第四話 最初の一歩
春の茶会から数日が過ぎた。
「お姉様、お待ちください!」
廊下を歩くエレノアの後ろを、セシリアが小走りで追い掛ける。
「どうしました?」
「この本……読み終わりました!」
大切そうに抱えているのは、エレノアが貸した歴史書だった。
「もう読み終えたのですか?」
「はい!」
「難しかったですけれど、とても面白かったです。」
「もっと勉強したいです。」
その言葉に、エレノアは嬉しそうに微笑む。
「でしたら、今度はこちらを読んでみますか?」
書庫から一冊の本を取り出す。
「王妃教育でも使っている本です。」
「少し難しいですが、セシリアなら読めると思いますよ。」
「ありがとうございます、お姉様!」
セシリアは宝物を受け取るように本を胸へ抱いた。
その様子を、廊下の奥からアンナが静かに見つめていた。
夕食後。
アンナはセシリアの部屋を訪ねた。
机には、昼間エレノアから借りた本が開かれている。
「熱心ね。」
「はい。」
セシリアは笑顔で頷いた。
「お姉様みたいになりたいんです。」
「王妃教育のお話を聞くたびに、もっと勉強しなくちゃって思うんです。」
アンナは娘の頭を優しく撫でた。
「あなたは本当に努力家ね。」
その一言に、セシリアは照れたように笑う。
「でも、お姉様にはまだまだ及びません。」
「お姉様はすごいんです。」
「勉強も礼儀も、全部できて……。」
アンナは静かに微笑んだ。
「そうね。」
少しだけ間を置く。
「でも、努力した人が報われるとは限らないのよ。」
「え?」
セシリアは不思議そうに首を傾げた。
「例えば、同じくらい努力する二人がいたとしても。」
「先にその場所にいた人が選ばれることもあるわ。」
「それが貴族社会なの。」
セシリアは黙って話を聞いていた。
「エレノアさんは、公爵家の長女。」
「そして、殿下の婚約者。」
「その立場は、生まれた時から決まっていたもの。」
「……はい。」
「だから、あなたがどれだけ努力を重ねても。」
「同じ場所へ立つことはできない。」
その言葉に、セシリアは手元の本へ視線を落とした。
「私は……。」
「お姉様みたいになりたいだけです。」
アンナは娘の肩へそっと手を置く。
「ええ、分かっているわ。」
「だからこそ、努力を続けなさい。」
「努力は、決して無駄にはならないから。」
「……はい。」
セシリアは小さく頷いた。
アンナは部屋を出る。
扉が閉まる音が静かに響いた。
廊下を歩きながら、アンナは小さく笑みを浮かべる。
(焦る必要はない。)
(人の心は、一日では変わらない。)
(けれど、毎日少しずつ言葉を重ねれば、考え方は変わっていく。)
娘はまだ優しい。
まだ姉を慕っている。
だからこそ、その優しさを少しずつ別の方向へ向けていけばいい。
アンナは静かに窓の外を見つめた。
その視線の先には、書庫の灯りが見える。
そこでは何も知らないエレノアが、王妃教育の本を読んでいた。
アンナはゆっくりと目を細める。
「未来は、自分の手で変えるものよ。」
その囁きを聞いた者は、誰もいなかった。




