第11話「discipulus(弟子)」
しばらくの間イスに座り込んで、灰川さんは動かなくなった。私も安藤さんも、何て言葉をかけていいのかわからず、ただ立ち尽くしている。
「灰川」
課長が灰川さんにスッと近づいて言った。灰川さんはうつむいたままだ。課長は一度チラッと私を見て、続けた。
「その退職願はまだ引き出しにあるのか?」
「…………はい」
「だったら、今から行って取って来い。佐野の指紋が出るかもしれん」
灰川さんはゆっくりと顔を上げた。
「どうして……」
「時田の本当の動機が何なのかは、今のところ本人に聞かないとわからない。だが自分の書いた退職願が原因かもと考えているのなら、調べて裏を取れ」
課長は言った。
「それが刑事の仕事だ」
「刑事……」
「だがもしその退職願を文字通りの意味で私に提出する気なら、今すぐ家に帰れ。他の者に取りに行かせる」
言って、課長は灰川さんの両肩をつかみ、意外なパワフルさでイスから立たせた。
「お前は刑事か?」
灰川さんが泣きそうな顔になっている。
「俺は……俺は……まだ、刑事です」
「だったらさっさと行け。安藤、君が同行してくれ。運転も君がするんだ」
「へっ?あっ、はい、わかりました!」
心配そうな安藤さんに連れられて、放心状態の灰川さんは捜査本部を出て行った。
「何で安藤さんなんですか?相棒は私なのに」
二人が出て行ってからしばらくして、私は課長に抗議した。これはやきもちではない。立場の問題だ。繰り返す。やきもちではない。
「指紋を調べるのは鑑識の仕事だから、安藤が行った方が早い。それに」
「それに?」
課長はイスを一つ引きずって来て、私の前に座って長い脚を組んだ。
「灰川の退職願が一体何だと言うんだ。私には、時田という男の思考がどうしても読めない。お前はいくらか分かっているのだろう?さっさと話せ、全部だ」
呼び方が「君」から「お前」になった。段々本性が出てきたな、クソアイスメガネ。
私も一つ、イスをずるずる引っ張って来る。そして課長の正面に置いて、同じく足を組んで座る。
「話しますけど、理解できなくても怒らないでくださいね?」
私が運転している間ずっと、灰川さんは助手席からぼんやりと外を眺めている。どうしよう。こんな時、何て声をかけたらいいのかわからない。今さら天気の話も白々しいし。
それより何より、私にとっては灰川さんが退職願を書いていたことの方がショックだった。
そりゃ、悩み事を何でも話すほどの友達だったわけじゃない。そもそも私は後輩だし。話す時間も仕事の用事がなければほぼゼロだ。
好きな人が落ち込んでいる時に何もできないって、すごい無力感。
「あの、灰川さん?」
「……うん」
灰川さんは外を見ながらかろうじて返事をくれた。
「し、仕事、本当に辞めるつもりだったんですか?」
「……」
ああ、何言ってるんだ、私。一番気になることが口から出ちゃった。もっと励まさなきゃいけないのに。
でも灰川さんは気にしたふうでもなく、力の無い声を出した。
「そうだな……確かに、辞めようかなとは思ってた」
「……そうなんですか」
あっさり認めた。
「でも、他にやりたいことがあったわけじゃないし、転職先を探してたわけでもない」
「あはははは。それじゃただのプーになっちゃいますよ」
「……そうだな」
スベった!我ながら白々しいとは思ったけどさ。
「逃げたかっただけなのかもしれない」
さっきよりも少しだけはっきりした声で、灰川さんが言った。
「何からですか?」
「多分、今の生活、人生全てから。何で毎日、こんなことやってるんだろうって。何のために、惰性で刑事を続けてるのか。時田さんがいなくなってからの五年間、ずっと考えてた」
「そんなにショックだったんですか?時田さんが辞めたこと」
「うん。急に師匠がいなくなって、目標が無くなったというか」
言うべきか、やめるべきか。嫌われちゃうかな。でもいいや。私、闇無さんとちがってご飯に誘われたりしてないし。きっと私のことなんて何とも思ってないんだ。そもそも、何で私この人のこと好きになったんだろう。
「灰川さん」
「ん?」
「私は、灰川さんは人の気持ちがわかるいい人だと思います」
「何だよ、いきなり」
「でも、時田さんのことになると、少し冷静さを失って、見えなくなってるものがあります」
「……聞かせてくれ」
「時田さんの方の気持ちです」
ちらりと助手席を見る。
「だって、そんなにも師匠として慕ってたのなら、時田さんにとっても灰川さんは可愛い弟子だったはずですよね?なのに黙って辞めてしまったら、絶対に心残りだったと思うんです」
「別れのあいさつのことか?そんなの本人がスッキリしたいだけだろ」
「ちがいますよ!師匠としてです。刑事として、まだまだ弟子に教えたいことが一杯あったんじゃないかなって」
「……」
「もしも時田さんが本当に佐野さんを殺した犯人だったら、そんなふうに思えないかもしれませんけど。でも、だからって簡単に辞めるなんて」
「心残り……」
「え?」
灰川さんが拳を口に当てて、足元を見つめている。運転している私の存在など忘れたようにつぶやき続ける。
「師匠……刑事……弟子……退職届……」
その横顔は、ついさっきまでの腐抜けた顔とは別人の、考えることのみに集中している顔。思い出した。
この横顔を見た時、私は彼を好きだと自覚したんだった。
「胃ガン……赤いスプレー……メッセージ……おそいぞ……」
「灰川さん?大丈夫ですか?」
好きな横顔だとはいえ、あまり長くブツブツ言っていると心配になる。
「イカれてる……完全にイカれてる」
「誰?犯人ですか?」
話が見えませんよ、灰川さん。
彼は背もたれから体を一気に起こすと、手を伸ばしてサイレンのスイッチを押した。けたたましいあの音が路上に鳴り響く。
「何するんですか、いきなり」
「信号全部ぶっ飛ばしてなるべく早く九十九署に行ってくれ。すぐに封筒取ってきて本部に戻るから、安藤は指紋を頼む」
「それはわかりましたけど、急にどうしたんですか?」
聞きながら、私はグイッとアクセルを踏みしめる。灰川さんがマイクを取って道を開けるようドライバーたちに告げている。路肩に寄って行く車の間をスイスイと抜けていく。
マイクのスイッチを切って、灰川さんは私を見て笑った。
「ありがとな。安藤のおかげで、何となく時田さんの意図が見えた気がする」
「私には何も見えませんけど、とにかくお役に立てたのなら良かったです」
「感謝してる。今度晩飯おごるよ」
「……本当ですか?」
「そんなことで嘘はつかない」
見ると、灰川さんはスマホでしきりに誰かを呼び出している。
「くっそ、何で出ないんだ、あいつ」
「あいつって、闇無さん?」
「そうだ。念のため、勝手に動くなって釘刺そうと思ったのに」
車両が九十九署の駐車場に着いた。
「すぐ取ってくるから、待っててくれ」
そう言って灰川さんは、私を残してダッシュで署に入って行った。
運転席から彼の背中を見送り、しばらくぼんやりと前方を眺める。
やだなあ、こういう時間。ホラー映画だと、こうやって一人で待ってる時によく殺されるんだよね。早く戻ってこないかな。
そんなことを思っていた時。
「きゃあああああああっ!」
私は人生でそう何度も無い悲鳴というものを上げてしまった。フロントガラスに、男の顔がベッタリと張り付いていたのだ。
安藤のものすごい悲鳴を聞いて、俺は封筒を持って署を飛び出した。全速力で駐車場へ向かう。
一人になんてするんじゃなかった!だってもし、もし時田さんの目的が遂行されていないのなら。
俺と一緒にいる相手は危険なはずなんだ。
「安藤!」
車両の外で、安藤と男が向かい合っている。何だか安藤が一方的にまくし立てているように見えるが。
相手は……武石さん?何してるんだ、あんなところで。
「どうかしたんですか?」
とりあえず安心して声をかける。
武石さんは口をとがらせて俺に言った。
「おいおい灰川あ、知可ちゃんがひどいんだよ。ちょっとおどかしただけなのに、すんげー怒られちゃった」
「本当に心臓止まるかと思ったんですよ!マリアナ海溝より深く反省してください!」
ムチャクチャ言ってる。でも一人で待たせた俺のせいでもある。
「まあまあ、安藤もこらえてくれ。その代わり武石さんには時田さん探索で汗をかいてもらうから」
「何だよそれ。聞いてねえぞ。何で時田さんなんて探すんだよ」
「どうせすぐ課長から招集かかりますよ。前もって行きましょう。安藤、帰りは俺が運転する」
「灰川さんは武石さんに甘すぎます」
まだぶつぶつ言いながら、安藤は助手席に乗り込んだ。武石さんも後部座席に乗り込んだのを確認して、俺は運転席のドアを開けた。
「あ」
乗り込んだ俺を見て、安藤が声をあげる。視線の先には、封筒と一緒に引き出しから取ってきたものが腰に下がっている。
「拳銃、取ってきたんですか?」
「ああ、一応ね」
言って、俺はドアを閉めてエンジンを始動する。
俺のせいだ。
俺のせいで、佐野さんが。かわいそうな犬たちが。何の罪もないおばあさんが。
俺が、責任を取らなきゃいけないんだ。
「……本気で言っているのか?」
目の前でふんぞり返っている闇無を見て、私は言った。
「怒らないでくださいよ!私先に言いましたからね」
「そんなことで、いちいち怒ったりはしない」
そんな動機がありえるのか?むちゃくちゃだ。そんな犯人は聞いたことがない。
しかし、刑務所のビデオでの常軌を逸した行動。胃ガンではないかという報告。スプレーのわざとらしいメッセージ。佐野だけ一目では誰かわからないようにしていた死体損壊。
全ては、灰川を中心に回っていたのか。
いや、それは私も気づいていたはずだ。すべてどこかに灰川が絡んでいると。
「それで、お前はこの後何か企んでいるのか?」
私が聞くと、闇無は露骨にムッとした顔になる。
「企んでいるってどういう意味ですか!課長こそ、今後どう捜査を続けるつもりですか?自分で言うのもなんですが、今私が話した内容は、逮捕の決め手になりませんし、犯人の居所を突き止める手がかりにもなりません」
「そんなことは分かっている。灰川はどこまで知っている?」
「わかりませんけど、退職願を佐野さんが見ていた可能性を話しただけでショックを受けていましたから、すぐに思い至るはずです」
言って、闇無は一つため息をついた。
「でも灰川さん、自分のことには鈍感なタイプですから、何かヒントがないとずっと気づかなそうですけど」
言い終わると同時に、捜査本部のドアが開いた。
灰川と安藤が帰ってきた。後ろにはなぜか九十九署の武石もいる。
特に呼ぶ気は無かったが、なぜいるのだ。
「おかえりなさい!」
私が駆け寄ると、灰川さんは不機嫌な顔で「おかえりじゃない」と言い返した。
落ち込んだ状態からは脱したみたいだけど、今度はご機嫌斜めだ。
「何度も電話したんだぞ。ちゃんと見ろよ」
あ、まずい。
「すいません。マナーモードにしてて気づきませんでした」
「ここにいるなら別にいいけど。あ、安藤、着いてすぐだけど、これ鑑識に頼む」
「はい、わかりました。行ってきます」
安藤さんが封筒の入った証拠袋を受け取り、本部を出て行った。
確かに、封筒には退職願と書いてあった。どこまで本気で、これを書いたんだろう。
「灰川さん、一つ聞かせてください」
私は言った。
「何だよ」
「退職願を書いて引き出しに入れたのは、いつですか?できるだけ正確に」
「……今年度の頭だ。四月上旬」
「四月十五日よりは前ということですね?」
「ああ、そうだけど……あっ」
私はうなずいた。
「四月上旬に、佐野さんは何かお菓子が無いかと灰川さんの机の引き出しを勝手に開けた。そこで偶然退職願の封筒を見つけたんです」
課長が続ける。
「その後、佐野は四月十五日に時田と会って、そのことを時田に話した」
ちらりと灰川さんを見る。何となくつらそうなのは同じだけど、さっきまでとは違ってどこか吹っ切れたような雰囲気がある。
課長が立ち上がって言った。
「今外にいる捜査員全員に、刑務所の防犯ビデオからキャプチャーした時田の顔写真を画像データで送った。時田が登録していた『メドラーズ』の川上に見せて本人だと確認済みだ。そこの地図上の三角形の範囲にあるアパート、マンション、病院、老人保健施設、ホームレスのシェルターまで当たらせている」
「老人ホームもですか?『メドラーズ』はモグリだから公的施設には行ってないと思うんですけど」
私が聞くと、武石さんがポンと手を打った。
「おお、なるほど。闇無ちゃん、老人ホームの中には末期の人のための緩和ケア施設を兼ねてるところもあるんだよ。そこにいたことがあるかもしれない」
「ホスピス、ですか」
灰川さんがつぶやく。そして一歩前へ踏み出し、課長に言った。
「課長、指示を下さい。俺たちはどこを探せばいいんですか?」
私も並んで課長を見つめた。
「灰川は、できれば動かない方がいい」
「動かない方がって……」
「君は時田に近すぎる。思い出せ。下川町では、以前時田が住んでいたアパートを君が見に行くのを先回りするかのように殺人が起きた。ここでうかつに動けば、四つ目の事件が起きる可能性がある」
「そんな……」
灰川さんが近くの机に腰をかける。
すぐそこに、手が届くところにいるかもしれないのに、探しに行ってはいけない。
何もできない。
無力な自分。
誰も来ない会議室で、西日を浴びて独りぼっちで座っていた時。
私もあんな顔をしていたのかな。
「あの、課長。提案が」
右手を上げた私を、課長がさえぎった。
「お前も同様だ。とりあえず二人で九十九署に戻れ。捜査は当初の予定通り、一課を中心に行う」
「私もですか!?」
運転席の灰川さんも、助手席の私も、一言も口を開かないまま、車は九十九署に着いてしまった。
「……私、悔しいです」
「俺もだよ」
灰川さんはシートベルトを外しながら言った。
「怒るなよ」
「何がですか?」
「ちょっとだけ、ホッとした気持ちもある」
「捜査から外されてですか!?」
この腰抜け男!
「そうじゃない。俺がさっき君に何度も電話したのは、時田さんをおびき出すために自分がおとりになるとか、そんなこと言い出して一人で飛び出して行くんじゃないかって思ったからだ」
おとり。さっき私が課長に提案しようとしていたのはまさしくそれだ。
「えっと……一応、心配してくれてありがとうございます」
言うと、灰川さんはそっぽを向いて小さな声で言った。
「もう、相棒を失うのはいやだからな」
「え、今何て」
「何も言ってないよ」
「相棒って言いましたよね!?言いましたよね!?」
「うるさいな、さっさと降りろ。俺は外の自販機で何か買ってくから、先に戻って地図広げといてくれ」
「地図ですか?」
「捜査には出られなくても、地理的プロファイリングは進められるだろ」
なるほど。意外と前向きだ。ちょっと安心した。
私は一人で車から降りて署に入り、二階の刑事課へ向かおうとした。
「お、闇無ちゃん。おかえり」
受付に座る交通課のおじさんが声をかけてきた。
「不本意ながら戻されました。やっぱり県警の一課を中心に捜査するって」
「気にすんなよう。ローカル署の扱いなんていつもそんなものさ」
「そうですね」
「そういや、灰川君は体調悪いの?」
「へ?何でですか?」
おじさんは首をひねって二階を見上げた。
「だってさっき一人で先に帰って来たけど、でっかいマスクつけて背中丸めてたからさ。あ、ちょっと、闇無ちゃん!走っちゃ危ない!」
私は全速力で階段を駆け上がった。色気が無いと言われながらも、スニーカーで通してて良かった。
灰川さんは外の自販機で飲み物を買っている。
じゃあ、今刑事課にいるのは。
「……あれ?」
刑事課のドアを開けると、そこには誰もいなかった。それはそうか。動ける人はみんな県警本部に呼ばれて犯人探索に駆り出されているんだ。
「……」
背後からふわりと、鼻につくにおい。
ゆで卵。温泉。
硫黄。
私は前方に身を投げ出し、前転して反対方向に向き直った。
「なかなか勘がいいな、クラナシさん。闇が無いと書いてクラナシ、だったかな。もし口臭で不快な思いをさせていたら、すまない。どうしても消えなくて」
「あなたが……」
いかにも灰川さんが着てそうなダークグレーのスーツ。中肉中背で、目が細くて、温和な笑みを浮かべた口元。頬がこけて目の下はクマができているけど、目の光は恐ろしいほどに強い。
心臓が忙しく動く。脚が震えて動かない。
「と、と、とき……」
「電話では話したけど、会うのは初めてだね。会えて嬉しいよ」
男は笑みをたたえたまま続けた。
「はじめまして、時田春哉だ」
つづく




