お世話になる事になりました。
前公爵夫妻の話し合いが終わるころには、屋敷の中はすっかり夜の静けさに包まれていた。
山口愛菜は客室で少し休んだあと、侍女に案内されて食堂へ向かった。
長い廊下にはやわらかな灯りが落ち、窓の外には深い夜の色が広がっている。屋敷は広いのに不思議と冷たさはなく、どこか落ち着いた空気があった。
案内された食堂には、大きな卓ではなく、三人で囲める丸いテーブルが用意されていた。
白いクロスの中央には小さな花が飾られ、食器も華美すぎず上品に整えられている。
広すぎる場所でひとり浮かされるのではない。
その気遣いに、愛菜は少しだけ肩の力を抜いた。
「愛菜さん、こちらへ」
先に席についていたリベットが、やさしく声をかける。
エドワードも穏やかに頷いた。
「少しは休めたかい」 「はい。だいぶ楽になりました」 「それはよかった」
椅子を引いてもらい、愛菜は礼を言って腰を下ろした。
ほどなくして、最初の料理が運ばれてくる。
透き通った色のスープは香りもやさしく、ひとくち飲むと塩気は控えめで、野菜の味が静かに広がった。
次に出された白身魚も、香草の香りはあるものの味つけは淡い。柔らかく煮た根菜も薄味で、全体に身体へ負担をかけない料理ばかりだった。
「……やさしい味ですね」
思わずそうこぼすと、リベットが微笑んだ。
「夜はあまり重くしないようにしているの」 「とても食べやすいです」 「旅のあとなら、そのほうがよいだろうと思ってな」
エドワードの言葉に、愛菜はほっとした。
気を遣ってもらっているのが、押しつけがましくなく伝わってくる。
しばらくは、静かに食事が進んだ。
無理に話しかけられることもなく、愛菜が落ち着いて口に運べるよう、二人とも自然に間を保ってくれている。
空腹だったのだろう。
愛菜は思っていたよりもしっかり食べていた。
料理がひと通り下げられ、食後の温かなお茶が用意されたころ。
エドワードが、静かに口を開いた。
「愛菜」 「はい」
名を呼ばれ、愛菜は自然と姿勢を正した。
「これからどうするつもりだい」
穏やかな声だった。
問い詰める響きはなく、本当にこの先のことを気にかけてくれているのがわかった。
それでも愛菜は、すぐには答えられなかった。
「正直に言うと……まだ、よくわかりません」 「うん」 「街まで来ることばかり考えていて、その先をちゃんと決める余裕がありませんでした」
リベットがそっと頷く。
「無理もないわ。急に知らない場所へ来て、落ち着く間もなかったのでしょう」 「はい」
愛菜は指先で茶器の縁に触れながら、少しためらってから続けた。
「ただ、このままずっと何もしないでお世話になるのは、やっぱり落ち着かなくて」 「そうだろうね」 「何かできることがあるなら、きちんと働きたいです。役に立てることがあるなら、そのぶんお返ししたいと思っています」
その言葉に、エドワードはふっと口元をゆるめた。
「やっぱりそう言うか」 「え」 「馬車を直してくれたときから、そういう人だろうとは思っていたよ」 「……そんなにわかりやすいでしょうか」 「かなりね」
愛菜が少し恥ずかしくなって視線を落とすと、エドワードは楽しそうに笑った。
「なら、ひとつ提案がある」 「提案ですか」 「ああ」
そこでエドワードは、あらためて愛菜を見た。
「もしよければ、この屋敷にしばらく滞在しないか」
愛菜は目を瞬かせた。
「私が、ですか」 「もちろん、無理にとは言わない。けれど行き先がまだ定まらないなら、落ち着くまでここにいて、それから先のことを考えてもいいだろう」
あまりに自然に言われて、愛菜は返事を失った。
「でも、そこまでしていただく理由が……」 「馬車を直してもらった礼もある」 「それだけではありませんわね」
リベットがやわらかく口をはさむ。
エドワードは少しだけ苦笑した。
「まあ、それだけでもない」 「ええ」
リベットは愛菜へ穏やかな目を向けた。
「あなた、ずいぶん疲れているもの。今すぐ次の居場所を探すより、まずは安心して休めるところで落ち着いたほうがいいわ」 「……ありがとうございます」 「それに、この家には空いている部屋もあるし、古い工房もありますのよ」 「工房」
その言葉に、愛菜の胸が小さく動いた。
「ものづくりが好きなのでしょう」 「はい。好きです」 「でしたら、ここで過ごしながら、何ができるか考えてみるのも悪くないと思うの」
工房。
そのひと言だけで、心の中に少し明るいものが差した。
けれど同時に、遠慮もあった。
「本当に、私がいてもいいんでしょうか」 「もちろんだよ」
エドワードはあっさり言った。
「この屋敷にも、困りごとはいろいろある。愛菜が何か作るのが好きなら、むしろ楽しく過ごせるかもしれない」 「役に立つから置く、という話ではないのよ」
リベットがやわらかく言葉を添える。
「まずは、安心できる場所が必要だと思っているの」 「……はい」
愛菜は小さく息を飲んだ。
転移してからずっと、どこか気を張っていたんだと思う。
けれど今、この二人は、すぐに何かを求めるのではなく、まず休んでいいと言ってくれる。
そのことが、思っていた以上に胸にしみた。
「ただ」
エドワードが少しだけいたずらっぽく笑う。
「滞在するなら、たまには工房で何か見せてもらえると嬉しい」 「あなた」 「冗談だよ。少しは」 「少しは本音でしょう」 「そうかもしれない」
そのやり取りに、愛菜は思わず笑ってしまった。
リベットも目を細める。
「返事は急がなくてもいいわ。でも、行くあてがまだないのなら、この家をしばらく居場所にしてちょうだい」 「……行くあては、ありません」 「なら、なおさらね」
愛菜は膝の上で手をそっと握り、ゆっくり息を吸った。
ここで甘えてしまっていいのだろうか。
迷惑ではないだろうか。
そう思う気持ちはまだある。
それでも、断ってまたひとりで先を探すより、この申し出に救われている自分がいた。
「その……ご迷惑でなければ」 「うん」 「しばらく、お世話になってもいいでしょうか」
その言葉に、エドワードが満足そうに頷き、リベットもやわらかく微笑んだ。
「もちろんよ」 「歓迎するよ、愛菜」
その一言で、愛菜の胸の奥に張っていたものが、ようやくゆるんだ。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
声は少しだけ震えていた。
けれど、それを隠そうとは思わなかった。
薄味のやさしい夕食。
静かな灯り。
押しつけずに受け入れてくれる二人。
そのすべてが、愛菜にとっては久しぶりの安らぎだった。
この夜の食卓は、ただ食事をするだけの場ではなかった。
これから先、この屋敷で少しずつ居場所を作っていくための、最初の約束の席になったのだった。




