことはムダになります。それでよかったんですか?」
「別に構わないよ。そのための保険だ」
「保険……?」
闇無が「あっ」と声をあげた。
「つまり、もしも灰川さんが刑事を辞めたとしても、殺されたことで喜ぶ人間がいる。そういう人間を、意図して探してたんですね。あの『メドラーズ』に登録して」
「正解だ。君は冴えてるね」
「加東さんを殺さなかったのは、その保険が無かったからですか?」
「加東?ああ、あの探偵か。ちょろちょろ邪魔だったから警告するくらいの意味だったんだけど。いいところに入りすぎて、落としちゃった。無事回復したかい?」
「彼は大丈夫です。でもあなたには、殺人未遂の容疑も加わっています」
「役が増えたか」
時田さんが笑う。そして目を開けて、自分の手のひらを見つめる。
「佐野とは元々ウマが合わなくてね。あの男はガサツで、仕事にも身を入れていなかった。灰川の相棒としても失格だ。寺町の犬たちはずっとキャンキャンうるさかったなあ。灰川は知ってると思うけど、俺犬苦手なんだ。アパートのおばあさんも、寂しいのはわかるけどあれはやり過ぎだよ。あの人のおせっかいのせいで、住人がなかなか定着しないらしい。大家さんも困っていたよ」
「そんなの……殺す理由になりませんよ」
のどから絞り出すように、俺は言った。
確かに時田さんの言う通りだ。佐野さんはガサツで、いい加減で、俺の引き出しを勝手に開けて、その中身をタバコ代目当てでペラペラしゃべるような人間だ。
でも、でも確かに。
「佐野さんは!あなたがいなくなって抜け殻みたいになった俺を、唯一ありのまま受け入れてくれた人なんだ!それに俺はどれだけ救われたか!俺を見捨ててつらい現実から逃げ出したあなたに、佐野さんを悪く言う資格は無い!」
俺の大声に、時田さんが一瞬だけ俺への注意を多めに向ける。
窓際の闇無が、姿勢を低くして飛び出した。時田さんが窓際へ視線を戻した時、闇無は低い姿勢のまま時田さんの体に飛びついていた。
「闇無!」
俺は反射的に身をかわす時田さんに、銃を上に向けながら体をぶつけに行く。
闘牛士のように闇無をいなした時田さんは、銃を持つ俺の両腕に鋭い一撃を見舞ってきた。壁にストレートに頭をぶつけた闇無がそのまま昏倒する。
腕を襲う激痛に、銃を握る手が一瞬ゆるむ。
「甘い」
銃はあっという間に俺の手から離れ、時田さんの手に渡ってしまった。
倒れている闇無の腕を足で踏みつけ、床に這いつくばる俺へ銃口を向ける。
「灰川、お前には少し失望したよ。もう少し腕を上げていると期待していたのに」
心底悲しそうに、時田さんが俺を見つめた。
「……俺のやったことは、ムダだったみたいだな」
銃口がはっきりと俺に向く。トリガーに指がかかる。
「俺と一緒に、地獄に行くか?」
強烈な破裂音に、頭の痛みを忘れて私は振り向いた。腕が動かない。踏まれてる?
かすかに匂う火薬のにおい。
「灰川さん!」
叫んだとき、時田は舌打ちをして銃を脇へ捨てていた。
「空砲か。お前、何を考えて」
視線が切れたその瞬間に、灰川さんは背中へ手を回した。そして手にした筒状の容器のフタを開ける。
「……ライフガード?」
ライフガードのフタを開けた灰川さんは、時田の方へ口を向けた。
「うわっ!おい、何だ!」
ブシュウウウッ!と音を立て、中身が時田へ噴射される。思わず両腕で顔を覆い、はずみで私の腕から足がずれた。
「灰川さん!」
私はとっさに時田の足首をつかみ、全身で固定する。
「おおっ!」
灰川さんが床から立ち上がり、右手を振りかぶる。
「このバカ師匠!」
丁度顔をおおう腕を下げたタイミングで、灰川さんの拳が時田の顔面にめりこむ。
私が足の固定を外すと同時に、灰川さんと時田は重なるように床へ倒れ込んだ。
馬乗りになった灰川さんが、手錠を手に取った。
「……わざと弾を抜いていたな」
うつろな目で時田がつぶやく。
「銃を突きつければ、取り上げて形勢逆転を狙う。あなたはそういう人だ」
「かわいくない、生意気な弟子だ。そのうえ不遜だ。師匠にジュースをぶっかけた上、思いっきり殴りやがって」
「弟子に発砲した人に言われたくありませんね」
言って、灰川さんは時田の手首に手錠をかけた。
「時田春哉。二件の殺人、一件の殺人未遂、四件の器物破損の容疑で、あなたを逮捕します」
俺が時田さんに手錠をかけてすぐ、廊下から大勢の足音が聞こえてきた。
「灰川!」
聞き覚えのある声。課長か?
大量の捜査官が一気に刑事課になだれこんできた。捜査一課の木野刑事の顔もある。
「灰川、闇無!無事か!?」
珍しく血相を変えて、板東課長が俺たちを見つける。
「……お前が時田か」
時田さんは壁によりかかったまま座り込み、手錠のかかった両手を持ち上げた。そして腫れたほほを引きつらせて笑う。
「俺は一応、君の先輩なんだよ、板東君。階級は君が上だけど、頭の回転はこの闇無さんに劣るようだね」
「殺人犯に誉められようとは思わん。今のその姿が、お前の行動した結果だ」
「口の回転は早いじゃないか」
「木野、こいつを立たせろ」
板東課長は刑事たちにてきぱきと指示をして、やがて俺たちの前にしゃがみこんだ。
「よくやった。ケガは無いか?」
「俺は大丈夫ですけど」
答えて、隣の闇無を見る。
「私はちょっと、頭部にダメージを負いました」
闇無が両手を頭に置いて顔をしかめる。痛いなら触らなきゃいいのに。
壁にもたれかかったまま、俺は刑事二人にはさまれて立っている時田さんを見る。
「そういえば、課長はどうして時田さんがここにいるってわかったんですか?」
闇無がこりずに頭を触りながら聞いた。
「ああ、そうか。お前たちは聞いてなかったな。時田がホスピスを退所する時、『最期は一番好きな場所で死にたい』と言っていたらしい。それでピンときた」
「最期、ですか……」
やっぱり時田さんはここで死ぬつもりだったんだ。でもそれはかなわなかった。
俺が邪魔をした。でもそれは刑事としての、俺の責任だ。時田さんには残りわずかな命を刑務所で過ごしてもらうしかない。気の毒だけど、これもまた責任の取り方だ。
「なあ、木野刑事」
時田さんが隣の木野さんに話しかけている。
「何だ」
「俺、末期ガンなんだよね。一応被疑者にも人権はあるんだろ?立ってるのつらいから、そこのイスに座らせてくれないか」
木野さんは慌ただしく指示を飛ばしている課長をチラリと見て、
「わかった」
とひとこと言ってイスを引っ張ってきた。
「あ」
思わず声が出る。あのイス。
「どうかしました?」
闇無が目ざとく気づいて聞いてきた。
「いや、あのイスさ。時田さんがここにいた頃、席が移動しても絶対に譲らず持ち運んでたイスなんだよ。俺にはよくわかんないけど、座り心地が全然違うって、よく言ってた」
「へえ」
少し寂し気な目で、闇無も時田さんを見つめる。
「その時代の時田さんに、私も会ってみたかったです」
「もしその頃君がいたら、相棒は武石さんかな」
「げ。それはイヤです」
時田さんが満足げにイスに座り込む。座る部分の広い、キャスター付きの回るイス。子供みたいな笑顔で言ってたな。このイスの上は最高の場所だって。
「一番、好きな場所……」
刑事の一人が課長に報告に来た。
「課長、被疑者の体を一通り調べましたが、銃は見当たりません」
「本人には聞いたか」
「知らない、と」
銃?時田さんが銃を持っていた?じゃあ何で、さっき使わなかったんだ?
手錠のかかった時田さんの両手が、イスの真下に回る。俺は立ち上がって声を上げた。
「木野さん!時田さんが!」
課長が、木野さんが、そして捜査官みんなが注目する中。
イスの真下から取り出した拳銃を、時田さんは自分の腹に当てた。
「時田さん!」
今日二度目に聞いた破裂音は、間違いなく弾を発射した音だった。銃が床に落ち、時田さんがイスにぐったりともたれかかる。俺は時田さんに駆け寄り、体を揺さぶった。
「時田さん!何で!何でこんなこと!誰か救急車呼べ!」
白いシャツの腹部に血がにじみ、ゆっくりとその面積を広げていく。俺は両手で傷口を押さえる。
「時田さん!」
「灰川……ごめんなあ。ダメな師匠で」
「しゃべらなくていいですから!」
「ずっと、ずっと会いに来たかった。でも、無理だった。だから、ああするしかなかった」
「だからって!あんなことしなくたって!会って話して、社交辞令の『がんばれ』だけでも、俺はがんばれたのに!どうして、どうしてこんな……」
視界がぼやける。鼻水が垂れてくる。
時田さんの手が、震えながら俺のほほに触れた。
「刑事が……人殺しのために泣くなよ……バカな弟子だ」
そして苦しそうに首を曲げ、闇無を見た。
「闇が無いと書いて闇無か……いい相棒を見つけたな」
「もういいですから!」
何でだよ。
何でこんな。
「闇無……灰川を頼むよ。こいつは頭はいいのに、自信が無くてなかなか発揮できないんだ」
「……はい。頼まれました」
いつのまにか側に来ていた闇無が、血まみれの俺の手に自分の手を重ねる。
その顔は、ケガ人を助けようという意志よりも、去っていく者の言葉を一言も聞き漏らすまいという意志に満ちていて。
俺は涙をぬぐって、時田さんの手を握った。
「泣くなよ……は……灰川……大丈夫だから」
「何が大丈夫なんですか」
「もう……痛くないんだ……腹が……痛くない……」
「時田さん。言い残すことがあったら、俺が聞きます」
時田さんの目はもう俺を見ていなかった。何もない空を見つめながら、消え入りそうな声でつぶやく。
「やっと……あの子に……謝りに行ける……」
「時田さん!」
傷口をさらに押そうとした俺の手を、闇無が止めた。
「……」
彼女は黙って首を振る。
救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。
被疑者死亡、という結末で事件が幕を引いてからしばらくして、人事が一部動いた。
四月に発表された新体制から、まだ二か月しか経っていない。異例と言えば異例だが、事件の性質を考えれば仕方がない。
九十九署は署長以下管理職クラスが総とっかえで全員知らない顔に変わってしまった。しかし俺と闇無は、指示があるまで現状待機という形で、ここ最近はずっと地味な仕事に従事している。
放し飼いの犬に追いかけられてるとか、隣のおじいさんがわけのわからない理由で怒鳴り込んできたとか。そんなのばっかり。
武石さんは事件が終わった直後に「一身上の都合」とかで急に辞めてしまった。俺の方が先に辞めようと思ってたのに、まさか武石さんに先を越されるとは。
そしてあれから一か月後の今日、俺と闇無は県警本部に呼ばれていた。
「灰川さん、何でしょうね?臨時ボーナスとか?」
「お前はポジティブだな。うらやましいよ。俺は左遷しか頭にない」
角を曲がると、本部長室だ。通常所轄のヒラ刑事が直接呼ばれることは無い。だから俺はイヤな予感しかしていないのだ。
「あ」
「あ」
本部長室のドアの前に、見慣れた顔がいた。珍しく警官の制服を来ている。
「安藤、お前も呼ばれたのか?」
「おはようございます。闇無さんも」
「おはようございます。安藤さん、かっこいい!」
闇無に誉められ、安藤が「いやあ」と後頭部をかいた。そしてチラチラと俺に視線を送る。闇無も俺の背中を気づかれないようにつついてくる。
あえて言おう。めんどくさいと!
「あー、えーと、何だ、その。……新鮮だな」
「それは誉め言葉ですか?」
安藤が眉間にしわを寄せた時、本部長室のドアが開いた。
中から秘書らしき男性が顔を見せる。
「入れ」
「失礼しまーす」
何となく声を合わせて本部長室に入ると、やはり見慣れた顔と、全く見たことのない顔が二つ出迎えた。
「板東課長!」
「久しぶりだな。灰川、闇無、安藤。とりあえず座れ」
相変わらず端正でクールな板東課長が机の前に立ち、やけに雰囲気のあるやせた初老男性が座っていた。長めの髪は白いものが混じっていて、やけに日に焼けている。サーフィンでもやってるのか。
「……ん?」
闇無が用意されていたイスにおとなしく座り、ずっと下を向いている。どうしたんだろう。
「闇無。気分が悪いのか?」
「い、いえ。大丈夫です。お気遣いなく」
「さて、もういいかな。初めまして。私が新しい県警本部長の魚石だ」
新本部長が口を開いた。低めの渋い声だ。
「ここに君らを集めたのは、我がA県警本部に新しい特別捜査チームを作ることになったからだ」
「チーム……ですか?」
思わず隣の安藤と顔を見合わせる。闇無は下を向いたままだ。
「あの、質問よろしいですか?」
「何だ」
俺は一つ深呼吸して口を開いた。
「それは、人事異動の一環として、もう決定している事項ですか?」
「そう取ってもらっていい」
「なぜ私が?キャリアでもありませんし、特別優秀な実績も残していません」
「人選は、ここにいいる板東君の意見を主に採用している」
視線を板東課長に向ける。
「例の件での君の働きを、私は評価している。新チームは主にプロファイリングを捜査の中心に据えるつもりだ。闇無の人選は言うまでもないだろう」
「でも」
俺と課長には本部長は闇無に声をかけた。
「こら乃衣。いつまで恥ずかしがってるんだ。顔を上げろ」
「うー……」
闇無がゆっくりと顔を上げる。こんなに苦々しい赤面は生まれて初めて見た。
「あの、今乃衣って、名前で呼びませんでした?」
「その子は私の姪っ子だ。FBIに行けたのも、私のコネというわけだ。ワハハハハ」
「伯父さん!そんなことまでしゃべらなくていいですから!」
「あ、そうか」
闇無が九十九署に来た時、武石さんが言ってた。闇無は元々警視庁で立ち上げ予定だったプロファイリングチームの一員になるはずだったけど、推進者が社内政治で負けてポシャったと。つまりその時の推進者がこの伯父である魚石本部長であり、今回の新人事のドサクサで県警本部長に降りてきて、一度ポシャったプロファイリングチームをA県警で改めて作るつもりなのだ。
「あの……私はなぜでしょう?」
安藤が恐る恐る手を上げて聞いた。
「安藤君は、変人ぞろいの鑑識課で唯一話ができる人材だと聞いている。チームと言っても、もちろん県警各部署と連携するわけだから、その知識と技術と社会性を発揮してがんばってほしい」
「……もう一つ釈然としませんが、了解しました。全力を尽くします」
「そして」
黙って立っていた板東課長が、一歩前に出る。
「私が新チームのリーダー、板東だ。自己紹介するまでもないな。これからは課長ではなく、チーフとなった」
「それは降格ですか?」
あっさり立ち直った闇無がズバリと聞いた。もうイヤだ、この子。
案の定、眉毛を片方上げた板東課長改めチーフは、変わらぬ口調で答えた。
「昇格も降格も無い。異動だ」
「わかりました。ではこの四人で、新チームのスタートなんですね。伯父さん、所属は正式にはどうなるんですか?」
「ここでは本部長と呼べ」
「先に乃衣って言ったくせに」
「もういい、わかったわかった。所属は本部長付だ。私の直属という扱いだ。だいぶ権限が広がるぞ」
喜ぶ闇無を横目に、俺はこないだ書き直した新しい退職願をやぶり捨てようと思った。
もうちょっとだけ、がんばってみようか。
「灰川さん、安藤さん、これからがんばりましょうね!」
闇無が拳を握りしめて目を輝かせる。
「あはは……私、急すぎてちょっとついていけてないけど、仕事自体は今までと同じ鑑識でいいのかな」
「いいんじゃないか?これからもよろしくな、コネがあると書いて闇無」
「おかしな異名を作らないでください!」
「おい、もうそのくらいにしろ」
板東チーフが顔をしかめてその場をしめる。
「それとだ、大事な案件がもう一つある」
本部長が改まって言った。
「せっかく新チームを立ち上げるのだから、チーム名をつけたいと思うんだが」
本部長の視線が俺で止まる。
「灰川、何かないか?」
数秒間頭を働かせ、俺は口を開いた。
不謹慎かな。でもいいや。これが俺の本心だ。
「俺、いや、私には、尊敬する師匠がいました。先日、道を踏み外して亡くなりましたが」
「うん。聞いているよ。君にはつらい事件だった」
「ありがとうございます。もし許可をいただければですが、彼を忘れないために師を意味する言葉をチーム名にしたいと思います」
「ほう。それは?」
俺の頭には六年前までの優しい時田さんの顔が浮かんでいる。
「ラテン語で師匠を意味する言葉です」
俺は言った。
「マギステル!」
おわり




