テスト前の戦い
第三十三話
坂本翔太は、カウンターの中でグラスを拭きながら、ふと思い出していた。
今日、大河に飯を振る舞った。
弁当を買いに行く途中だと言っていたが、うちで食わせた。
色々と話もした。
学校の事。
友達の事。
家は駅前のマンションの最上階。ペントハウスだと言う。
それから――委員長の事も。
今はもう母親だが、翔太にとっては今でも「委員長」のままだ。
バイトを探していた。
それと、バイクの免許を取りに行くとも言っていた。
バイク……
翔太の手が、ほんの一瞬止まった。
程なくして、委員長が店に来た。
LINEはしておいたが、えらく申し訳なさそうな顔をしていた。
結局、大河はうちでバイトをする事になった。
委員長は少し困惑していたが。
翔太は小さく息を吐く。
似ている。
目元だけじゃない。
ふとした仕草。
具体的に説明は出来ない。
だが、どこか普通の高校生とは違う….
違和感。
委員長には聞けない。
大河をバイトに誘ったのは、その違和感を確かめたいからかもしれない。
……まぁ、大前提として、人手不足なのは確かだが。
———————
翌日昼休み。
今日の校内は、どこか静かだ。
廊下を歩く足音まで、やけに響く。
そんな空気をぶち壊すように、霧島がわざとらしく言った。
「大河、学生にとって最大の試練がやって来たぞ」
「ん?」
パンの包みを開けながら、大河は気のない返事をする。
霧島はもったいぶるように続けた。
「それはな、長期休みの直前に、必ずと言っていいほど現れる」
「だから、なんなんだよ」
「――期末テストだ」
「⁉️」
大河の手が止まる。
霧島は満足げに頷いた。
「一学期は中間が無かったからな。今まで見逃されていただけだ」
「そういえば……」
「大河」
霧島がゆっくりと顔を向ける。
「我々の小テストの結果……」
一拍。
「……いや、皆まで言うまい」
「言えよ」
「言わなくても分かるだろう」
霧島は静かに告げた。
「我々は今、クラスにおいて――」
やけに芝居がかった間。
「平均点を著しく引き下げるツートップと呼ばれている」
「不名誉すぎるだろ」
即答だった。
霧島は腕を組む。
「安心しろ。俺は気にしていない」
「俺が気にするわ」
霧島はどこからともなく取り出した紙をひらひらさせた。
「ジハードは来週だ。七月二週目」
「ジハードって、大袈裟な」
大河が顔をしかめる。
霧島は真顔で頷いた。
「我々は期末テストのことをそう呼ぶ」
「嘘つけ、誰と誰がだよ」
「甘く見るなよ。これは戦争だ」
「何と戦ってんだよ」
「己だ」
「負け確じゃねぇか」
即答だった。
霧島はわずかに目を細める。
「大河」
「なんだよ」
「裏切るなよ」
「何を」
「自分だけこっそり勉強するなどという暴挙は許さん」
「しねぇよ」
霧島は満足げに頷いた。
「よし、安心した」
「なんの安心だよ」
そこへ、横からひょいと顔を出す影。
「じゃあさー、澪ちゃんにお勉強教えてもらったら?」
小春だった。
「澪ちゃん、アレだよアレ、えーっと……」
指をくるくる回しながら、必死に思い出す。
「帰国処女」
一瞬、空気が止まった。
大河と霧島が、同時に顔をしかめる。
「小春、デカい声で言うなよ」
「帰国した事ない女になってんゾ」
霧島が真顔で補足する。
「帰国子女な」
「あぁ、それだそれ!」
小春がぱっと明るくなる。
大河は少しだけ考えてから、ふと聞いた。
「澪、帰国子女なん?」
霧島は肩をすくめる。
「アメリカにいたらしい」
「アイツ、英語だけじゃないぞ」
「は?」
「県内の名門校にも行けるだけの成績だ」
「なんでまた、こんな……」
大河は周囲を見回す。
騒がしい食堂。
申し訳程度の屋根。
そして、熾烈な席取りの戦場。
「学食しか特色がない学校に?」
小春が胸を張る。
「小春と一緒がいいって!」
「謎だな」
間髪入れずに大河が返す。
「ミステリーだ」
「なんでよー!」
———————-
暑い。
もう言う。これは暑い。
佐藤 夏は、照り返しの強い歩道を見下ろしながら歩いていた。
ネクタイを緩めるか迷って、やめる。
隣のノアさんは、相変わらず変わらない。
「ノアさん、暑いっスね」
「佐藤、言わないで。余計に感じるから」
「気のせいっスよ」
(ノアさん、暑くても相変わらずのクールビューティーっス)
そんなやり取りの途中で、ノアさんの足が止まった。
視線だけが、ゆっくりと動く。
路地。
建物の隙間。
通り過ぎる人の影。
「……ここ」
短く言う。
「何かあったんスか?」
「“あった”というより、“残ってる”」
曖昧な言い方。
でも、この人はこういう言い方しかしない。
(来たな)
佐藤は周囲を見渡す。
特に変わった様子はない。
ただの路地裏。
だが――
「この辺、最近なんかありました?」
ノアさんにぽつりと聞く。
が、佐藤はすぐに思い出す。
「えーと……軽い通報が何件か。物音とか、人影とか」
「被害は?」
「なし。全部“気のせい”で処理されてます」
「そう」
ノアさんは、しゃがみ込んだ。
地面を、指先でなぞる。
何かを“見る”ように。
「佐藤」
「はい」
「記録、全部洗い直して」
「このエリア?」
「周辺も含めて。時間帯は夜寄り」
「了解っス」
(地味だな……いや大事か)
佐藤はスマホを取り出し、メモを打つ。
「あと、共通点」
「共通点?」
「場所じゃなくて、“状況”」
「……あぁ」
なんとなく分かる。
場所をずらしてる可能性。
「わざとバラしてるって事っスか」
ノアさんは立ち上がる。
「そういう相手」
短く、それだけ。
(なるほどな……)
派手な事件はない。
でも、確実に“何か”が動いている。
見えないだけで。
「……追います?」
佐藤が聞く。
ノアさんは少しだけ考えて、
「まだ」
と答えた。
「今は、拾う段階」
「拾う……」
「情報」
言い切る。
ノアさんは、もう歩き出していた。
「行くわよ」
「了解っス」
佐藤はその背中を追う。
(地味だけど)
ポケットの中で、拳を軽く握る。
(こういうの、嫌いじゃない)
————————
夕方。
昼の熱気は少しだけ引いたはずなのに、街はまだぬるい空気に包まれていた。
西日がビルの隙間から差し込み、アスファルトを橙色に染めている。
大河はマンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだ。
微かな機械音だけが、静かに響く。
(……テストか)
霧島とのやり取りが、ふと頭をよぎる。
来週。
七月二週目。
どう考えても、逃げ場はない。
小さく息を吐いた、その時。
ポケットの中が振動する。
画面を見る。
――ノア。
一瞬だけ、間が空く。
出る。
「もしもし」
『大河、今どこ』
「帰宅中」
『ちょうどいいわ。モブ狩り』
「雑に言うな」
即答だった。
『トラ連れて、いつものマンションの下』
「来週からテストなんだけど」
間。
ほんの一拍。
『オッサンがマジメに高校生やってるのは感心だけど』
ノアの声は、いつも通り淡々としている。
『あんたの本業、正義の味方だから』
「ですよねー」
ため息混じりに返す。
こちらの逃げ道は、最初からない。
『装備も忘れないでね』
「了解」
通話が切れる。
エレベーターが、ちょうど最上階に到着した。
軽い音を立てて、扉が開く。
差し込む夕焼け。
その色が、やけに濃く見えた。
大河は一歩、踏み出す。
(……やるか)
日常は、ここまでだった。




