エンカウント
第三十七話
店内に、わずかな静けさが戻る。
床に倒れた三人。
黒い霧は消え、ただの人間に戻っている。
その時。
ノアのスマホが鳴る。
すぐに通話へ切り替える。
「佐藤です」
抑えた声。
だが、緊張は伝わる。
「怪しい人物が、非常階段の方から通りに出て……街と反対方面に歩いて行ってます」
間を置かず続ける。
「尾行しますか?」
ノアは一瞬だけ視線を上げる。
カウンターの奥。
バックヤードへと続く扉。
「深追いはしないで」
即答。
「三人拘束終わり次第、私たちも行く」
「了解」
短く返って、通話が切れる。
大河はすでに、中を見ていた。
「バックヤード、非常階段直通みたいだな」
床に転がった椅子。
開け放たれたままの扉。
逃げ道としては分かりやすい。
ノアが頷く。
「私たちが来てから、様子を見てたのね」
無駄な接触は避けた。
そういう動き。
ノアはすぐに別の連絡へ切り替える。
「ノアです。近藤の仲間と思われる三人と交戦、拘束」
淡々とした報告。
だが、その声には迷いがない。
「現場は確保済み。応援を」
通話を切る。
短い沈黙。
状況は、確実に動いていた。
——————-
夜の通り。
一定の距離を保ちながら、佐藤は男の背中を追っていた。
足音を殺す。
視線も、合わせすぎない。
(深追いはするな……か)
ノアの言葉が頭をよぎる。
分かっている。
だが――
(ここで逃がしたら意味ねぇだろ)
唇を噛む。
(ノアさんに、いいトコ見せたいんだよ……)
脳裏に浮かぶのは、あの日の光景。
異形との初戦。
何もできずに、叩き伏せられた。
そのあと――
(あのガキが、倒したんだよな……)
奥歯が軋む。
(クソ……今日こそ……)
前を行く男が、ふっと路地に入る。
「……」
佐藤は少し間を置く。
距離を詰めすぎないように。
呼吸を整えてから、同じ角を曲がる。
――いない。
足が止まる。
「……は?」
視線を走らせる。
左右、奥。
逃げ場は限られているはずだ。
(嘘だろ……)
胸の奥がざわつく。
(ここで見失うかよ……)
拳を握る。
(ノアさんに、いいトコ見せるチャンスだったのに……!)
舌打ちを飲み込み、周囲を探る。
視界の端に、暗がり。
小さな公園。
迷わず足を踏み入れる。
街灯が一本。
遊具の影が、歪に伸びている。
人の気配は――ない。
はずだった。
「お兄さん」
背後。
「誰か探してんのかい?」
声。
佐藤の背筋が凍る。
振り向くより先に、理解する。
(……近藤だ)
———————
近くを巡回していた警官が、二人。
連絡から間もなく現場に入ってきた。
倒れている三人の身柄を引き継がせる。
手際はいい。
だが――時間はない。
ノアはスナックを出ると同時に、スマホを耳に当てた。
コール音。
一回、二回。
出ない。
わずかに眉が寄る。
その横で、大河が気だるげに歩く。
「あんたさ、あんまり佐藤いじめないでよ」
視線は前のまま。
軽く言う。
「イジメてねーし」
大河は肩をすくめる。
「なんかアイツ、やけに俺のこと見てくるから、ちょっと揶揄っただけだ」
「……あの子、焦ってるのよ」
短く返す。
足は止めない。
「はぁ?」
「高校生の協力者に、負けたくないって」
事実だけを並べる。
大河は鼻で笑った。
「お前の気引きたいだけだろ。見りゃわかる」
一瞬だけ、沈黙。
ノアは否定しない。
ただ、再びスマホを見る。
応答はない。
「……佐藤が心配」
声の温度が、わずかに下がる。
「急ぐわよ」
踵を返す。
ヒールの音が、夜に鋭く響いた。
———————
「お兄さん、誰か探してんのかい?」
背後からの声。
軽い。
だが、底に何かある。
佐藤はゆっくりと振り返ろうとする。
暗がりの中。
男が一人、立っている。
「例えば……最近、社会のゴミ共を襲ってるヤツとか」
わざと軽口で返す。
間を取らない。
男は、口の端を歪めた。
「あんちゃん、サツだろ?」
一歩も動かない。
ただ、見ている。
「尾行がヘタすぎるゼ」
その瞬間。
佐藤の腕が動く。
振り返りざま、拳銃を構える。
狙いは、ぶれない。
「大きなお世話だ」
短く言い切る。
「近藤だな。近藤裕也」
呼びかける。
逃がさない。
「話を聞きたい。署まで同行してもらう」
定型。
だが、声に迷いはない。
近藤は、肩をすくめた。
「おいおい……」
呆れたように笑う。
「そんなテンプレで、ついてくマヌケいるのかよ」
一歩、前に出る。
距離を詰める気配。
「あんちゃん、撃てんのかよ」
目が、笑っていない。
「当たったらよ、血がドバァって出るんだぞ?」
挑発。
露骨な。
佐藤は、引かない。
「異形は簡単に死なない」
言い切る。
自分に言い聞かせるように。
近藤の眉が、わずかに動く。
「異形?」
初めて聞いた、という顔。
「俺の力って、異形って呼ばれてんだな」
くく、と喉で笑う。
「知らなかったよ」
一歩。
「俺みたいなのが他にもいんのかよ」
また一歩。
距離を詰める。
「簡単に死なないのか……なるほど、いい事聞いたよ」
面白がっている。
完全に。
「ホレ、じゃ撃ってみろ」
その言葉と同時に。
近藤の身体を、黒い霧が覆う。
ぬるりと。
滲むように。
佐藤の指が、引き金にかかる。
「舐めんなよ」
低く吐き捨てる。
「この間も、お前みたいなヤツを撃ったばかりだ」
嘘じゃない。
だが――
(あんまり効いてなかったが)
胸の奥に、わずかな引っかかり。
近藤は、笑った。
「ほう」
興味を持った顔。
「んじゃ簡単だな」
顎で、後ろをしゃくる。
「ホレ、早くやれ」
その瞬間。
空気が動く。
「クソが――!」
佐藤は迷わない。
狙いを定める。
肩口。
引き金を引く。
――発砲。
——————-
――パンッ。
乾いた銃声が、夜を裂いた。
近い。
ノアの足が止まる。
一瞬だけ。
次の瞬間には、走り出していた。
「佐藤……!」
舌打ち混じりの低い声。
ヒールの音が、アスファルトを鋭く打つ。
大河もすぐに並ぶ。
「今の、銃声か」
「佐藤よ」
即答。
迷いはない。
「近いわ」
風を切る。
距離を詰める。
曲がり角を抜けるたびに、空気が張り詰めていく。
(無事でいなさいよ……)
口には出さない。
だが、足はさらに速くなる。
大河が横で息を吐く。
「単独で当たったか……」
嫌な予感。
それを振り払うように、地面を蹴る。
もう一度、銃声。
――パンッ。
方向は、はっきりした。
「こっちだ!」
二人は同時に、闇の奥へ踏み込んだ。
———————-
「……クっソ痛ってぇじゃねーか」
近藤が顔をしかめる。
撃ち抜いた肩口。
そこから、じわりと血が滲む。
だが――
その傷口から、黒い霧が立ち昇った。
煙のように。
生き物のように。
カランッ。
足元で、何かが落ちる音。
「痛ぇけど、悪くない」
近藤は肩を回す。
弾を受けたはずの腕が、もう動いている。
「……あんちゃん優秀だな」
ニヤリと笑う。
「狙ったトコに当てるなんて、素人には無理だ」
一歩。
ゆっくりと距離を詰めてくる。
「ただ、ダメだ」
目が細くなる。
「殺気が無い」
空気が、わずかに重くなる。
「殺す気で撃てよ」
低く、言い切る。
「簡単に死なねぇんだろ」
試すように。
楽しむように。
「こっちはそれを試してんだわ」
近藤が笑う。
喉の奥で、くぐもった笑い。
佐藤の指先に、汗が滲む。
(コイツ……楽しんでる)
呼吸が浅くなる。
(ギャンブルでもしてるみたいだ)
命のやり取りを。
まるで遊びの延長みたいに。
「撃たねんなら、もういいや」
近藤が肩をすくめる。
「サツ殺すと面倒くさそうだからな」
軽い口調。
「死なねー程度、遊んでやる」
佐藤は拳銃を構え直す。
狙いを外さない。
「最も――」
近藤の口元が歪む。
「うまく加減出来たらな」
その瞬間。
黒い霧が、一気に膨れ上がる。
全身を覆う。
密度が違う。
身体がひと回り大きく見える。
(なんか……デカくなった)
圧。
さっきとは別物。
「じゃぁな、あんちゃん」
声と同時に――消えた。
踏み込み。
一瞬で距離が詰まる。
(速ぇ――!)
反射で、引き金を引く。
狙いは胸。
――発砲。
———————
足元に転がる男。
サツだ。
拳銃の扱いが、ヤクザ者のそれじゃなかった。
無駄がない。
よく訓練されている。
(最後はちゃんと胸を狙ってきたな)
思い出す。
発砲の瞬間。
ブレのない軌道。
(当たらなかったが)
近藤は、軽く肩を鳴らす。
さっき叩き込んだ一撃。
手応えはあった。
骨まではいっていない。
「死んではねぇだろ」
小さく呟く。
興味は薄い。
「どっちでもいいが」
その時。
「――動くな」
女の声。
低く、鋭い。
近藤の視線が上がる。
暗がりの向こう。
二人。
さっき店にいた女と、ガキ。
(仲間か……?)
一瞬だけ考える。
(何者だ)
胸の奥に、わずかな違和感。
(イヤな雰囲気がしたから、面倒になる前にバックれたんだが……)
それでも、追ってきた。
近藤は口の端を歪める。
「何者だ。お前ら」
間を置かず、ガキが答える。
「正義の味方だ」
「……はぁ?」
近藤は素で眉をひそめた。




