夜、動き出す
第十七話
夜。
雑居ビルの非常階段。
街のネオンが遠くで滲んでいる。
木下は手を開いたり閉じたりしていた。
指先が、熱い。
身体の奥で、何かが脈打っている。
「……悪くない」
いや、悪くないどころじゃない。
みなぎっている。
以前までの重かった身体が、嘘みたいだ。
借金?
どうでもいい。
仕事?
知るか。
頭の奥が、やけに冴えている。
自分は――
特別だ。
そう思った瞬間、胸の奥で黒い核が小さく震える。
足りないものは、奪えばいい。
運も。
金も。
女も。
世界は、奪う側と奪われる側に分かれている。
今、自分は前者だ。
通りを歩くカップルを見下ろす。
笑っている。
楽しそうだ。
「……くだらない」
指先がうずく。
少し触れればいい。
少し奪えばいい。
それだけで、立場は逆転する。
木下は口角を上げる。
「何でも出来るな、これ」
黒い核が、鼓動する。
どくん。
どくん。
わずかに、影が濃くなる。
気づかない。
まだ気づかない。
それが“自分のものではなくなり始めている”ことに。
木下は夜を見下ろす。
世界が、小さく見えた。
———————
土曜日。学校は休みだ。
目覚ましより先に目が覚める。
若い身体、便利すぎる。
「これが十代の回復力か……」
誰もいない部屋でひとり納得する。
トラが布団の横で迷惑そうに尻尾を振った。
「分かってる。二度寝は甘えだ」
起き上がる。
軽くストレッチ。
腕立て開始。
一、二、三――
(……そういえば)
昨夜。
街灯の下。
ノアが急に言った。
「ああ、そうだ」
「ん?」
「渡すものあった」
大河は腕を組む。
「誕生日は来月のはずだが?」
「違うし。なんであんたの誕生日祝うのよ、あたしが」
「まぁ、正確にはこの身体のなんだが」
「ややこしいわ」
間。
ノアは小さく息を吐く。
「こないだの田島のとき、手、腫れてたから」
大河はきょとんとする。
数秒後、目が輝く。
「まさか……ついにマジックアイテムか」
「違うわよ。いいかげん異世界ものあきらめて」
「異世界産ではあるんだろ?」
「……まぁ、あんたからすればそうなるか」
「ほら!」
ノアはポケットから黒いグローブを取り出した。
ぽい、と投げる。
大河、キャッチ。
「……」
見た目は地味。
でも妙に軽い。
妙にしっくりくる。
「拳の保護用。でも呪いには効くようにしてある」
「それをマジックアイテムと言う」
「言わない」
「言う」
「言わない」
トラが小さく鼻を鳴らす。
ノアはそっぽを向いた。
「使えるかどうかは、あんた次第」
大河はグローブを握る。
ほんの少し、空気が締まった気がした。
*
――三十。
腕立てを終える。
土曜の朝は平和だ。
机の上には、昨夜受け取った黒いグローブ。
改めて眺める。
オープンフィンガーより小さい。
そもそも、フィンガーがオープンしてないが。
だが形は近い。
バイク用のグローブ、といったほうがしっくりくる。
無駄がない。
飾りもない。
いかにも“実用品”。
「正義の味方、装備更新ってやつか」
言ってから気づく。
更新も何も、今までは完全に丸腰だった。
「……初期装備ゼロだったな」
足元のトラを見る。
トラは興味がなさそうに大きく欠伸をした。
ヒーローの相棒、やる気ゼロである。
*
午後。
平和。
机の上には黒いグローブ。
ヒーロー装備(暫定)。
大河はそれを眺めながら、プロテインを飲む。
「……うむ」
何が“うむ”なのかは自分でも分からない。
そのとき。
♪ ぶるるるる
スマホが震えた。
大河、止まる。
もう一度震える。
♪ ぶるるるる
「……誰だ」
そもそも滅多に鳴らない。
このスマホは主に、
・連絡網
・委員長(母だが)
・たまに迷惑メール
で構成されている。
土曜日。
この時間。
(委員長か?)
今日は病院に出ているはずだ。
仕事中に電話をよこすタイプではないが、
“緊急”という単語が一瞬よぎる。
大河は真顔で画面を見る。
表示名。
――霧島拓実
「キリタク」
思わずスーパーアイドルっぽくあだ名をつけてしまった。
理由はない。つけたかっただけだ。落ち着け。
トラが小さく首を傾げる。
「……土曜に?」
スマホが三度震える。
大河はゆっくり通話ボタンを押した。
*
「大河、今家?」
「まぁ」
「今、お前ん家の下」
「何故?」
「は?」
「ペントハウス招待の件か?」
「その件とは別だ。近くに来ただけ」
「そうか。んじゃ」
「待て、待て、待てぃ」
一瞬、通話が遠のく。
霧島は――
この身体になってから出来た、最初の友達だ。
だから、少しだけ。
「ロック解除した。最上階だ。エレベーター押し間違えるな」
「緊張させんな」
*
インターホン。
霧島、初ペントハウス。
入ってきて、止まる。
「素敵な玄関ですねぇ」
「渡◯篤史か」
「ナニソレ?」
世代差が露呈した。
「……広」
「天井がな」
「全部だわ」
靴を脱ぎながら視線を泳がせる。
「小春と澪は一緒じゃないのか?」
「ペントハウス招待の件は別な」
「まとめて処理してくれ」
トラが近づく。
霧島、二度見。
「なんだこの犬のような生き物は?」
「犬だが」
「なんかマダラだし、トサカがあんゾ」
「そういう犬だ」
「そうなのか」
納得はやい。
「で?」
空気が少し落ち着く。
霧島は壁にもたれた。
「お見舞いに行ってた、白川病院」
「……..」
「前に話した事あったろ、ジムの先輩」
「格闘技ジムの」
「ああ」
「ミット打ちで壁揺らす人、ホントかよ」
「それ」
「入院した」
大河の表情がわずかに動く。
「怪我?」
「顔面。顎、骨折」
「繁華街でケンカ止めに入ったらしい」
霧島は続ける。
「でもな」
視線が少し鋭くなる。
「先輩が素人にやられるとは思えない」
大河は黙って聞く。
「かなりヤバいヤツがいた可能性ある」
静かになる。
広い部屋の空気が、わずかに重くなる。
何も言わない。
「なんか、最近物騒になった」
霧島が呟く。
「繁華街は昔から物騒なトコだ」
「そういう意味じゃねぇ」
「ならどういう意味だ」
「……なんとなく、だ」
間。
空気が少し重い。
大河は視線を逸らす。
「そういえば」
「ん?」
「バイトは?」
霧島は腕時計を見る。
「あ」
「忘れていた顔だな」
「三十分後だ」
「走れ」
「ペントハウスのエレベーターは速いか」
「普通だ」
「夢を壊すな」
霧島は玄関に向かう。
靴を履きながら振り返る。
「またな」
「あぁ」
ドアが閉まる。
静かになる。
広い部屋。
トラがあくびをする。
「……」
♪ ぶるるるる
スマホが震えた。
今日二度目。
「……今日はよく鳴るな」
画面を見る。
「二件目だが」
表示名。
――ノア。
トラが、今度は尻尾を止めた。
「……頭の中に直接じゃないのな」
通話。
『もしもし』
「いつもみたいに脳内直通かと」
『コストかかるのよ』
「そう言えばコストって何だ、新手の大型スーパーか?」
『……コストって言うのは….まぁいいわ、面倒だから今度説明する』
「説明放棄したな」
『今は本題』
わずかに声が締まる。
『お友達、帰った?』
「帰った」
『昨晩の繁華街の件、聞いた?』
沈黙。
「……知ってるのか」
『こっちは仕事』
一拍。
『異形対策室は、通常の傷害事件も洗うの』
声色が、完全に警察のそれになる。
『格闘技ジム所属、二十代男性。顎骨折。白川病院搬送』
大河の目が細くなる。
「捜査済みか」
『防犯カメラ映像も確認済み』
間。
『相手は一人』
「一人?」
『動きが普通じゃない』
静かな部屋。
トラが伏せる。
大河は、机の上に置かれた黒いグローブに一度だけ視線を落とす。
それだけ。
「異形か」
『断定はまだ』
即答。
『でも、放っておく案件じゃない』
一拍。
『今夜、動ける?』
———————-
最近、分かったことがある。
俺、強い。
いや、本当は前から強かったのかもしれない。
ただ――今は違う。
限界がない。何かを奪った感覚はある。それが何かは、もうどうでもいい。—-俺は最強だ。
昨日の格闘技かぶれも敵じゃなかった。
「ツケでいいだろ?」
ソファにふんぞり返る。
キャバ嬢の笑いが引きつる。
ボーイが近づいてくる。
「お客様、それは――」
肩に触れる。
「触んな」
軽く、払う。
本当に、軽く。
ボーイの身体が宙を舞う。
壁にぶつかる音。
崩れ落ちる。
動かない。
店内、静まり返る。
俺は手を振る。
やっぱりな。
「だから触んなって」
怖がる顔、いいな。
力ってのは、こうやって使うもんだ。
*
同日、深夜。
地下カジノ。
煙草と欲望の匂い。
カードを叩く。
「イカサマだろ」
ディーラーが否定する。
黒服二人。
別室。
ドアが閉まる。
一人が殴ってくる。
遅い。
世界がスローに見える。
腹に一発。
浮く。
人って、こんなに軽いんだな。
もう一人。
顔面に拳。
床に転がる。
沈黙。
息は乱れない。
心拍も上がらない。
最高だ。
「俺、バグってね?」
笑いが出る。
世界はつまらなかった。
でも今は違う。
だって――
俺、無敵じゃん。




