休息と救済
第二十一話
静かな部屋。
昨夜の戦闘の余韻が、まだ指先に残っている。
核が砕けた瞬間。
あの振動。
大河の一撃は想定以上だった。
……無事に送れた。
歩ける程度には回復していたし、顔色も誤魔化せる範囲。
静香は気づいていない、はず。
おそらくあの人は鋭い。
でも今回は、痕跡は残していない。
たぶん。
ノアはタブレットに視線を落とす。
対象――木下彰。二十四歳。無職。
ギャンブルによる多額の借金。
闇金業者を襲撃。
監視カメラは破損。
目撃証言は錯綜。
その他、キャバクラ、地下カジノや小さな被害も….
本人の供述。
“他人の運気を奪えるようになった”
“吸えば吸うほど強くなった”
そして。
“黒スーツの男に、力が必要かと聞かれた”
そこから先は曖昧。
接触は一度きり。
名前も素性も知らない。
シドについての情報は、ほぼ無し。
偶発ではない。
選別されている?
力を与えられ、暴走し、観察される。
実験体。
ノアは静かに息を吐く。
——————
月曜の朝。
体がバキバキだ。
いや、正確には「わりとバキバキ」。
日曜はほぼ布団と同化していた。
正義の味方の代償、思ったよりリアル。
ノアのギフト――超回復。
ありがたい。
ちょっと悔しいけど。
リビングから静香の声。
「今日は早いのね」
振り向く。
エプロン姿。
コーヒーの湯気。
母親。
……なんだけど。
脳内ではなぜか、いまだに、
小学生時代の“委員長モード”が再生される。
背筋ぴーん。
出席番号順に並びなさい、みたいな。
「まあ、ちょっと」
できるだけ自然に返す。
筋肉痛は隠せているはず。
歩き方も普通。
たぶん普通。
静香がじっと見る。
三秒。
いや二秒半。
医者の目。
「無理しないでね」
それだけ。
セーフ。
たぶんセーフ。
玄関を出る。
ロードバイクにまたがる。
ペダルを踏む。
……うん、脚は重い。
でも走れる。
風が顔に当たる。
ちょっと気持ちいい。
拳を軽く握る。
バチバチは、ない。
残ってない。
……はず。
今は普通の高校生を全力で演じる
————————
月曜の教室は平和だ。
机も無事。窓も割れていない。
少なくとも今のところ、黒い霧が立ち上る予定もない。
完璧な日常。
そう思った三秒後。
「タイガー」
来た。
振り向くと、小春が腕を組んで立っている。
仁王立ち。完全に裁判長の構え。
その横で澪が「まあまあ」と言いたげな顔をしているが、止める気はなさそうだ。
そして当事者その一、霧島は静かに本を読んでいる。
「タクちゃんだけズルい」
「主語がない」
「あるよ! ペンタゴン!」
「ペントハウスな」
ペンタゴンだと急に国家機密感が出るからやめてほしい。
小春は机に身を乗り出す。
「前にさ! 三人で行くって言ったじゃん!
なのにタクちゃんだけ先に行くってどういうこと!」
澪が控えめに補足する。
「……知り合いのお見舞いついで、って言ってたよね」
霧島、ページをめくりながら。
「ちょっと寄っただけだ」
その一言で済むと思っている顔だ。
ある意味すごい。
「そんなんでペンタゴン入れる!?」
だから国防総省にするな。
教室の数名が“ペンタゴン?”とざわつく。
やめろ。話が大きくなる。
白河家所有のペントハウス。
現在、大河と静香の二人暮らし。
説明すると長い。
説明しなくても面倒。
「別に特別許可制とかじゃない」
「じゃあ今度わたしも行く!」
即断即決。民主主義とは。
澪も小さくうなずく。
「私も、やっぱりみてみたいな」
霧島がこちらを見る。
ほんの少しだけ真面目な目。
――助ける気はないらしい。
頭の中で高速計算。
母・静香。
トラの存在。
ノアの待ち伏せ。
その他いろいろ言えないやつ。
難易度S。
「……今度な」
消極的承認。
「よっしゃタイガー確保!」
なにを確保された。
小春は満足そうに席へ戻る。
澪は苦笑し、自分のクラスへ。
霧島は再び本に目を落とす。
教室は再び平和。
たぶん。
拳を軽く握る。
バチバチは、やっぱりない。
でも今の問題はそこじゃない。
異形よりも厄介なのは、
“友達が家に来る”という、
この世で最も説明の難しいイベントかもしれない。
—————————
月曜の昼。
病院の休憩室は、いつも通りの静けさだった。
白衣を脱ぎ、簡素な昼食を広げる。
サンドイッチとスープ。
味は、よく覚えていない。
土曜の夜。
時計は確か、日付を越えていた。
廊下の気配。
玄関の開閉音。
大河が出入りしていた。
気づいていた。
心配はした。追及は、していない。
できなかった、が正しいかもしれない。
日曜は一日、家にいた。
部屋からほとんど出てこなかった。
体調が悪いようには見えなかった。
でも、どこか疲れていた。
男の子は難しい。
――そういう問題なのかも、分からない。
静香は小さく息を吐く。
子育て。
その言葉に、まだ慣れない。
大河が目覚めたあの日から。
あの違和感のある目でこちらを見た瞬間から。
すべてが始まった気がしている。
それまでは、ただ見守る対象。
それ以降は――
“向き合う”存在。
母親としての時間は、
実質、あの日から動き出した。
遅すぎるスタート。
それでも。
大河は、何かを隠している。
問いただすべきか。
待つべきか。
スープはもう冷めている。
静香はスプーンを置いた。
医師としての自分は、仕事への向き合い方をよく分かっているつもりだ。
母親としては――
まだ、手探りだ。
———————-
チャイムが鳴った瞬間、
小春は椅子を回転させてこちらを向いた。
勢いがいい。
勢いしかない。
「タイガー」
その一言で嫌な予感がするのは、もう経験則だ。
「ズルい」
主語がない。が瞬時に察した。
まだ言ってやがる。
霧島は静かに立ち上がり、バッグを肩にかける。
逃げる気はないが、弁明する気もなさそうだ。
「この前さ!」
小春は机に身を乗り出す。
「三人で行くって言ったよね!? ペンタゴン!」
もう、ペンタゴンでいい。面倒だ。
廊下に出ると、別クラスの澪が合流する。
「まだその話してるの?」
状況を一瞬で理解した顔。
さすがだ。
小春は指を突きつける。
「だってさ! タクちゃんだけ行ったんだよ!? 駆け落ちだよ!?」
霧島が淡々と訂正する。
「駆け落ちでは無い。」
「じゃあ何!」
察するに、抜け駆けだな。
「白川総合病院に先輩の見舞いに行ったっつったろ」
静かに事実を置く。
白川総合病院。
つまり大河の家の近く。
澪がうなずく。
「それで、近かったから寄ったんだよね」
「うむ」
うむ、じゃない。
小春が固まる。
三秒。
理解。
そして爆発。
「近かったからって入れるのがもうズルいの!」
理不尽である。
「別に入場制限はない」
「あるよ! 心の壁が!」
誰の。
放課後の廊下は騒がしい。
部活の掛け声。
階段を駆け下りる足音。
その中で、なぜか“ペンタゴン問題”だけが熱い。
澪がくすっと笑う。
「でも突然行ったのに入れてくれたんでしょ?」
視線が集まる。
痛い。
「……たまたま家にいた」
嘘ではない。
説明を省略しているだけだ。
小春は腕を組み、探偵の顔になる。
「つまりタイガーは突然訪問OK系男子」
「ジャンル化するな」
霧島がちらりとこちらを見る。
ほんの少しだけ、探る目。
いつもそうだ。
俺を観察する目。
……霧島、あっちじゃ無いよな。
小春が宣言する。
「じゃあ今度は正式に行く!」
「手続きいるのか」
「いるでしょ! ペンタゴンだよ!?」
だから違う。
澪がまとめに入る。
「ちゃんと日程決めよ? 突然は迷惑だよ」
まともだ。
ありがたい。
「……今度な」
再度、消極的承諾。
小春がガッツポーズ。
「よし、攻略開始!」
家はダンジョンじゃない。
笑いが広がる。
平和だ。
異形の件なんか無かったかの様に…まぁコイツらは知らないんだが。
異形より厄介なのは、
たぶんこういう日常の勢いなのかもしれない。
でも。
悪くない。
「とりあえず今日は解散だ」
「逃げた!」
小春の声が廊下に響く。
———————-
夕方。
エレベーターが最上階に着く音は、相変わらず無駄に高級感がある。
ドアを開けると、静かな空気。
どうやら静香はまだ戻っていない。
よし。
バッグを置いて、着替える。
日課のトレーニング。
といっても今日は軽め。
軽めのジョギング。
ほぼ散歩。
昨日の反動を考えれば、それが正解だ。
無理をするのは簡単。
でも、続ける方が難しい。
身体はもう大丈夫。
痛みは引いている。
違和感もない。
ノアのギフト様々だが、過信はしない。
休息もトレーニングのうち。
それっぽいことを自分で言ってみると、ちょっとだけ上級者っぽい。
玄関を出ると、トラが当然のようについてくる。
「よし、行くか」
尻尾がぶんぶん振られている。
マンション周辺をゆっくり走る。
走る、というより流す。
呼吸を整える。
足の運びを確認する。
夕暮れの空気は少し冷えていて、ちょうどいい。
トラは終始ご機嫌だ。
ときどきこちらを見上げては、
“遅くない?”とでも言いたげな顔をする。
今日はこれでいい。
ペースより回復優先。
正義の味方のお勤めを果たした人間のリカバリーのメニューとしては、かなり健全だと思う。
公園の横を通る。
子どもがボールを追いかけている。
どこにでもある光景。
世界は普通に回っている。
少なくとも今は。
トラが急に立ち止まる。
何か見つけたらしい。
ただの鳩だった。
大河はため息をつく。
「狩じゃないぞ」
トラは鳩を目で追いながら、ちょっと残念そうだ。
お前、戦闘犬に進化しすぎだ。
軽く一周して、戻る。
汗はうっすら。
心拍も安定。
よし、今日はここまで。
無理はしない。
続けることの方が大事だ。
エントランスに入る前、空を見上げる。
何も起きていない夕暮れ。
それが少しだけ、ありがたい。
「帰るか」
トラが小さく鳴いた。
今日は、本当に。
普通の一日で終わりそうだ。
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夜の街を見下ろす男がいる。
光は均等に瞬いている。
だが、与えられた明るさは均等ではない。
この世界は平等などではない。
持つ者。
持たざる者。
祝福された者。
見放された者。
努力の前に、環境がある。
才能の前に、出発点がある。
ならば――
せめて本能の赴くままに。
欲望のままに。
持たざる者や見放された者にも、抗う力くらいは与えられてもいい。
世界の管理者は安定を望む。
均衡。
停滞。
波風の立たぬ水面。
だがその水面の下で、
溺れる者がいる。
救済とは何だ?
選ばれた者だけが手を取られることか?
違う。
だから私が祝福を与える。
力を欲する者に。
渇ききった者に。
せめて、この不条理な世界で
牙を剥けるように。
夜風が男のコートを揺らす。
街の灯りが瞳に映る。
「――次は、誰が求める」
その声は、優しかった。




