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婚約破棄された公爵令嬢ですが、すべては九年前から始まっていました  作者: 若松りこ


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第十六話 北の夜空

婚約破棄から数日後。


エレノアとレオンを乗せた馬車は、アルディス公爵家の北方別邸へ到着した。

深い森に囲まれた石造りの屋敷。

澄んだ空気が肺を満たし、木々を渡る風が心地よく頬を撫でる。


馬車が止まると、一人の初老の男性が玄関前で深く一礼した。


「お帰りなさいませ、エレノアお嬢様。」


北方別邸を預かる管理人、バーナードだった。

懐かしい顔を見た瞬間、張り詰めていた心が少しだけほどける。


「……バーナード。ご無沙汰しています。」


「お久しぶりでございます、お嬢様。またお迎えできます日を、心待ちにしておりました。」


エレノアは自然と笑みを浮かべた。

バーナードは続けてレオンへ向き直る。


「レオン殿下。この度はお嬢様をここまでお送りいただき、誠にありがとうございました。旦那様より、お帰りをお急ぎでなければ、数日ご滞在いただき、旅のお疲れを癒していただくよう申し付かっております。」


レオンは丁寧に一礼する。


「公爵閣下のお心遣い、ありがたく頂戴いたします。」


夕食を終え、それぞれが部屋へ戻る。

長旅の疲れもあり、屋敷は静かな夜を迎えていた。

しかし、エレノアは眠る気にはなれず、机へ向かった。

白紙を広げ、これまでの出来事を書き出していく。


教本がなくなった日。

髪飾りがなくなった日。

王妃教育へ向かえなくなった頃。

課題を使用人へ託したこと。

部屋へ閉じ込められることが増えていった頃。


忘れているわけではない。

ただ、一度時系列に整理しておきたかった。


静かな部屋に、ペン先の音だけが響く。

やがて控えめなノックが聞こえた。


「失礼いたします。」


お茶を運んできたバーナードだった。

机いっぱいに広げられた紙を見て、穏やかに微笑む。


「本日は、ごゆっくりお休みになるものと思っておりました。」


エレノアは少し照れたように笑った。


「そのつもりだったのですが……。忘れないうちに、書き留めておきたくて。」


バーナードは懐かしそうに目を細める。


「お嬢様は、昔から変わりませんね。幼い頃も、宿題はその日のうちに終わらせようとなさっておりました。旦那様が『少しは遊びなさい』と笑っておられたものです。」


エレノアは思わず笑みをこぼした。


「……そんなこともありましたね。」


「ええ。…懐かしゅうございます。」

バーナードは静かに一礼し、部屋を出ていった。


その後も

机へ向かい続けているうちに、夜も更けていた。

少し風に当たりたくなり、エレノアは庭へ出る。


見上げれば、満天の星空。


王都では見ることのできなかった無数の星々が、静かに夜空を彩っていた。

思わず立ち止まって見入っていると、庭の小道をゆっくり歩く人影が目に入る。


レオンだった。


足音に気付いたレオンが振り返る。


「エレノア様。まだお休みではなかったのですね。」


「少し風に当たりたくて。

レオン様こそ。眠れないのですか?」


レオンは穏やかに微笑む。


「長旅の後は、少し歩くのが癖なのです。

その方が、よく眠れますので。」


二人はゆっくりと並んで歩き始めた。

しばらく歩いたところで、レオンが小さく笑う。


「今日は、机に向かわれる日ではないと思っておりました。」


エレノアも少し笑った。


「私も、そのつもりだったのですが……。

書き始めると、止まらなくなってしまって。」


レオンは優しく頷く。


「あなたらしいですね。」


その一言に、エレノアは少し照れたように微笑んだ。

それ以上、言葉は続かなかったが心地の良い沈黙だった

二人は足を止め、並んで夜空を見上げる。


「この星空は、変わりませんね。」


エレノアが静かに呟く。


「幼い頃も、この景色を見ていたはずなのに。」


「こんなにゆっくり星を眺めたのは、久しぶりです。」


夜風が木々を揺らす。

草花がさらさらと音を立て、遠くから虫の声が聞こえてきた。

少し冷たい風が吹き抜ける。


エレノアは思わず肩をすくめた。


レオンは何も言わず、自分の上着を肩へ掛ける。


「あ……。」


「北の夜は冷えます。」


それだけ言うと、再び星空へ目を向けた。

エレノアは上着をそっと握りしめる。


その温もりが、張り詰めていた心までゆっくりと解いていくようだった。


静かな時間が流れる。


やがてエレノアが、小さく息をついた。


「……私。」


「きっと、一人では諦めていたと思います。」


「何が本当だったのかも分からないまま、自分が悪かったのだと思い続けていたでしょう。」


「でも、今は違います。」


「レオン様が私の話を信じて、一緒に真実を探そうとしてくださる。」


「今こうして隣にいてくださることが、本当に心強いのです。」


レオンは夜空から目を離さないまま、静かに答えた。


「あなたは、ご自分で前へ進むことを選ばれました。…私は、その隣を歩いているだけです。」


少し間を置いて続ける。


「ですが、その道の終わりまで、ご一緒することをお約束します。」


その言葉にエレノアは柔らかく目を細めゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます。」


二人は再び夜空を見上げる。

変わらぬ星々が、静かに二人を照らしていた。



その頃、公爵邸では。


朝食の席で、セシリアが楽しそうに新しいドレスの話をしていた。

アンナも穏やかな笑みを浮かべ、娘の話に耳を傾けている。


療養へ送り出してまだ数日。


それなのに、二人の口からエレノアの名は一度も出ない。

まるで、最初から屋敷にいなかったかのように。


公爵は静かにカップを置いた。


――いつからだ。


――エレノアがいないことが、当たり前になっていたのは。


胸に芽生えた小さな違和感は、やがて真実へ辿り着く最初の一歩となるのだった。

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