第十四話 前へ
北方領へ向かう馬車は、穏やかな街道を進んでいた。
王都を離れるにつれ、窓の外には青々とした草原が広がっていく。
馬車の中は静かだった。
互いに無理をして言葉を探すことはない。
その沈黙は、不思議と心地よかった。
昼過ぎ。
一行は街道沿いの宿場町で休憩を取ることになった。
「少し歩きませんか。」
レオンが穏やかに声を掛ける。
「はい。」
エレノアは静かに頷いた。
二人は宿の裏手を流れる小川まで歩く。
澄んだ水のせせらぎだけが耳に届く。
しばらく景色を眺めていたエレノアが、ゆっくりと口を開いた。
「昨日、馬車の中で……。
『私は、あなたが努力を怠るような方だとは
思っておりません』と仰ってくださいました。」
「あのお言葉は、本心だったのでしょうか。」
レオンは迷うことなく頷いた。
「もちろんです。
もし社交辞令であれば、
私はここまでいたしません。
私はアルディス公爵のお話を伺いました。
王妃教育の教師のお話も聞きました。
そして婚約破棄の日…
あなたご自身をこの目で見ました。」
「そのすべてが、『努力を怠った令嬢』という話と結び付きませんでした。」
エレノアは静かに俯く。
「ありがとうございます。
ですが……。」
「私一人を信じてくださっても、何も変わりません。」
レオンは穏やかに頷いた。
「ええ。信じるだけでは、真実にはなりません。
だから私は、真実を証明したいのです。」
「あなたが努力を怠ったのではないと、
誰も否定できない形で。」
エレノアは苦しげに微笑んだ。
「ですが……。私はもう、
アレクシス殿下の婚約者ではありません。
今さら真実が明らかになったとしても、
失ったものは戻りません。」
レオンは静かに頷く。
「ええ。
戻らないものは、確かにあります。」
「ですが、名誉は地位のためにあるものではありません。」
「その人が歩んできた人生そのものです。」
「あなたは幼い頃から、王太子妃となる日を目指して
努力を積み重ねてこられました。」
「礼儀も、教養も、立ち居振る舞いも。
誰かに命じられたからではなく、
自ら学び続けてこられた。
その人生まで、『努力を怠った』という嘘で
塗り替えられたまま終わらせてはいけない。
私は、そう思っています。」
エレノアは目を見開いた。
誰も見ていないと思っていた努力。
誰にも届かなかったと思っていた日々。
そのすべてを、この人は守ろうとしてくれている。
胸の奥で、何かが少しだけほどけた気がした。
「最初は……。」
エレノアは静かに口を開く。
「もう終わったことだと思っておりました。
ですが、
お父様は私を信じてくださいました。
先生も、昔の私を覚えていてくださいました。
そして……レオン殿下も。」
レオンは少し照れたように笑う。
「一つ、お願いしてもよろしいでしょうか。」
「はい。」
「護衛の間だけで構いません。
『殿下』ではなく、
『レオン』とお呼びいただけませんか?」
エレノアは少し驚く。
「ですが、そのような失礼なことは……。」
「あなたにとって私は、護衛です。
その方が、お互い話しやすいでしょう。」
少し迷った後、エレノアは柔らかく微笑んだ。
「……では、お言葉に甘えて。
レオン様。」
「ありがとうございます。」
レオンも微笑み返した。
その笑顔につられるように、エレノアの表情も少しだけ柔らかくなる。
「私は、一人で抱え込み過ぎました。」
「もっと早く、お父様に。
もっと早く、アレクシス殿下に。
誰かに助けを求めるべきでした。」
「だから今度は逃げません。
私は真実を明らかにしたいと思います。
私のためだけではありません。
お父様のためにも。
アレクシス殿下のためにも。
そして、同じような嘘で傷付く人を、
もう二度と生まないためにも。」
少し間を置き、続ける。
「それに……。私は、
もう自分の弱さからも目を背けたくありません。
誰にも相談せず、一人で耐え続けたこと。
それも今回の結果を招いた一因だったのだと
思います。」
レオンは静かに頷いた。
「そのお気持ちを聞けて安心しました。
では、一つ約束してください。」
「はい。」
「これからは、一人で抱え込まないこと。」
エレノアは穏やかに微笑む。
「……約束いたします。」
「ありがとうございます。」
レオンも頷いた。
「では改めて…。
二人で真実を明らかにしましょう。」
「はい、レオン様。」
婚約破棄の日以来。
初めて、エレノアの瞳には未来を見つめる光が宿っていた。
その夜。
宿へ戻ったレオンは、護衛隊長を部屋へ呼んだ。
「予定どおり、密偵を王都へ向かわせてください。」
「承知いたしました。」
レオンは机の上に地図を広げた。
「調べてほしいことは四つあります。」
「一つ目は、王妃教育です。」
「エレノア様の欠席や課題未提出が、どのように記録されていたのか。」
「二つ目は、アルディス公爵家の使用人。」
「屋敷の中で何が起きていたのか。」
「三つ目は、公爵夫人アンナ。」
「そして四つ目は、セシリア嬢です。」
護衛隊長はわずかに目を見開く。
「妹君も、お調べになるのですか。」
「ええ。」
レオンは静かに頷いた。
「婚約破棄の場で、
セシリア嬢は新たな婚約者となりました。
ですが、それだけで何かを決めつけるつもりはありません。」
「この三年間、公爵家で何が起きていたのか。
関係者全員について、公平に調べてください。
思い込みほど、真実を見失わせるものはありません。」
護衛隊長は深く一礼した。
「承知いたしました。」
「白であることを証明するためにも、黒であることを証明するためにも、事実だけを持ち帰ります。」
レオンは静かに頷く。
「それで構いません。
私が知りたいのは、憶測ではなく真実です。」
その夜、一羽の伝書鳩が王都へ向かって飛び立った。
同じ頃。
黒装束の男が、静かにアルディス公爵家の塀を越える。
レオン直属の密偵だった。
彼らが追うのは、誰かを断罪するための証拠ではない。
失われた真実、そのものだった。




