全員集合
第四十五話
まだ完全に暗くなりきる前の時間。
街灯がぽつぽつと灯り始め、空にはわずかに青が残っている。
トラのリードを引きながら、
大河はゆっくりと歩いていた。
さっきまでの不機嫌さは薄れたのか、
トラは地面の匂いを嗅ぎながら、気ままに進んでいる。
その横に――
当然のように、ノアが並んでいた。
「被害者の共通点、覚えてる?」
不意に切り出される。
「ああ。男女間のトラブルだっけ?」
適当に答えると、
「そう」
ノアは軽く頷いた。
「浮気、不倫……人のスキャンダルネタなんて、どうでもいいのに」
どこか呆れたような声音。
「だな」
大河も、短く返す。
正直、興味はない。
他人の色恋沙汰なんて、知ったことじゃない。
「……アンタに言うか迷ったんだけど」
少しだけ間を置いて、ノアが言う。
「なんだよ」
「狙われて、唯一助かった女」
その言葉に、
足がわずかに止まりかける。
「……俺が助けた?」
振り返らずに聞く。
「若干の下心で」
「その補足はいらねー」
即座に返すと、
ノアは小さく笑った。
風が、少しだけ強く吹く。
街路樹の葉が、かさりと鳴った。
「あの女も、なかなかの女なのよ」
「そうなん?」
興味なさげに返しながらも、
頭のどこかで、引っかかる。
あの時の光景。
断片的な記憶。
夜道。
叫び声。
そして――
「……」
トラが、不意に足を止めた。
低く、小さく唸る。
「おい、どうした」
しゃがんで様子を見るが、
トラは一点をじっと見つめたまま、動かない。
その先には――何もない。
はずなのに。
「……気のせいじゃないかもね」
ノアが、ぽつりと呟いた。
その声は、さっきまでより少しだけ低い。
「何がだよ」
大河の問いに、
ノアはすぐには答えなかった。
ただ、
わずかに細めた目で、同じ方向を見ている。
夜が、ゆっくりと濃くなっていく。
———————-
空に明るさが残る、夏の夕暮れ。
夜に一人で歩くのは、あまり好きじゃない。
だから一人の時はなるべく人が多い通りがいい。
理由なんて、いくらでもある。
暗いし、寂しいし――
それに。
「……思い出すし」
小さく呟く。
一年前の、あの夜。
背後からの気配。
掴まれた腕。
押し潰されるみたいな恐怖。
そして――
「……」
無意識に、肩に力が入る。
あの時、助けが入らなければ。
今こうして歩いている自分はいなかったかもしれない。
「……ま、考えても意味ないか」
軽く息を吐いて、気持ちを切り替える。
街はまだ明るい。
人もいる。
それでも、ふとした瞬間に、取り残されたような気分になる。
最近は特に。
「あの子、結婚したんだって」
昼間、同僚が言っていた言葉を思い出す。
誰それが結婚。
誰それが同棲。
誰それが妊娠。
――そんな話ばっかり。
「……はぁ」
ため息がこぼれる。
親もうるさい。
いい歳なんだから、そろそろ落ち着きなさい。
ちゃんとした人はいないのか。
「いるわけないじゃん」
吐き捨てるように言う。
気になる男は、大体もう誰かのものだ。
既婚者か、彼女持ち。
「……まぁ」
肩をすくめる。
「関係ないけど」
誰のものかなんて。
そんなの――
最初から気にしてない。
欲しいと思ったものは、
手に入れればいい。
「奪ってでも」
小さく笑う。
男でも、女でも。
欲しいものは、欲しい。
それだけだ。
夜風が、少しだけ強く吹いた。
思わず、背後を振り返る。
――誰もいない。
「……気にしすぎか」
そう言って、
何事もなかったように歩き出す。
————————-
昼の熱を残したまま、夜が広がってきた。
トラはしばらく落ち着かなかったが、
結局、それらしい気配は何もなかった。
「……気のせいかよ」
小さく呟く。
とはいえ、
あの反応は、ただの気まぐれとも思えない。
「……まぁいいか」
視線を上げる。
――委員長は、今家にいる。
余計な心配をさせずに済んだだけでも、良しとするか。
ノアと別れ、
そのままマンションへ戻る。
ドアを開けると、
「おかえり」
静香の声が、すぐに飛んできた。
「晩御飯、食べられそう?」
「……いや、無理かも」
さっきまで、
あれだけ食わされていたのを思い出す。
「そうよね」
静香は苦笑しながら頷いた。
「お腹空いたら言ってね」
「うん」
短く返す。
何気ないやり取り。
それだけなのに、
どこか、ほっとする。
トラが、足元で小さく鳴いた。
「お前はメシ食わないとな」
————————-
時間が夜9時を少し回った頃。
着信。
画面に表示された名前を見て、
ため息混じりに通話ボタンを押した。
「もしもし」
『大河、ボンサイだ』
「は? 盆栽?」
思わず聞き返す。
『そうだ……自然の雄大さを、コンパクトに鉢植えの中に表現する高尚な趣味――いや、芸術だ』
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
『――って違がーう』
間髪入れずにノリツッコミが入った。
『盆の祭り。盆祭だ』
「紛らわしい言い方すんな」
『いや、お前が乗ってくると思ってな』
「乗らねぇよ」
呆れながらも、少しだけ口元が緩む。
『明後日だ。盆はバイト休みだろ?』
「まぁな」
ベッドに腰を下ろしながら、適当に返す。
『天気もいいらしい』
「そうか」
短く相槌。
『飲めや、歌えやの――らんちき騒ぎだ』
「どんな祭りだよ」
軽くツッコむ。
『まぁそんな感じだ』
ざっくりしすぎだろ、とは思うが口には出さない。
『澪と小春も行くってよ』
「ふーん」
『浴衣だって張り切ってた』
「……そうなんだ」
反応は薄い。
『大河、普通高校生は祭りって聞くとテンション上がるもんだ』
「偏見だな」
(俺ぁ中の人がオッさんなんだよ。今更、祭りもクソもあるかい)
内心で吐き捨てる。
『どうする?行くか?』
少しだけ間が空く。
「まぁ、暇なら行くかもな」
『素直じゃねぇな』
「別に」
短く返す。
——————-
祭当日。
結局、いつものメンバーで行くことになった。
「BONSAI」とやらに。
なぜか――
霧島は昼過ぎからウチにいる。
「お前、なんでそんなにくつろいでんだよ」
ソファに寝転がり、完全に自分の家みたいな顔をしている。
もはや、どっちの家だかわからない。
「いいだろ、別に」
悪びれた様子もない。
……まぁ、今さらか。
小春と澪とは、夕方に現地で待ち合わせだ。
「女は準備に時間がかかるらしいぞ」
霧島が、どこか知ったような口調で言う。
「らしいな」
適当に返す。
昔からそうだ。
時代が変わっても、その辺は変わらないらしい。
――なんとなく。
自分が“待つ側”にいることに、違和感を覚える。
(モテ男みてぇな立ち位置だな)
内心でぼやく。
もちろん、そんなわけはない。
ただの流れだ。
それくらいは、自分でもわかっている。
————-
待ち合わせの時間。
いつもの駅前。
――のはずなのに、空気はまるで別物だった。
提灯、屋台、人の波。
「駅前商店街プレゼンツ お盆だよ全員集合夏祭り」
なんて、やたらと勢いだけはある看板が掲げられている。
「……なんだこのネーミング」
思わず呟く。
隣で、霧島が得意げに言った。
「略してBONSAIだ」
「ダセー」
即答した。
「タクちゃーん、タイガー!」
聞き慣れた声に振り向く。
小春と――澪。
二人とも、浴衣姿だった。
「……」
一瞬、言葉を失う。
いい。
かなりいい。
普段と違う雰囲気に、少しだけ目を奪われる。
(……いや)
すぐに視線を外す。
(落ち着け)
相手は女子高生だ。
余計なことは考えるな。
深呼吸ひとつ。
――煩悩、退散。
「遅いぞ」
何事もなかったように、いつもの調子で言った。
*
人混みに流されるまま、
四人で祭りの中を歩く。
屋台の明かりと、焼けたソースの匂い。
賑やかな声と、どこか懐かしい音楽。
いかにも“祭り”という空気だった。
「腹減ったな」
「さっきからそればっかじゃん、タイガー」
小春に呆れられながらも、
手にはすでにいくつかの食べ物がある。
焼きそば、たこ焼き、かき氷。
気づけば、自然と食べ歩きになっていた。
射的では――
「見ててね、タクちゃん」
小春が妙に気合いを入れて構え、
結果、見事に外す。
「……あれ?」
「そんなもんだ」
霧島が淡々と返す。
金魚すくいでは、
澪が慎重にポイを沈めていた。
「あ……」
小さな声とともに、あっさり破れる。
「難しいね、これ」
「コツいるからな」
適当に答えながら、
視線はなんとなく、そっちに向く。
浴衣姿。
普段と違う雰囲気。
――やっぱり、少し目を引く。
「タイガくん……どうかな?」
「何が?」
「……もう。浴衣」
少しだけ、拗ねたような声。
「ああ、似合ってる」
短く答える。
それだけで、十分だろうと思った。
「ありがと」
澪が、ふっと笑う。
その表情に、
ほんの一瞬だけ、間が空く。
「タクちゃん、なんか――」
小春が、にやにやしながら口を挟む。
「澪ちゃんとタイガーが、ヤラシい雰囲気をカモし出してるよ」
「出してねーよ」
即座に否定する。
「えー、絶対出てたってー」
面白がる声。
その横で、霧島はどこか呆れた顔をしていた。
———————
人混みを避けて、
商店街を抜けた先の、小さな公園に入る。
祭りの喧騒が、少しだけ遠くなる。
ベンチに腰を下ろし、
さっき買った食べ物を広げた。
「これ、食べる?」
「交換しよー」
自然と、シェアになる。
屋台の味なんて大したことはないはずなのに、
こうして分け合うと、妙にうまく感じる。
「なんか落ち着くな」
霧島がぽつりと言う。
「さっきまで人多すぎたしな」
適当に返しながら、
大河も一口かじる。
風が抜けて、少しだけ涼しい。
――その、空気が。
「おっ、小春ちゃん」
軽い声で、割り込まれた。
「げっ」
小春が露骨に顔をしかめる。
「また出た」
大河が小さく呟く。
「アンタもしつこい男だなぁ」
霧島が、面倒くさそうに視線を向ける。
そこに立っていたのは、
北条と、その後ろに控える取り巻きたち。
江田、尾藤、椎葉。通称A.B.C。
見慣れた顔ぶれだった。
「俺ぁ、小春ちゃんに用があんだ」
北条はニヤついたまま、
一歩、踏み出す。
「霧島、お前邪魔だからどっか行っとけ」
空気が、わずかに張りつめる。
さっきまでの軽さが、
すっと引いていく。
—————————
仕事終わり。
店の後片付けをしながら、
ふと、昔のことを思い出す。
子供の頃から、男の子にはよく好かれた。
理由なんて、わかりきっている。
見た目と、愛想。
それだけで、だいたいどうにかなった。
女の子の反応は、もっとシンプルだ。
嫌うか、
それとも――取り入ろうとするか。
「分かりやすいよね」
小さく笑う。
けれど、
大人になると、少しだけ違う。
同じ“女”でも、
やり方が、ずっと巧妙になる。
直接ぶつかってくることは少ない。
代わりに、
値踏みするような視線と、
さりげないマウント。
「……面倒くさ」
ロッカーの扉を閉める。
スマホに目を落とすと、
通知が一つ。
――終わったら、祭り行きませんか?
先に帰った職場の後輩からだった。
彼氏と待ち合わせしてるから、一緒にどうですか?
そんな一文が添えられている。
「……ふーん、そういう事か」
鼻で笑う。
要するに、
見せびらかしたいだけだ。
“私の方が上”だと。
彼氏がいる自分の方が、
価値があるとでも言いたいのだろう。
「くだらな」
呟きながらも、
指は、返信を打っている。
――いいよ、行く。
送信。
画面を閉じる。
「まぁ、暇だし」
それに。
人のものを見るのは、嫌いじゃない。
奪うかどうかは――
その時、決めればいい。
————————-
「夏祭りか……」
人混みを眺めながら、ノアが小さく呟く。
「自分、ノアさんと夏祭り来れるとか光栄っス……来年はぜひ浴衣でお願いしたいっス」
隣で、佐藤が妙に真剣な顔で言った。
「……佐藤」
「はいッス!」
「勤務中だから」
「……ッス」
即座にしょんぼりする。
ノアは小さくため息をつきながら、
周囲に視線を巡らせた。
「念のためのパトロール、ね」
「でも実際、こういう人多いとこ危ないっスよね」
「ええ。だから来てるのよ」
「……デートじゃないっスね」
「違うわね」
即答だった。
佐藤が、さらに肩を落とす。
「ほら、ぼーっとしないで」
「了解ッス!」
気の抜けたやり取りとは裏腹に、
ノアの視線だけは、鋭く人混みを追っていた。
—————————
駅前。
今日は、夏祭りらしい。
人で溢れている。
家族連れ、カップル。
皆、楽しそうに見える。
――くだらない。
この中にも、裁くべき人間はいる。
見極めれば、いくらでも。
だが――
今は違う。
「あの女」
一度、逃した。
邪魔が入らなければ、
あの場で終わっていたはずだ。
「……」
警察の動きには、注意を払う必要がある。
あの女には監視がついている可能性もある。
だが――
関係ない。
次は、確実に。




