それぞれの日常
第二十四話の医師の名前を間違えておりました。
訂正してお詫び致します。
第二十六話
夜風が、昼間の熱をわずかに残したアスファルトを撫でていた。
聡美は肩にかけたバッグを押さえながら、住宅街の歩道を歩いていた。
駅前の喧騒はとうに遠ざかり、聞こえるのは遠くを走る車の音と、自分のヒールが地面を叩く規則的な音だけだ。
さっきまでいたホテルの部屋を、ふと、思い出す。
白いシーツ。
シャワーの湿った匂い。
煙草を吸いながら、窓の外を見ていた直也の背中。
聡美は小さく息を吐いた。
楽しかったわけでもない。
かといって、後悔しているわけでもない。
ただ——少しだけ、現実から離れていられた。
スマートフォンが震える。
画面を見る。
《夕飯どうする?》
旦那からのメッセージだった。
聡美は数秒それを見つめ、何も打たずに画面を消した。
バッグにしまい、また歩き出す。
街灯の光が、歩道に長い影を落としている。
そのとき。
ふと、背中に視線を感じた。
聡美は足を止め、振り返る。
誰もいない。
住宅街の道が、静かに伸びているだけだった。
自販機の明かりが、白く道端を照らしている。
「……気のせいか」
小さく呟き、また歩き出す。
ヒールの音が遠ざかる。
その背中を見送るように——
少し離れた電柱の影が、
わずかに、動いた。
—————-
夜の河川敷。
昼の熱を失った風が、草をざわりと揺らしている。
街灯の光は土手の上までしか届かず、川辺はほとんど闇に沈んでいた。
その闇の中で——
何かが、動いた。
人影。
だが、その姿は人間のものではなかった。
腕が異様に長く、関節が逆向きに曲がっている。
皮膚の下で何かが蠢き、形が定まらない。
顔の輪郭も、溶けた蝋のように歪んでいた。
異形。
ぐるり、と首が回る。
そして。
「グォォ……」
低い唸り声。
次の瞬間。
土を蹴る音が響いた。
「いたいた」
軽い声。
大河だった。
「かなり呪いが深い」
その後ろの、腕を組んだノアが言う。
そして、黒い影が静かに歩く。
トラだ。
異形が腕を振り上げた。
鞭のようにしなる腕が、空気を裂く。
だが——
「遅い」
大河の体が横に流れた。
振り下ろされた腕をかわし、踏み込む。
ドンッ
拳が腹部にめり込んだ。
鈍い衝撃音。
異形の体が大きく揺れる。
その瞬間。
異形者の体から
黒い霧が、じわりと滲み出た。
まるで煙のような、濃い闇。
「出てきたわね」
ノアが静かに言う。
異形が吠える。
腕を振り回し、地面を抉る。
「うおっ、暴れんなって!」
大河は軽く距離を取る。
「トラ!」
短く呼ぶ。
黒い影が跳んだ。
ガルルッ!!
トラが異形の足へ噛みつき、その体の自由を奪う。
異形がもがく。
だがその動きに合わせて、黒い霧がさらに溢れ出す。
霧の中心で——
小さな光が、脈打っていた。
「見えた」
ノアが言う。
「核よ」
大河がニヤリと笑う。
「了解」
拳を握る。
その瞬間。
拳の周囲の空気が、わずかに軋んだ。
ノアが与えたギフト。
「破壊」
大河が踏み込む。
一瞬。
霧の中心へ拳を突き込んだ。
「壊れろ」
バキンッ
爆発の様な衝撃、何かが砕ける音。
次の瞬間。
黒い霧が、弾けた。
煙のように四散し、夜風に溶けて消える。
異形の体がぐらりと揺れた。
そして。
膝から崩れ落ちる。
体の歪みが消え、そこには——
普通の男が倒れていた。
河川敷に、静寂が戻る。
大河が肩を回す。
「はい、終了」
ノアが倒れた男を確認する。
「生きてる」
トラが満足そうに鼻を鳴らした。
大河が空を見上げる。
「しかしさ」
ノアを見る。
「コレもモブ?」
ノアは端末を見ながら答える。
「ええ」
少しだけ、間。
「少し呪いが深いだけ」
川の音だけが流れる夜。
どこか遠くで、
また何かが動いているような気がした。
——————-
昼休み前の教室は、蒸し暑かった。
六月下旬。
梅雨の湿気が、教室の空気をじっとりと重くしている。
開け放たれた窓から入る風も、ぬるい。
机を引く音。
誰かの笑い声。
団扇をぱたぱたと扇ぐ音。
そんなざわめきの中で。
大河は頬杖をつきながら、ぼんやり窓の外を見ていた。
校庭の木の葉が、重たい空気の中でゆっくり揺れている。
のどかだ。
平和だ。
そして。
眠い。
「……」
小さく息を吐く。
理由は簡単だった。
昨夜。
河川敷での一件。
異形を片付けて、ようやく帰れると思ったところで——
ノアが、ふと思い出したように言ったのだ。
『おっと、忘れてた』
大河が振り向く。
『どうした?』
ノアはいつもの無表情のまま、小さな紙袋を差し出した。
『遅くなったけど、誕プレ』
『……は?』
思わず声が裏返る。
『俺に?』
『はいこれ』
紙袋。
装飾は無し。
妙に実用一点張りの袋だった。
大河は半信半疑で中を覗く。
『……これ』
ノアがあっさり言う。
『こないだの特殊警棒。私とオソロ。うれしいでしょ』
『……』
『それと』
まだあるのか。
ノアが指を一本立てる。
『天界特製、アンダーウェア』
『……』
『長袖と、足首までのタイツ』
『スポーツインナーみたいなやつ?』
『そんな感じ』
ノアは淡々と続ける。
『防刃仕様よ』
『……』
『今なら2セット』
『通販かよ』
『洗い替え付き』
大河は紙袋の中身を見つめた。
役に立つのは、間違いない。
だが。
『……なんか妙に現実的だな』
ノアは腕を組む。
『戦闘は装備よ』
そして少しだけ得意そうに言う。
『喜びなさいよぅ。コストそれなりにかかってんだから』
——そこまで思い出したところで。
「……」
大河は教室で、ゆっくり視線を戻した。
昨日の紙袋は、部屋に置きっぱなしだ。
「……」
なんとなく呟く。
「誕プレって、なんだろうな」
そのとき。
隣の席から声が飛んできた。
「どうした大河」
霧島だった。
大河は少しだけ間を置いてから答える。
「いや」
肩をすくめる。
「俺、こないだ誕生日だったじゃん」
「おう」
霧島が頷く。
「プレゼント貰ったんだよ」
「いいじゃん」
「うん」
大河は少し考えてから言った。
「でもさ」
霧島を見る。
「なんか、こう……」
言葉を探して。
「思ってたのと違うやつだった」
霧島が笑う。
「なんだよそれ」
「いや」
大河は苦笑する。
「説明しにくい」
霧島は机に肘をついた。
「余計気になるわ」
少し身を乗り出す。
「で?」
ニヤニヤしながら言う。
「美魔女のカァちゃんから、コンドーさんでももらったか?」
大河は一瞬だけ考えた。が、やめた。
「いや、気にすんな」
「気になるわ。夜しか寝れなくなるじゃねぇか」
霧島に少しのストレスを与えて、この話は強制終了してやった。
——————-
午後の外来がひと段落すると、医局の空気が少しだけ緩んだ。
六月下旬。
梅雨の湿気が、窓の外の空気を重くしている。
静香はカルテを閉じ、ペンを机に置いた。
応援医師が来てから、数日。
病院の流れは少しだけ変わった。
救急の回りが、明らかに早い。
外科の判断も的確だ。
医局の誰かが言っていた。
「高瀬先生、やっぱりすごいですね」
静香はその言葉に、小さく頷いた。
高瀬和宏
大学病院の外科医。
そして——
壮一の後輩。
仕事ができるのは知っていた。
診断が早い。
処置が迷わない。
それでいて、患者への説明は驚くほど丁寧だ。
忙しい現場でも、声を荒げることがない。
そういう医師は、意外と少ない。
廊下の向こうで、看護師たちの声がした。
「高瀬先生、また救急呼ばれてます」
「本当? 今日三回目じゃない?」
小さな笑い声。
静香は、ふと窓の外を見た。
灰色の雲がゆっくり流れている。
忙しい人だ。
昔からそうだったのかもしれない。
あの人も、似たような働き方をしていた。
頼まれれば断らない。
仕事を抱え込みすぎる。
そんなところまで、少し似ている気がした。
そのとき。
医局のドアが開いた。
「失礼します」
落ち着いた声。
振り向くと、高瀬が立っていた。
白衣の袖を軽く整えながら、穏やかに言う。
「救急、ひとつ片付きました」
「お疲れさまです」
静香は短く返した。
それだけのやり取り。
けれど。
医局の空気は、少しだけ軽くなる。
誰かが言った。
「高瀬先生いると安心しますね」
冗談半分の声。
だが、誰も否定しなかった。
静香もまた、何も言わなかった。
ただ。
カルテを開きながら、静かに思う。
——優秀な人だ。
それは、間違いない。




