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第10話「inferos(地獄)」

証拠保管室。県警本部一階の奥の奥。来るのは何年ぶりだろうか。

最も、捜査課長自らがわざわざ出向くこと自体通常ありえない。もしもそんな課長がいるとしたら。

そこまで考えて、私は笑った。

そんな課長は、きっと悪事を考えているに違いない。

私は退屈そうに机に向かう若い男性職員に声をかける。胸の名札には蜂谷(はちや)とあった。

「出してもらいたいものがある」

「え?」

蜂谷が顔を上げる。

「ば、板東課長……」

一瞬ポカンと口を開き、背筋が伸びる。ふむ、まだ見どころがあるか。

「探したい物がある。6年前の事件の証拠、資料の一切だ」

「ええと、あの、わ、わかりました。資料番号をおっしゃってください」

私は口頭で番号を伝える。蜂谷はパソコン画面に向き直った。

「ちょっと待って下さいね……あ、ありました。あれ?何だこれ」

言うと、画面と私の顔を交互に見て、静かに手元の受話器に手を伸ばす。

「止まれ」

私が言うと、蜂谷はビクッとして手を止めた。

「どこに連絡する気だ」

「いえあの、番号で検索したら、この事件の証拠を求められたら本部長に連絡しろと、特別な注意書きが」

「捜査課長の私が出せと言っている。どこにも連絡する必要はない」

「し、しかし。命令違反になります」

「私に銃で脅されたと言えばいい」

「あはははは、またぁ。そんな、上司にウソをつくわけには」

「ウソだと思うか?」

私は手にした金属の筒を蜂谷の後頭部にコツンとあてがう。蜂谷はビクッと体を震わせ、両手を上げた。

「あの、課長。それは」

「扉を開けて、大体の場所を言え。後は私が勝手に探す。全て私のせいにすればいい」

「はははい、わ、わかりました」

歯をカチカチ言わせながら、蜂谷は場所を告げた。そしてマウスを操作する。

「鍵が開きました。入れます」

「そうか。悪かったな」

ゆっくりと振り向く彼に、私は手にしたLEDライトを見せた。

「あ、ライト」

「銃など冗談でも人には向けない。常識だ」

「なぜ……こんなことを」

「さあな」

私は言った。

「自分で思っていたよりも、現場が好きなのかもしれない」


「闇無」

車を走らせながら、灰川さんが呼んだ。

「はい」

答えて、私は助手席から横目で灰川さんをうかがった。

時田さんが胃ガンかもしれない、と聞いて灰川さんはどう思ったかな。

「加東を襲った男と、佐野さんの奥さんが会った男は、まず同一人物で間違いないと思う」

「はい、私もそう思います」

「顔写真が無いから確認はできないけど……きっと、時田さんだ」

私は黙った。尊敬し、慕っていた師匠のような人が容疑者だと認めるのは、きっとつらいと思う。

こういう時、どんな気休めも多分効果は無い。

「それで、プロファイラーの君に聞きたいんだけど」

「は、はい」

からかう感じではなく、真面目にプロファイラーって言われた。どうしよう、緊張してきた。

「ガンの告知っていうのは、殺人の直接の動機になりえるか?」

「……」

「聞いてる?」

「き、聞いてます、聞いてます。えっと、そうですね。命に関わる病気を告知されて、自暴自棄になって犯罪行為に走った例はたくさんあります」

「そっか……」

「でも、そのほとんどは衝動的な破壊活動で、今回の事件は少し性格がちがうと思います」

「つまり、行動を起こすきっかけにはなっても、犯罪の内容はまた別の動機があるということか」

「ええ」

灰川さんは冷静だ。冷静であろうとしている。そこにどれだけの精神力が必要なのか、私にはわからない。

「現時点の、俺の考えを聞いてくれるか?」

「もちろんです!聞かせてください」

「どこの病院でかはわからないけど、時田さんは胃がんを告知された。それは半年前だと思う」

「半年前というと……佐野さんが禁煙を中止してタバコをカートンで買い出した頃ですね」

「そうだ。その辺から、手帳に"T"の文字が出始める。だからガンの告知をきっかけに、時田さんは佐野さんと何らかの手段で連絡を取ったか直接会うなりして、毎月定期的に会う約束をかわした」

「何のために?」

「具体的にはわからないけど、寂しさをまぎらわすために職場の話や昔話をしてたんじゃないかと思う。佐野さんも交友関係がせまい人だったけど、時田さんはもっとひどかったんだ。ずっと独身だったし、恋人も友達もいなかった。職場でも浮いてるというか孤立してて、親しく話してたのは多分俺だけだ。その分、可愛がってもらったんだけど」

「はい」

「時田さんと佐野さんも、それほど仲が良いってわけじゃなかったんだけどね。佐野さんから見たら、時田さんは仕事ができるけど自分のことを見下してるいけ好かない後輩って感じだったんじゃないかな。実際見下してたし」

「見下してたんですか」

「そこで時田さんは、毎月佐野さんにお金を払って会ってたんだ。話を聞くために。そのお金で佐野さんはタバコをカートンで買うようになった」

筋は通る。ただ、まだはっきりとした目的がわからない。

「佐野さんは……時田さんの病気のこと、知ってたと思いますか?」

「知らなかったと思いたいな。知ってて足元見てたんなら、佐野さんは本物のクズだ」

「……ノーコメントでお願いします」

さっきはあの身勝手な奥さんに腹も立ったけど、佐野さんがあまり誉められた人間性じゃなかったとしたら、浮気したくなる気持ちも分かる気がした。

「今さら言っても仕方ないけどさ」

「はい」

灰川さんがポツリと言った。

「時田さん、何で俺に連絡してくれなかったんだろう」


車が県警本部に差し掛かる。

「何だあれ」

灰川さんが声をあげる。県警の前に、マスコミらしき集団がたむろしていた。

「何か進展あったのかな?」

「ネット見てみます」

私はスマホを取り出し、早くつながるようにスマホを振りながらネットニュースを調べる。

「あ」

「何だ?」

「赤いスプレーのメッセージ、画像が流れちゃったみたいです」

「マジでか」

三つの事件現場に残されていたメッセージは、今まで一切公表されていなかった。模倣犯やいたずらのせいで捜査が混乱するのを防ぐためと、犯人しか知らない事実にしておくことが主な理由だ。

「どこのメッセージが流れたんだ?」

「寺町の犬の事件です。あの現場は大きな蔵の壁に書かれていたので、野次馬の中に写真を撮った人がいたのかもしれません」

あの時、現場では早めに幕を張って野次馬が見られないようにしたはずだけど。そういえば蔵の前で死んでいたのは野良犬だったから、最後に発見したって武石さんが言ってた。

「やばいな、正面から行ったら囲まれるかも。裏から入ろう」

「はい」

灰川さんがウインカーを出しなおす。

私の頭の中に、歯にはさまった鶏肉のようなスッキリしないものがグルグル回っている。何かおかしい。赤いスプレーのメッセージ。今回初めて世に流れたメッセージ。

あのメッセージが伝えたいこと。

「……見てない」

「え?」

ハンドルを切りながら、灰川さんが言った。

「何を見てないって?」

「あのメッセージです。佐野さんの現場のメッセージは、殺した佐野さんに宛てられたもの。寺町は、現場付近で犬の鳴き声に困っている受験生に宛てたもの。下川町のアパートは、おばあさんのおせっかいに困ってる隣の学生に宛てたもの。そう言ってましたよね?」

「そうだよ。間違ってないだろ」

「でも、宛てた相手は一般人です。あのメッセージは、宛てられた相手には一切伝わってないんですよ。公表してないから」

「あっ……」

裏口に入り、車を停める。エンジンを切って、灰川さんが静かに言った。

「じゃあ……あのメッセージは誰に向けて書いたんだ?」

私は黙って彼を見つめた。

「犯人が時田さんなら、全てのメッセージは灰川さんに宛てられたものだと思います」


マスコミに見つからないように県警に戻ると、操作本部で安藤が待っていた。

「あ、灰川さん!」

「よう」

俺が手を上げると、安藤はなぜか焦り気味だった。

「板東課長からの伝言です。帰ってきたら至急第二会議室に来いって」

何だ、忙しいな。

「わかった。闇無、行くぞ」

「はい」

「あ、ちょっと待って」

安藤が闇無を止める。

「闇無さんは、私と別件の指示が出てるの」

「別件?」

安藤は手にしていた大きな紙を広げた。

「地図」

「そう。板東課長が言ってたこと、そのまま伝えるね。仮にもプロファイラーなら、犯人の居所を絞り込む地理的プロファイリングくらいやってみろ、って」

「くっ……相変わらず言い方が腹立つ」

露骨に不機嫌になった闇無を後に残し、俺は第二会議室へ向かった。


あのメッセージは全部俺宛て?そんなバカな。闇無の考え過ぎだ。あんなもの俺に宛てられたって、どうしようもないじゃないか。

俺はいったん考えるのをやめた。今から会うのは、考え事をしながら話せる相手じゃないからだ。

第二会議室に入ると、板東課長が段ボール箱の中をゴソゴソとあさくっていた。俺に気づいて手を止める。

「来たか」

「何してるんですか?」

「昨日話しただろう。六年前、時田春哉が弁護士に成りすまして刑務所に侵入した件だ」

「あ……栗野に会いに行って、それで栗野が心臓マヒで」

「そうだ。しかしその事件は公にはされなかった。栗野が病死だったことも理由の一つだが、もう一つあった」

「何ですか?」

「座れ」

課長はノートパソコンを開き、DVDドライブを接続した。そしてドライブに一枚のディスクをセットする。

俺は言われた通り、パソコンの画面が見える角度に腰を下ろす。課長がパソコンの正面に座り、キーボードを操作する。

「知ってみれば単純な話だ。極秘にした理由に時田は関係なかった。関わっていた刑務所の刑務官や、警備責任者がコネで採用された者ばかりで、今そいつらはそれなりに出世している」

「なるほど」

侵入したニセ弁護士と面会した受刑者が、何らかの理由で発作を起こして病死した。現職刑事が身分を偽って侵入したことは事件だけど、それ以上のものではない。要は、それくらいの小さなミスで、決まっている出世コースの邪魔をされたくないということか。誰かの指示か、それとも自主的な気配りかは知らないが、用心深いことだ。臆病と言ってもいい。

「でも課長」

「何だ」

「極秘ってことは、ここに証拠物件持ってきていること自体やばいんじゃないですか?」

「そうだな。だが責めを受けるのは私だ。気にするな」

「どうしてそこまで」

「犯罪捜査に必要だからだ」

課長は大真面目だ。初めて話した時、殺された佐野さんに秘密やスキャンダルが無かったか聞かれた。それは組織を守るため冷淡な行動かと思っていたけど、捜査のためにマスコミよりも先に事実を確認したかっただけなのかもしれない。

「そんなやばい件に、俺を呼んだのは?」

「我々は時田の顔写真を一枚も持っていない。それゆえ聞き込みもはかどらない。刑務所で時田が捕まった時」

「あ、カメラ」

「そうだ」

課長がうなずく。

「防犯カメラに時田の顔が映った。このDVDがそうだ。そこで、現在この捜査本部で時田の顔を知っている唯一の人間である君を呼んだ」

「その中に、時田さんが……」

「はっきり映っている角度があったらプリントアウトする。再生するぞ」

課長がENTERキーを押して、動画が始まった。

場面は刑務所の建物に黒ス-ツの男が入るところからスタートした。意外にもカラーで、刑務所職員の顔はしっかり見える。しかしカメラの角度が斜め上からのせいか、肝心のニセ弁護士の顔ははっきりと見えない。いや、角度のせいじゃない。時田さんなら、それくらい計算して立ち回っているはずだ。

「灰川、見ろ」

「あ」

黒スーツの男が歩いていくところを、正面斜め上からとらえている。男はうつむき気味でやはり顔がはっきり見えないが、左手にカバン、そして右手は。

「あのクセ、時田さんです」

空いた右手を握ったり開いたり。時田さんが緊張したり、興奮したりするときに出るクセだ。スプレー売り場の映像にも映っていた。

「証拠にはならないんでしたよね」

「そんなことはない。このニセ弁護士が時田だとはっきり判明すれば、スプレー売り場の映像と結び付けられる。少なくとも事情聴取に呼ぶ根拠にはなる」

「呼ぶって、どこにいるかもわからないのに」

「それを今、闇無と安藤に調べさせている。見ろ」

なるほど、と納得していると、場面が面会室に切り替わった。穴の開いたアクリル板で分けられている部屋ではなく、テーブルをはさんで座る部屋。ここでもやはり、男の顔は見えない角度だ。ただその後頭部と、椅子に座る背中のラインにはには懐かしさを感じた。

「相手は殺人犯なのに、テーブルで面会できるんですか?」

「通常、殺人犯は無理だ。資料には、法律用語や上司の名前を出して刑務官をだましたと書いてあった」

それも含めて刑務官のヘマか。

「う」

グレーの服を着た栗野が看守に引っ張れて面会室に入ってきた。忘れもしない、あの顔。胃がムカムカしてくる。子供好きなフリをして、静かに少しずつ狂っていた殺人鬼。

あの子を天国の神様のところへ送ってあげたなんて、どうすればそんなイカれた動機がわいてくるのか。いまだに理解できないし、したくもない。

本当に可愛らしい、いい子だったのに。

「あっ……」

栗野が黒スーツの男を見て、看守に何事か告げた。それはそうだ。面会室まで通れたこと自体が奇跡なんだ。栗野が見ればすぐにニセモノとわかる。それがわからない時田さんじゃないはずなのに。時田さんは一体、わざわざ何をしに行った?

すぐに看守と刑務官がニセ弁護士を取り押さえる。男は腕で振り払い、何事かを栗野に叫んだ。

「時田さん……」

今度こそ、はっきりと顔が映っている。温和で、笑うと無くなるような細い目。怒った顔なんて見たことなかったのに、すごい形相だ。

「灰川、この男が時田で間違いないか?」

「間違いありません。時田さんです」

「これは六年前だが、今見ても判別する自信はあるか?」

「もちろん。師匠の顔は忘れません」

その時田さんが、必死な顔でしきりに何か叫んでいる。この防犯カメラ映像には音声が無い。

「あの……課長。時田さん、何て言ってるんですか?」

課長は手元の資料に目を落とした。

「全部は記録されていない。何かに落ちた、とは言ったようだが」

「落ちた……?」

必死な形相の時田さんが、栗野に何かを叫ぶ。しばらくして、今度は栗野が大声で叫び返した。

「あ……今、唇読めたかもしれません」

一度口をすぼめて、その後下唇が下がって最後に広がる。三文字。母音で言えば、U、O、A。

「……栗野は"うそだ"と言っているんじゃないかと思います」

「唇が読めるのか」

課長が意外そうに言った。

「そういうわけじゃないです。人が反射的に話す言葉はパターンが限られてるから、前後の内容と口の形からわかる母音で推測できるんです」

「それも、時田の教えか?」

「ええ、皮肉ですが。……あっ!」

次の瞬間、栗野が手錠のはまった両手を胸に押し付け、両ひざを床についた。看守と刑務官がパニックになっている。心臓発作の瞬間だ。

そして俺は見た。崩れ落ちる栗野を見ている時田さんの横顔が。

笑っているのを。

俺は確信した。時田さんが何をしにこんな小細工をしてまで刑務所に潜入したのか。

と同時に、時田さんが栗野に何を言ったのかも。

「課長、わかりました」

「何がだ」

「時田さんが、栗野に叫んだ言葉です。唇の形は、A、O、A、I、O、U、I、そして落ちた、の順です」

「母音はそうだとしても、子音までわかるのか?」

「栗野が"うそだ"と返したこと。何かに落ちたという記録が残っていること。そして栗野が幼女を殺した動機が、あの子を天国の神様のところへ送ってあげるという供述。最後にI、O、Uの母音。これらから推測すると」

「まさか」

動画を戻し始めた課長に、俺は言った。この吐き気は栗野に対してだけじゃない。最悪だ。尊敬していたのに。時田さん。あなたは何でこんなこと。こんなの、栗野と同レベルのクソ野郎のやることじゃないか!

「時田さんは栗野に、"あの子は地獄に落ちた"って告げに行ったんです」


捜査本部のはしっこで、私と闇無さんは市内の地図をテーブルに広げていた。闇無さんが言うには、連続して罪を犯す人間は、自然と自宅から同距離の現場を選ぶと。

自宅から近すぎず、なおかつ行き帰りに目撃者を増やさない距離。今回なら三つの現場を結ぶ三角形の真ん中あたりがアジトじゃないかというのが、闇無さんの狙いだ。

「でも、三角形広いね」

赤い線が引かれた地図を見て、私は言った。今のところ、三角形の一辺は5kmくらい。とてもじゃないけど全部調べるのは厳しい。

「そうなんですよ。もうちょっと絞らないと、とても探せません」

そう言ってため息をつく闇無さんを私は見つめた。マジックを口に当てて思案する横顔も可愛らしい。

話の流れで、昨日闇無さんが灰川さんに晩御飯をおごってもらったと聞いた。うらやましい。私だって二人っきりでご飯食べたこと無いのに。

私は自分の体をこっそり見下ろした。

やっぱり灰川さんも、闇無さんみたいに細くて綺麗な子が好きなのかな。

「安藤さん!」

「ぴゃいっ!」

唐突に名前を呼ばれて声が裏返る。闇無さんはそんなことには構わず、私の両肩をガッシリとつかんだ。

「な、な、何?」

「安藤さん、寺町の犬の事件の時、言ってましたよね?スプレーであんなに綺麗に書くのには練習がいるって」

「う、うん言ったよ」

「確か元カレがヤンキーだとかで」

「それは言わないで」

「ということはですね」

闇無さんは地図に片手をついて、赤マジックを構えた。

「市内のどこかに、時田さんがスプレーで文字を書く練習をした場所があるはずなんです!きっと、この三角形の中に」

「あ……なるほど。頭いい」

「安藤さん、元カレさんは、主にどこでスプレー活動をしてました?」

「スプレー活動って……うーん、普通は、古いトンネルとか、サイクリングロードの地下道の壁とか、その辺じゃない?」

闇無さんが地図を目で追う。

「他には?」

「あと考えられるのは……廃墟かな?立ち入り禁止の病院とか、工場跡とか。会社がつぶれて建設が中断したままのホテルもあった気がする」

「ちょっと待って下さい」

闇無さんが赤マジックで地図に印を打っていく。三角形の中に四か所の印。使わなくなった旧トンネル。病院跡。地下道。そして廃工場。

「まずはここらから調べましょう。そこで練習場所が特定できたら、今度はその場所も含めてアジトの場所をさらに絞り込めます」

「闇無さん、すごい!」

やっぱりFBIに研修に行くような人は、発想の角度が違う。

「どうしたの?」

やるべきことが決まったのに、彼女はなぜか浮かない顔だ。

「いえ、その。別のことがずっと気になってて」

「何?私にわかることなら聞くけど」

闇無さんは私を見つめて言った。

「私が九十九署へ来る前……今年の四月上旬頃ですけど」

「うん」

「灰川さんから、仕事を辞めたいという話を聞いてませんか?」

「え?何それ」

私は首をぶんぶんと振った。

「聞いてないよ、そんなの。闇無さんは聞いたの?」

「いえ、聞いてません」

「じゃあ何でそんなこと」

その時、ガチャリと捜査本部の扉が開いた。

「灰川さん」

入ってきた灰川さんは、ここ最近一番よく見る顔、つまり苦しそうな表情をしていた。課長に呼ばれて何を言われたんだろう。

部屋に入り、すぐに闇無さんに言った。

「闇無!アジトはわかったか?」

「すぐには無理ですよ!とりあえず、スプレーの練習場所を四か所想定して、これから調べに行こうと話していたところです」

「……そうか。すまん、何か焦っちまってた」

「いえ、気にしないでください。それより課長の用事は何だったんですか?」

「……時田さんの顔を、確認した。昨日課長が言ってた、刑務所に弁護士だと偽って侵入した時の映像だ」

「映像が残ってたんですか?それで?」

私は勢い込んで聞いた。灰川さんは、なぜか寂しそうに私を見て笑った。

「時田さんだったよ、間違いなく。安藤と見たビデオの、手を開いたり握ったりのクセもあった」

「そう……ですか」

私がそれ以上何も言えないでいると、闇無さんが意を決したように口を開いた。

「灰川さん!」

「お、おう。何だよ」

少しのけぞって、灰川さんは答えた。

「灰川さんは、私がこっちへ来る前、つまり四月ですけど」

「うん」

「佐野さんに……仕事を辞めたいとかって言ったこと、ありますか?」

「はあ?」

灰川さんが顔全体で疑問を表した。それはそうだ。私だって、何でそんなこと聞かれたのかわからないし。

「何でそんなこと……」

言って、灰川さんが固まった。そして口に手を当て、近くのイスに座りこんだ。

「言ったんですか?」

闇無さんが食い下がる。

「いや……言ってない。誰にも、言ってないはずなんだ。なのにどうして……」

「灰川さん?」

灰川さんの様子がおかしい。何?何なの?

「辞めたいなんて、言ってない。でも、でも……退職願を書いて、引き出しに入れてある」

「え」

うそ。

「闇無、君がどうして知ってるんだ?そんなこと」

「灰川さん、言ってましたよね?佐野さんは他人の机の引き出しを勝手に開ける悪い癖があるって」

「……まさか」

闇無さんがうなずく。

「佐野さんが、それを見ていた可能性があります」


つづく

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