第五話 小さな罪
公爵家には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
「お姉様。」
セシリアは嬉しそうに本を抱え、書庫へ入る。
「昨日、お借りした本を読み終えました。」
「もうですか?」
エレノアは驚きながらも微笑む。
「感想を聞かせていただけますか?」
「はい!」
二人は机を挟み、本の話で盛り上がる。
その光景を廊下から見つめるアンナは、静かに目を細めた。
(本当に仲が良いこと。)
(だからこそ……。)
その日の午後。
エレノアは王妃教育へ向かう準備をしていた。
「教本を取ってまいります。」
そう言って書庫へ向かう。
しかし――。
「……あら?」
いつも置いてあるはずの教本が見当たらない。
机の上。
本棚。
引き出し。
どこにもない。
「マリー。」
近くにいた侍女が駆け寄る。
「はい、お嬢様。」
「教本を見かけませんでしたか?」
「いいえ……。」
屋敷中を探したが、結局見つからなかった。
「申し訳ございません。」
使用人たちが頭を下げる。
エレノアは首を横に振った。
「皆さんのせいではありません。」
「私が別の場所へしまったのかもしれませんね。」
困ったように笑う。
誰一人責めない。
その姿を柱の陰から見つめるセシリアは、胸が締め付けられた。
教本は昨夜、アンナへ渡したままだった。
「少し見るだけ。」
そう言われただけだった。
まさか隠すつもりだったなんて思いもしなかった。
(お姉様……。)
謝らなければ。
そう思った時だった。
「セシリア。」
アンナが静かに声を掛ける。
「お母様……。」
「心配しなくていいわ。」
「明日には元の場所へ戻しておくもの。」
「でも……。」
「エレノアさんも、自分が置き忘れたと思っているでしょう?」
セシリアは俯く。
確かに、お姉様は誰も疑わなかった。
使用人も。
自分も。
ただ、自分を責めていた。
アンナは娘の肩へ優しく手を置く。
「あなたは何も悪いことはしていないわ。」
「少し本を借りただけ。」
「それだけよ。」
その言葉に、セシリアは小さく頷くしかなかった。
翌朝。
教本は元の場所へ戻されていた。
「ありました。」
エレノアは安心したように胸を撫で下ろす。
「やはり私のしまい忘れだったようですね。」
嬉しそうに微笑むエレノア。
その笑顔を見て、セシリアの胸は痛んだ。
けれど、その痛みは口にできない。
アンナはそんな娘を横目で見ながら、静かに微笑む。
(少しずつでいい。)
(人は、一度秘密を持つと、二度目はもっと簡単になる。)
その小さな一歩が。
九年後の婚約破棄へと続く始まりだった。




