それぞれの主張
第十六話
雑居ビルの階段は、雨の影響で湿っている。
木下は呼び出されていた。
返済期日はとうに過ぎている。
ドアの向こうで、笑い声。
「逃げねぇで来たのは偉いじゃん」
「返済日無視して、ナメてんのか」
「利息、理解してるよな?」
男が肩を掴む。
強く。
以前なら、震えていた。
今は違う。
胸の奥が、静かに鳴る。
ドクン。
(やってやる)
木下は男の腕を掴み返した。
視線を合わせる。
嫉妬でも劣等感でもない。
ただの優越感。
ドクン。
男の顔色が変わる。
「おい……?」
力が抜ける。
膝が折れる。
どさり。
「な、なんだ……身体が……」
奥にいた二人が立ち上がる。
「何してんだコラ!」
一人が殴りかかる。
木下は、軽く手首を払った。
その瞬間。
壁に叩きつけられる。
鈍い音。
自分でも驚くほど軽い動きだった。
(……強い)
笑いがこみ上げる。
「なあ」
木下は言う。
「俺、今までが間違ってたみたいだ」
三人目が後ずさる。
恐怖の目。
その目が、たまらなく甘い。
ドクン。
心臓が歓喜する。
(これだ)
雑居ビルの外では、誰も気づいていない。
ただ一室で、
空気の流れが、歪んでいた。
———————————-
目が覚めたら、大体トイレから始まるもんだ。
四十過ぎの頃は、少なくともそうだった。
だが――
この身体は、違う。
まず確認すべき優先順位が、別にある。
(……すごいなこの主張の強さは)
布団の中で、しばし静止。
いや、落ち着け。
これは生理現象だ。
健康の証だ。
誇ることではないが、否定するものでもない。
(ふっ、若いって素晴らしいゼ)
静かに天井を仰ぐ。
誰も見ていないのに、なぜか気まずい。
布団を整え、何事もなかったように立ち上がる。
トイレは、その後だ。
順番というものがある。今行けば大惨事だ。
洗面所の鏡に映る高校生の顔。
爽やか。
無駄に爽やか。
「……充実してるな」
何がとは言わない。
そこへトラが足元に来る。
じっと見上げる。
「見るな」
トラ、興味なさそうに去る。
冷静すぎる。
若さは、時に無駄にエネルギッシュだ。
*
リビングに入った瞬間、湯気が立ちのぼる。
炊きたての白米。
味噌汁。
だし巻き玉子。
焼き鮭。
テーブルの上は、まるで一泊二食付き。
(相変わらず、旅館みたいだ)
思わず姿勢が正しくなる。
箸を持つ手まで自然と丁寧になるのは何故だ。
「いただきます」
口に運ぶ。
うまい。
静かに、うまい。
味噌汁が沁みる。
(前世の俺からしたらな……)
独身アラフォー。
コンビニ飯。
深夜のスーパー半額弁当。
シンクに放置された皿。
それに比べたら――
「……ありがたい」
思わず本音が漏れる。
静香が首を傾げる。
「何か言った?」
「いえ。鮭が、ちょうどいい塩加減で」
本当は、鮭の話じゃない。
若さもいい。
でも、こういう朝の方が、
ずっと贅沢だ。
———————
昼休み。またメシの時間だ。
学食前が、いつもより少しだけざわついている。
騒ぎというほどではない。
だが、明らかに人が多い。
霧島が入口を見て言う。
「出てるな」
小春が目を輝かせる。
「うん、今日だった」
澪が小さく頷く。
「今月分ですね」
大河だけが首を傾げる。
「……何が?」
三人が同時にこちらを見る。
霧島「わが校の学食スペシャルメニューその2」
小春「月一で出るやつ!」
澪「黒カレーとは別枠です」
「枠って何だ」
そのとき。
香辛料の匂いが校舎まで流れてくる。
窓から入る風が、明らかに異国。
視線の先――
学食の奥で、縦に回る巨大な肉塊。
「……立ってるな」
霧島「ドネルケバブ。毎月一回、本気出すらしい」
小春「おばちゃん、本場で修行してたって噂!」
澪「三年、イスタンブールだとか」
大河、遠い目。
(何故学食で……?)
ぽつり。
「飛んでイスタンブールか」
霧島「何だソレ」
小春「昭和歌謡だよ。庄野真代」
澪「1978年発表ですね」
大河、わずかに眉を上げる。
(何でそんなに詳しいんだ女子高生)
厨房から声が飛ぶ。
「肉は縦! 本場は縦よ!」
シャッ、シャッ、と削られる音。
自然と拍手。
誰も驚かない。
大河だけが、まだこの学校の“常識”を知らない
(若さで立つ、肉も立つ…….ふっ)
(それにしても学食、クセと主張が強くない?)
———————-
薄暗い部屋。
壁に凭れたまま、木下は自分の手を見つめていた。
指先に、黒い靄のようなものが絡む。
「……なるほどな」
小さく笑う。
試した。
昨日、何度も。
通行人と肩がぶつかる。
舌打ち。
その瞬間、奪える。
ほんの少し。
奪われた相手は――
数歩先で躓いた。
自販機の釣り銭を取り損ねた。
信号に引っかかった。
「軽いな」
通常は、これくらいだ。
運気を削る。
削られた側が、ほんの一瞬だけ“ツキを失う”。
だが。
木下はゆっくり目を閉じる。
思い出す。
怒り。
苛立ち。
あの見下す視線。
自分の“負”を、込める。
すると――
奪える量が増える。
転倒。
財布を落とす。
車に水を跳ねられる。
「……面白い」
さらに。
悪意。
敵意。
自分に向けられたそれ。
それは、格別だ。
怒鳴ってきた男の腕を掴んだ。
その瞬間。
吸い上げる感覚。
温度が抜ける。
目の焦点が揺らぐ。
生気まで、奪える。
男はその場に崩れた。
あのヤミ金業者も同じ。
「そういう仕組みか」
木下の胸に、黒い核が生まれる。
どろりと脈打つ、呪いの塊。
奪った運。
奪った生気。
それらは蓄積され、固まる。
そして――
体内に取り込む。
骨が軋む。
皮膚の下で何かが蠢く。
視界がわずかに赤く滲む。
「……悪くない」
力が増している。
確実に。
自分の中で、何かが“別のもの”へ近づいている。
笑う。
乾いた笑い。
「俺がこの世界の主役だ」
誰もいない部屋で、呟いた。
—————————-
黄色いテープが、視界の端でひらひらと揺れている。
立入禁止の文字が、やけにくっきりしていた。
ノアは、その奥に踏み込んでいる。
昨夜の雨のせいか、空気が少し湿っている。
事件は昨晩。
被害者三名。
全員、意識不明。
外傷は軽い。
金品は消えている。
「物取りかね」
「いや、怨恨だろう」
刑事たちの声が、どこか現実味を欠いて響く。
ノアは、床を見る。
血は少ない。
争った跡も薄い。
なのに――
妙だ。
重いはずの現場が、妙に軽い。
何かが、ごっそり抜け落ちたような。
「……呪い、か」
確信ではない。
ただの感覚だ。
種類も、形も、分からない。
ただ、
嫌な“手触り”だけが残っている。
ノアは目を細める。
犯人の姿は見えない。
痕跡も、ほとんどない。
けれど。
これは終わっていない。
そんな気がした。
——————
夜七時。
住宅街の灯りが、ぽつぽつ点き始める。
「よしトラ、行くぞ」
日課のジョギング兼筋トレ。
トラはやる気がない。
大河はやたら元気だ。
「若い身体、最高だな」
角を曲がると、街灯の下に人影。
「……だから急に出るなって」
ノアが立っている。
「普通に歩いてきただけ」
「嘘つけ」
トラがノアに甘える。
ノアはトラを撫でながら。
「最近、小さい事故報告が増えてる」
「事故?」
「転ぶ。ぶつかる。財布落とす。怪我は軽い。でも妙に多い」
「偶然じゃないのか」
「昨日、ヤミ金事務所で三人倒れた。金は消えてる。起きない」
夜風が吹く。
「空気が変だった」
「空気?」
「なんか、足りない感じ」
大河は少しだけ黙る。
住宅街は静かだ。
どこかの家からテレビの笑い声。
平和そのもの。
でも。
「呪いが絡んでる気がする」
ノアが言う。
断言じゃない。
ただの直感。
大河はトラの頭を撫でた。
少し考えて、口角を上げる。
「――正義の味方、出動要請だろ」
ノアがわずかに視線を上げる。
「察しがいいじゃない」
「まぁな」
大河は肩を回す。
「小さいうちに芽は摘む」
トラが一度だけ吠えた。
夜が、少しだけ引き締まる。




