欲望の街
第二十七話
朝の光が、リビングのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
松田義治はテーブルに座り、コーヒーを一口飲んだ。
少し冷めかけている。
キッチンでは、妻の聡美が朝食の準備をしていた。
フライパンの油が小さく弾ける音がする。
いつもの朝だ。
トーストの匂い。
テレビの天気予報。
窓の外を通り過ぎていく通勤の車。
特別なことは、何もない。
「コーヒー、もう少し入れる?」
振り返らずに、聡美が言った。
「いや、大丈夫」
義治は答えた。
聡美は軽く頷くと、またフライパンに目を戻す。
その横顔は、いつもと変わらない。
結婚して五年。
こういう朝には慣れている。
義治はテーブルの上のスマートフォンを手に取った。
仕事のメールがいくつか届いている。
画面を眺めながら、ふと視線を上げた。
聡美がキッチンの端に置いた自分のスマートフォンに手を伸ばしていた。
何かを確認するように、短く画面を見る。
すぐに伏せて置いた。
それだけのことだった。
義治は、特に気にすることもなく視線を戻す。
誰だって朝は忙しい。
仕事の連絡かもしれない。
そんなことより、今日は午前中に取引先との打ち合わせがある。
頭の中で予定を確認する。
テレビではニュースが流れていた。
「——昨夜、市内でまた通り魔事件が——」
アナウンサーの声。
義治はリモコンを手に取り、音量を少し下げた。
物騒な話題は、朝には似合わない。
「最近多いね、こういうの」
キッチンから聡美の声がした。
「そうだな」
義治は短く答える。
聡美はそれ以上何も言わなかった。
皿にトーストを並べて、テーブルに運んでくる。
目が合う。
聡美は、いつも通りに笑った。
義治も軽く頷く。
ただ——
ほんのわずかに。
何かが、少しだけ違う気がした。
理由は分からない。
分かるほどのことでもない。
たぶん、気のせいだ。
義治はトーストを手に取り、何も言わずにかじった。
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六月下旬の朝。雨は降ってない。
大河はペダルを踏み込みながら、ゆるい坂道を上っていた。
ロードバイクの細いタイヤが、アスファルトの上を軽やかに転がる。
湿った風が顔に当たった。
梅雨の朝は、どうにも空気が重い。
昨夜は少し遅かった。
本命ではないが、街外れの倉庫街で、異形を一体。
大した相手ではなかったが、睡眠時間はしっかり削られた。
とはいえ。
学校をサボるほどの理由にはならない。
そんなことを考えていると、背後から甲高い声が飛んできた。
「おーい! 大河!」
振り向くと、同じ坂を勢いよく登ってくる自転車が一台。
霧島だ。
やたらと派手な色のロードバイクで、全力ダンシングしている。
「朝からレースか?」
追いついてきた霧島が息を切らしながら言った。
「してない」
「いや、絶対してただろ。顔が“勝ちに行ってる人”だった」
「どんな顔だ」
霧島は並走しながら、大河の自転車をじろじろ見る。
「相変わらず軽そうだな、それ」
「普通だ」
「俺の三倍くらい高そうなんだけど」
「気のせいだ」
「いや絶対気のせいじゃない」
霧島は少し黙ってから、ニヤッとした。
「さては夜中に闇バイトしてんな」
「してない」
「最近いつも眠そうにしてんぞ、何してんだよ夜」
「ゲーム」
「便利な言葉だな“ゲーム”」
信号が赤になり、二人は並んで止まった。
自転車の列が、朝の通学路にゆっくり伸びている。
霧島はボトルの水を飲みながら言った。
「しかし物騒だよな」
「何が」
「通り魔」
ニュースでやってたろ、と霧島は言う。
大河は軽く頷いた。
知らないわけがない。
むしろ——
前世の俺は被害者と言っていい。
普通の人間より、少しだけ事情を知ってい る。
信号が青に変わった。
二人は同時にペダルを踏む。
「まあ俺は大丈夫だけどな」
霧島が言う。
「なんで」
「ロードバイクは速いから」
「そういう問題じゃない」
「いや結構重要だろ」
霧島は笑いながらスピードを上げた。
「じゃ、学校まで勝負な!」
「勝手にやってろ」
そう言いながらも、大河は少しだけギアを上げた。
梅雨の空の下、二台のロードバイクが並んで坂を下っていく。
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異形対策室の照明は、朝でも変わらず白く冷たい。
ノアはデスクの上に置かれた資料を静かにめくった。
昨夜は、大河と合流していた。
モブの異形者を一体。小物だ。処理自体は難しくなかった。
だが——
ヤツは、別の場所で動いていた。
連続通り魔殺人鬼。
ノアは小さく息を吐いた。
机の端には、現場写真が並べられている。
被害者。
小松香織(25)
職業、クラブホステス。
犯行時刻は深夜一時頃と推定されている。
場所は住宅街の路地。
繁華街から少し離れた、静かな区域だ。
タクシーで帰宅したという証言がある。
それなのに。
彼女は、路地で発見された。
ノアの視線が写真に落ちた。
衣服は切り裂かれ、服としての原形をとどめていない。
発見時、被害者はほぼ全裸の状態だった。
首を鋭利な刃物で切られている。
失血死。
医師の見立てでは、ほぼ即死だろう。
ただし——
性的暴行の痕跡はない。
ノアは眉をわずかに寄せた。
机の上の別の写真。
現場の壁。
そこに残された、血の文字。
天誅
乱れた筆跡。
だが、意図ははっきりしている。
この言葉は、まだ公表されていない。
現場にいた警察関係者と、異形対策室の一部。
それだけが知っている。
当然、目撃者には緘口令が敷かれている。
ノアは椅子の背にもたれた。
本命を逃した。
昨夜、トラに異形の匂いを追わせた。
それでも、辿り着けなかった。
それが妙だった。
トラからは呪いが深いほど、逃げられないはずなのに….
まるで——
最初からそこに存在しなかったかのように。
ノアは資料を閉じた。
静かな室内に、紙の音だけが残る。
連続通り魔は、まだこの街にいる。
それだけは、確かだった。
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午後三時。
営業車のハンドルに片腕をかけながら、柴崎直也はスマートフォンを眺めていた。
画面に映っているのは、女の写真。
島津綾香。
二十六歳。
今、直也が付き合っている恋人だ。
取引先である島津家の娘。
この市内で古くから土地を持つ地主一族で、マンションや商業ビルをいくつも所有している。
生まれながらの勝ち組。
直也は、そう思っている。
仕事で出入りするうちに、父親にすっかり気に入られた。
背が高く、顔も悪くない。
愛想もいいし、口も回る。
営業としてはそれなりに優秀だ。
相手が何を聞きたいか、何を言ってほしいかを察するのがうまい。
それだけだ。
それだけで、人は簡単に信用する。
その流れで娘を紹介され、付き合うようになった。
綾香は綺麗だ。
育ちの良さもある。
そして何より——金がある。
直也はスマートフォンの画面を閉じた。
今の女は、チャンスだ。
だからそろそろ、整理しなきゃいけない。
どうでもいい女たちを。
聡美も、その一人だ。
昔付き合っていた女。
今は別の男と結婚している。
結局あいつは、金のある男を選んだ。
会社経営の旦那だったか。
まあ、分からなくもない。
生活は大事だ。
別に恨んでいるわけじゃない。
ただ——
俺を捨てた。
それだけだ。
直也の方に未練はない。
正直、もうどうでもいい。
それでも関係が続いているのは——
聡美の方が望んでいるからだ。
あいつは昔から、身体の相性がいいと言う。
他とは違う、と。
だから結婚したあとも、時々連絡が来る。
呼び出される。
直也はそれに付き合っているだけだ。
別に罪悪感もない。
女は、向こうが来るなら拒む理由もない。
だが——
綾香と本気で結婚を考えるなら、さすがにまずい。
面倒になる前に切るべきだ。
直也はシートに深く背を預け、小さく息を吐いた。
その時、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、直也はわずかに口角を上げる。
松田聡美。
タイミングがいいのか、悪いのか。
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最悪な日だった。
聡美はデスクの上の書類を閉じ、小さく息を吐いた。
理不尽なクレーム。
上司の的外れな注意。
やる気のない後輩。
午後になっても、イライラは消えない。
こういう日は決まっている。
直也だ。
あいつと会えば、だいたい気分が晴れる。
午後三時を少し回った頃。
フロアの人間が会議だの外出だので少なくなったタイミングを見て、聡美はスマートフォンを持って席を立った。
給湯スペースの奥。
誰もいないのを確認してから、直也に電話をかける。
コールはすぐにつながった。
『どうした』
いつもの、少し気の抜けた声。
「今日、会える?」
聡美は遠回しな言い方をしない。
直也も意味は分かっている。
少しの沈黙。
そして——
『今日は無理』
あっさりした返事だった。
聡美は眉をひそめた。
「は?」
思わず声が低くなる。
無理?
直也が?
今までだって、急に呼び出しても何だかんだで来ていたくせに。
仕事があるだの予定があるだの言いながら、結局は会っていた男だ。
それなのに今日は断る?
意味が分からない。
『今日はちょっとな』
それだけ言って、直也は通話を切った。
聡美はしばらくスマートフォンを見つめていた。
むかつく。
なんで断るのよ。
別に恋愛感情があるわけじゃない。
今さらそんなものはない。
でも——
体の相性だけは別だ。
昔から、他の男とは全然違う。
だから結婚したあとも、なんだかんだで関係が続いている。
向こうだって嫌じゃないはずだ。
それなのに今日は断るなんて。
聡美は小さく舌打ちした。
このままじゃ、夜までイライラが続きそうだ。
聡美は連絡先をスクロールする。
直也がダメなら、別に他でもいい。
指が止まったのは、ひとつの名前。
伊藤賢人。
前によく行っていたイタリアンバルのバイトの大学生だ。
年下で軽い。
正直、質は大したことない。
直也と比べたら全然だ。
でも——
体力だけはある。
回数だけなら、まあ悪くない。
聡美は短くメッセージを打った。
送信。
数秒で既読。
そしてすぐに返信。
……ほんと分かりやすい。
聡美は小さく笑った。
直也が来ないなら、それでいい。
今日はただ、発散したいだけなんだから。
聡美は左手の結婚指輪をくるくる回す。
罪悪感など既に無くなっていた。
——————-
男は歩道の端に立ち、通りを行き交う人間たちを静かに眺めていた。
夕方の街は、人の流れが絶えない。
仕事帰りの会社員、買い物袋を提げた主婦、制服姿の学生。
誰もがそれぞれの事情を抱えながら、当たり前の顔をして歩いている。
その中には、腕を組んで笑い合う男女の姿もあった。
女は楽しそうに笑い、男は何かを囁くように顔を寄せている。
どこにでもある光景だ。
この街では、きっと珍しくもない。
男はしばらくその様子を見つめていたが、やがて小さく視線を外した。
「あの人の言う通りだ」
ぽつりと呟く。
世界は不条理で、欺瞞に満ちている。
人は平然と嘘をつき、裏切り、
それでも何事もなかったかのような顔で日常を続けていく。
そんな人間が、あまりにも多すぎる。
男は再び通りに目を向けた。
行き交う人々を、ひとりひとり確かめるように見ていく。
だが、やがて静かに首を振った。
「……違うな」
裁くべき人間かどうかは、正しく見定めなければならない。
男は歩き出す。
夕暮れの人波に紛れながら。
——いずれまた見つかる。
裁かれるべき人間は、必ずいるのだから。




