おばあちゃんと魔女 第3話
回転しながら現れた「鍵」はしばらくためらうように紙の上でゆらりゆらり、と指すべき方向を探して揺れた。やがて窓の外、アルテミスシティへ先端を向け動きを止める。
「おや、羅針盤が転写されておるのですね」
見えるということはつまり、お隣の紳士も魔法使いということのよう。落ち着き払った見るからに聡明そうな紳士へ、あたしは姿勢を正す。
「はい。マギ校を卒業したところで。これは記念にと祖母からもらったプレゼントなんです」
「ほう、なるほど。ボルシェブニキー校ですか。それはおめでたい。鍵はさぞかし、ふさわしいプレゼントをかくまっておるのでしょう」
胸元のピンバッジをちらり、見やった紳士はしみじみうなずいてみせた。
「どうぞ良い旅を、お嬢さん」
眼下にあった町はもう、あたしたちの周りに広がっている。
「ありがとうございます。技師様も良い旅を」
爆ぜたブースターの振動がどん、と足元から伝わっていた。安全ベルトの解除が許可され、慣れた手つきではずした紳士は先にシャトルを降りてゆく。おっつけあたしも人ごみに混じるとシャトルから抜け出した。ブリッジを渡って発着ロビーへ向かい、ロビーの端で下層のステーションとをつないで循環するリフトのつり革を握る。ひとおもいに床を蹴り出せばあとは引っ張られるまま。空中散歩を楽しんだ。一分足らずでホップステップ。つり革を放して放り出されるようにステーションへと降り立つ。
勢いのままアルテミスシティへ繰り出してゆく誰もは、軽い足取りがウキウキしているよう。あたしも「ブリャーチエ」の呪文を唱えて、別ルートでシャトルから運び出された荷物を引き寄せ外へと向かった。そのさい目に留まった地図は無料で、一部いただき自動ドアをくぐり抜ける。
「うわ、はぁっ」
表が明るい。というより船やステーションの中がずっと薄暗かっただけなのかも。アルテミスシティはバスタブに浮かんだ泡みたく、月面に巨大な透明のドームを並べてあたしの前に広がっている。その天井に吊るされた無数の照明から光を受けると輝いていた。けれど決して気取って見えない理由は、簡単に建て替えなんてできない場所にあるせい。デザインはどれもこれもが造られた当初のまま、全てはどこか懐かしい匂いをまとっていた。
その中をバスやタクシーが走ってゆく。どれも限られた空気を汚すことのない魔法を動力に使ったものに違いなくて、乗り込む順番を待つと持たない人たちがロータリーで列を作っていた。必要ない魔法使いたちはといえば軽く呪文を唱えるとその傍らから次々、空へ舞い上がっている。
やっぱり学校と実際じゃ全然違う。戸惑うことなく飛び行く魔法さばきは華麗の極みで、あたしはしばし光景に釘付けとなっていた。ずいぶん間抜けた自分に気づいて、ワンピースの裾を払うと急ぎ誤魔化す。
「さあ、あたしも仕事、仕事っ」
開くのは頂戴してきたばかりの地図。東西南北を合わせて上へおばあちゃんの手紙を置いた。すかさず「鍵」を呼び出したなら指し示す方向を確かめる。
「あら、ちょっと遠回りなルートになりそうね」
残念ながら「鍵」はどの荷物の届け先とも違う方向を指していた。配達を終えた後、アルテミスシティを半周戻ってから向かうしかない。
「今日中に辿り着けるかしら」
今さらなんだか心配だわ。
「っていってもホテルで一泊なんてお金もないし」
アルテミスシティにだって夜はやって来る。ぐずぐずしていられないとあたしは空を見上げた。
「モージナ・レ、チーテ」
機械との共同作業じゃないならそのぶん血も沸く。荷物にまたがり唱えた呪文で、泡の空へ舞い上がった。
まもなく辿り着いた最初のお届け先は町の監視員さんの事務所。なんでも近々アルテミスシティに雪を降らせる予定があるとかで、その準備に急遽、ダウンコートが必要になったってことだった。残念ながら空調が行き届いた年中、快適な場所がここなのだから、お店にはセーターだって売っていない。おかげであたしみたいな小回りの利く個人の運送屋に白羽の矢が当たったようだった。大手だと間に合わないところだったよ、なんてお褒めの言葉をいただいて、あたしは段ボール箱をお渡しする。
っていうか、嘘でしょ。いつか月でホワイトクリスマス、なんて言う日が来るのかしら。次のお届け先へ飛びながらあたしの頭の中は、もうその事でいっぱい。
抱えて到着したのは同じ魔法使いのお宅だった。あたしが迷わないよう空に看板を浮かべていてくれるなんて、本当に魔法使いって良い人ばかりだと思うしかない。そんなお宅はといえば町の真ん中にあるはずなのに、本物かと目を疑う波が打ち寄せ、ヤシの木が揺れる南国のビーチだった。
「裏口からでごめんなさいね」
茂みの奥から現れた魔法使いは申し訳なさそうに言うと、あたしから海苔の佃煮を受け取ってる。
「いえ、お気にならさらず。こちらへ受け取りのサインをお願いいたします」
この人がこのビーチを作ったんだわ。あたしは頭の中で独り言を繰り出しながら伝票のひとところを指してペンを渡した。
「あら、ボルシェブニキーの卒業生さんなの?」
手にして胸元のバッジに気づいた彼女は、サインを走らせながら尋ねる。
「はい」
「懐かしいわ。私もなのよ。もう十年は前になるけれど。校長ってまだふぉ、ふぉ、って笑ってる?」
ボルシェブニキーの卒業生なんてさほど多くもないのに、まさか月であたしのお客様として出会うなんて。
「先っ、輩なのですかっ?」
だからこんな素敵なビーチが作れるんだ。思わず声も裏返る。
「おっ、お目にかかれて光栄ですっ」
そのうえこんな偶然、まるで初めての仕事を応援されてるみたい。
「まあ、大げさだこと」
舞い上がるあたしを前にしたところで先輩は、変わらず穏やかなまま。サインし終えた伝票をあたしへ差し出す。受け取ったならあたしはもう、舞い上がりついでに言わずにおれなくなっていた。
「いえっ。その、わたし、このあいだ卒業したばかりの新米で。ビーチ、とっても素敵です。隅々までが行き届いていて。ひずみのない奥ゆきも打ち寄せる波の間合いも、もう芸術的っていうかっ」
感動を伝えたいのに、わざとらしくなるこの罰ゲームはいったい何。でも事実、呪文まかせな燃料の供給とは違い、転写の魔法を応用した空間づくりはとにかく繊細さが求められる熟練者のみなし得るワザ。なのに遠く空から眺めたところで捻じれの欠片も見当たらないビーチの完成度はとんでもないとしか言いようがなかった。十年後、あたしにこんなことができるかしら。思うと同時に、帰ったら過去の卒業生名簿を繰ってみようと思いつく。きっと先輩なら最優等生として記録されているに違いない。
「ありがとう。療養中の祖母の希望なの。ここは重力も穏やかだから過ごしやすくて」
だのにおごることなく手元の荷物へ目を落とした先輩は、魔法使いの鑑そのもの。
「海苔の佃煮なのね、これ。大好物だからきっと食べてくれるわ」
読んで声を弾ませる。てっきり先輩が過ごすためのビーチだと思っていたあたしはそこで息を詰めていた。
残りで吐き出せたのは「どうぞお大事に」だけ。一礼して残る真鍮の荷物と共に空へ舞い上がる。
見送って振られる手が小さくなってた。やがて先輩はヤシの木の間をビーチへ向かって歩いてゆく。よく見れば砂浜にはポツン、とベッドが置かれていた。口にはしなかったけれどおばあ様はもう、それほど長くないのだろう。お年寄りが月で療養するとはそういうことだったし、だから今、精一杯、良い環境を整えてあげているのだと思う。
おばあちゃんのことが蘇ってくる。
血のせいか、荼毘に付されると灰ひとつ残さず燃え尽きてしまうのが魔女だから、本当に何もしてあげられなかったあたしは魔法で看病している先輩が少し羨ましく思えていた。
「ドルジン・リェチーテっ」
湿っぽくなったせいで落ちてきた推力へ喝を入れる。強めの呪文を追加して沸く血にぞわぞわする体を風に晒した。
気付けば夜が近づいている。色を変えた照明に泡のドームはほんのり色づいて、その光で町もまた赤く染め上げていた。
おばあ様を見送った先輩は、終えたその後どうするのだろう。つまりおばあちゃんのプレゼントを受け取ったあたしはその後、どうするつもりでいるのだろう。
どうしてもうまく想像できなくて、想像するため早く「鍵」の示す場所へ行こうと固く口を結びなおす。そうすれば次が想像できそうで、何か見つかる気がしてた。そのためにも最後のお届け先へとあたしは飛んだ。