きっと訳あり
山口愛菜が侍女に案内され、客室へ下がったあと。
広い応接間には、ようやく静けさが戻っていた。
夕暮れはすっかり夜へ変わり、窓の外には濃い藍色の空が広がっている。壁際の燭台に明かりがともされ、室内には落ち着いた金色の光が揺れていた。
リベットは、テーブルの上に置かれた冷めかけの紅茶へ視線を落とし、それからゆっくりと夫を見た。
「さて、あなた」
静かな声だった。
けれど、その呼び方に、エドワードはぴんと背筋を伸ばした。
「はい」 「今度は最初から、きちんと順を追ってお聞かせくださいませ」 「……うむ」
先ほどまでの気楽な調子は、さすがに少し引っ込んだらしい。
エドワードは咳払いをひとつして、向かいのソファに座り直した。
「帰り道で馬車の車輪が壊れたのは、本当だ」 「それは先ほど聞きました」 「御者でも応急処置が難しい状態でな。軸にひびが入り、金具まで歪んでおった」 「ええ」 「そこへ、愛菜殿が現れた」
リベットは黙って続きを促す。
「最初は近くの町娘かと思った。荷物も少なく、ひとりで歩いておったからな」 「女性ひとりで?」 「そうだ。しかも、かなり気を張っておった」
その言葉に、リベットの表情がわずかに変わる。
「怯えていたのですか」 「怯えるというより、警戒していたな。周囲をよく見ておったし、こちらにもすぐ心を許したわけではない」 「それなのに、馬車を直したのですね」 「困っているように見えたから、と言っておった」
エドワードはそこで、少し感心したように目を細めた。
「だが、ただ親切なだけではない。あれは相当に頭が回る娘だ」 「そう思われた理由は?」
問われて、エドワードは腕を組んだ。
「壊れた箇所をちらりと見ただけで、おおよその問題を把握した。必要な部品の形もすぐ見当をつけていた。修理の手際もよかったし、何より、直したあとに町で必ず点検しろと言った」 「ふむ」 「腕に覚えがある者ほど、応急処置と本修理の違いを知っておる」 「確かに」
リベットは静かに頷いた。
それだけなら、腕のいい職人肌の女性という話で済む。
だが、夫がわざわざ屋敷へ連れて帰ったのは、それだけではないはずだ。
「ほかにも、何か気になったのですね」 「うむ」
エドワードは、少しだけ声を落とした。
「あの娘、出自を隠しておる」 「でしょうね」 「だが、悪意のある隠し方ではない」 「どう違うのですか」
その問いに、エドワードは少し考えてから答えた。
「追われる者の隠し方だ」 「……」
リベットの指先が、膝の上でわずかに止まった。
「それは穏やかではありませんわね」 「うむ。だが、少なくとも盗人や詐欺師の類ではないように思えた」 「あなたの勘ですか」 「半分はな。もう半分は、態度だ」
エドワードは続ける。
「腹を空かせておる様子はあったが、卑しさがなかった。こちらの身なりを見て、金になる相手だと色めき立つ感じもない。むしろ、必要以上に踏み込むまいとしておった」 「礼儀はありましたわね」 「そう。礼儀を知っておる。だが、貴族社会の者とも少し違う」 「不思議な方ですこと」
リベットはそう言いながら、愛菜の顔を思い返していた。
疲れているのに、ただ弱っているだけには見えない目をしていた。何かを諦めるまいとしている人の目だった。
「それで、あなたは気の毒になって連れ帰ったのですか」 「いや」
エドワードはきっぱりと言った。
「それだけではない。面白いと思った」 「やはり」 「リベット、今その顔は失礼だぞ」 「いつものことですもの」
ぴしゃりと返され、エドワードは少しだけむっとした顔をした。
だがリベットは気にせず続ける。
「面白いから屋敷に連れて帰ったのなら、困りますわ」 「違う。面白いだけなら町に宿を取らせて終わりだ」 「では?」
エドワードはそこで、小さく息をついた。
「久しぶりに見たのだ。自分の手で生き延びようとする者を」 「……」
「助けを待つのではなく、与えられたものの中で工夫して、考えて、判断して、それでも人に手を差し伸べる。ああいう者は、放っておくと運が悪ければ潰れるし、運が良ければ誰かに利用される」
リベットは夫の顔をじっと見た。
そこにあるのは単なる物好きではなかった。
昔からこの人は、才能ある者や、踏ん張っている者を見つけると、妙に放っておけなくなる。領主だった頃もそうだった。まだ未熟な職人や、行き場のない若者を何人も拾い上げてきた。
「なるほど」 「だから、ひとまず屋敷へ連れてきた」 「保護したのですね」 「そうとも言う」
少し得意そうに言う夫に、リベットは呆れ半分で目を細める。
「最初からそう言えばよろしいのに」 「最初から言っておるつもりだったのだが」 「あなたの説明は、たいてい肝心なところが抜けております」
それには反論できないらしく、エドワードは黙った。
しばらく、暖炉の薪がぱちりとはぜる音だけが響く。
やがてリベットは静かに口を開いた。
「危険は」 「今のところ感じぬ」 「何かを企んでいるようには?」 「見えぬな。むしろ、こちらに迷惑をかけまいと身構えておる」 「そう」
リベットは小さく頷いた。
「では、しばらく滞在してもらいましょう」 「よいか」 「ここまで連れて帰っておいて、今さら追い返すつもりはありません」
その答えに、エドワードの表情が明るくなる。
「やはりお前は話がわかる」 「ただし」
リベットの一言で、また姿勢が正された。
「本人が望まぬうちに、あれこれ詮索しないこと」 「うむ」 「屋敷の者にも余計な憶測を広めさせないこと」 「心得た」 「それから、あなたが勝手に工房へ案内して、興奮したまま泊まり込みの作業などさせないこと」 「そこまでわかるのか」 「長年の付き合いですもの」
エドワードはとうとう苦笑した。
リベットは立ち上がり、窓辺へ歩く。
夜の庭は静かで、遠くの回廊の灯りがぽつぽつと見えていた。
「愛菜さん、よほど疲れていたのでしょうね」 「そうだな」 「それでも、目が死んでいなかった」 「うむ」
夫婦の意見がそこで重なる。
「何か事情を抱えているのでしょう。でも、自分で立つ気力はまだある」 「だからこそ、休ませる価値がある」 「ええ」
リベットは振り返り、やわらかく微笑んだ。
「しばらくこの家で、安心して過ごせるようにしましょう」 「任せておけ」 「あなたはまず、これから先、何か拾ってくる前に一言相談することを覚えてください」 「……善処しよう」 「覚える気がない返事ですわね」 「いや、ある。たぶん」 「たぶんでは困ります」
ぴしゃり。
けれどその声には、もう厳しさよりも親しみがにじんでいた。
エドワードは肩をすくめ、それからふっと笑う。
「まあ何にせよ、あの娘が来て、少し風向きが変わる気がする」 「あなたもそう思うのですね」 「ああ」
リベットもまた、静かに頷いた。
街道で偶然出会った、訳ありの若い女性。
その縁が、この屋敷に何を運んでくるのかは、まだわからない。
けれど少なくとも今夜は、あの疲れた娘がゆっくり眠れる場所を用意できた。
それで十分だと、リベットは思った。
暖炉の火がやさしく揺れる部屋で、前公爵夫妻はしばし無言のまま、同じ思いを胸に夜の静けさを見つめていた。
ただし、壮大に勘違いしている事に誰も気づいていない。
私、なんか勘違いされてるかも?!




