私の城
この世界に来てから二日目の朝。
山口愛菜が目を覚ますと、窓の外にはやわらかな朝の光が広がっていた。
まだ二日しか経っていない。
それなのに、ずいぶん長い時間を過ごしたような気がする。
昨日は気を張っていたせいで平気なつもりだったが、静かな客室で眠ったおかげで、自分が思っていた以上に疲れていたことがわかった。
知らない土地で、知らない人たちの中にいて、しかも自分にはまだ話していないことがいくつもある。だからこそ、安心して過ごせる場所のありがたさが身にしみた。
身支度を整えて部屋を出ると、侍女に案内されて朝食の席へ向かう。
食卓に並んでいたのは、やわらかく炊いた粥に、軽く焼いた白身魚、薄味で煮た野菜だった。
ひとくち食べて、愛菜は心の中でほんの少しだけ肩を落とす。
やさしい味だ。
身体にはよさそうだし、丁寧に作られているのもわかる。
けれど、昨夜と同じでやっぱりかなり淡白だった。塩気も控えめで、正直なところ、少しがっかりする。
「どうかしたかい」
エドワードに声をかけられ、愛菜ははっとして顔を上げた。
「いえ。おいしいです」 「そうかい」 「はい。とても食べやすいです」
嘘ではない。
ただ、もう少し味がしっかりしていたら嬉しい、というだけだ。
向かいでリベットが小さく微笑んだ。
何か察したようにも見えたが、何も言わない。その気遣いがありがたかった。
朝食を終え、食後のお茶が運ばれてきたころ。
エドワードが立ち上がる。
「それじゃあ、約束どおり案内しようか」 「工房ですか」 「そうだよ」
そのひと言で、愛菜の表情がぱっと明るくなった。
リベットがくすりと笑う。
「本当に好きなのね」 「はい。すごく気になります」
エドワードに連れられて、本館の裏手へ向かう。
朝の庭は澄んだ空気に包まれ、草木にはまだ露が残っていた。
少し歩いた先、木立の向こうに見えてきた建物に、愛菜は思わず目を瞬かせる。
「……家ですね」 「そう。工房兼住居だよ」
白っぽい壁に木の扉。小さな煙突。
大きくはないが、こぢんまりとしていて、どこかあたたかみのある家だった。窓枠には少し古さが見えるものの、造りそのものはしっかりしている。庭先には小さな花壇も残っていた。
「昔、屋敷に出入りしていた職人が滞在するときに使っていてね」 「へえ……」
エドワードが扉を開ける。
「入ってごらん」
中へ足を踏み入れた愛菜は、思わず息をのんだ。
正面には作業台。
壁際には棚。古い工具箱。窓からは朝の光がたっぷり差し込み、作業をするにはちょうどよさそうな明るさだ。
奥には小さな流し台と炉。
さらにその先には寝起きができる部屋と、小さな居間まである。
「すごい……」
豪華ではない。
けれど、作って暮らすには十分すぎるほど整っていた。
「気に入ったかい」 「はい。すごく」
愛菜は、もう頭の中で使い方を考え始めていた。
「ここ、好きにしていいよ」
エドワードのその言葉に、愛菜ははっと振り返る。
「好きに、ですか」 「ああ。必要なら手を入れてもいい。使いやすいように整えて構わない」
その瞬間、胸がどきんと鳴った。
好きにしていい。
そのひと言だけで、頭の中に次々と構想が浮かぶ。
棚の位置を変えたい。
作業台の上ももっと使いやすくしたい。
住む場所としても落ち着けるようにしたい。
けれど同時に、愛菜は胸の内でそっと自分に言い聞かせる。
うっかりしないこと。
自分の事情も、手持ちの物も、まだ何もかも話していいわけではない。
この世界に来た経緯も。
たくさんの荷物をしまっていることも。
便利な力を持っていることも。
今はまだ、内緒だ。
「住める場所まであるなんて、思っていませんでした」 「工房だけより便利だろう」 「はい。すごく」
愛菜は、奥の住居スペースへ目を向けた。
寝台を置けそうな部屋。小さな居間。少し手を入れれば、かなり居心地がよくなりそうだ。
「何か足りないものがあれば、屋敷の倉庫も見ていいよ」 「え」 「古い家具や道具なら、まだいくらか残っているはずだから」
その申し出に、愛菜の胸がさらに高鳴る。
「そんなことまでしていただいていいんですか」 「空いたままにしておくより、使ってもらうほうがいいからね」
その言葉に、愛菜はもう一度部屋の中を見回した。
古くても、まだしっかりしている家。
自分の手で整えれば、もっとずっと使いやすくなる場所。
工房としても、住まいとしても、良くしていける余地がたくさんある。
愛菜は作業台にそっと触れ、窓の位置を確かめ、奥の部屋をのぞきこんだ。
ここには棚を置きたい。
あちらには布をかけたら落ち着きそうだ。
窓辺には机があってもいいかもしれない。
作業場と住む場所をうまく分ければ、もっと気持ちよく過ごせそうだ。
考えているうちに、胸がどんどんわくわくしてくる。
「楽しそうです」 「そう思うならよかった」 「すごく楽しそうです。何から始めるか迷うくらい」
思わず声が弾む。
エドワードはそんな愛菜を見て、満足そうに目を細めた。
「そんなに気に入ったなら、案内した甲斐がある」 「ありがとうございます」 「礼を言うのは、ちゃんと使い始めてからでいいよ」
愛菜は笑って頷く。
朝食は、やっぱり少し味が薄かった。
少しだけがっかりもした。
けれど今は、それを忘れるくらい気持ちが浮き立っている。
まだこの世界に来て二日目。
不安がなくなったわけではない。
話せないこともたくさんある。
それでも、自分の手で整えていける場所があるだけで、こんなにも心が軽くなるのだと思った。
泊まるだけの部屋ではない。
ただ置かれるだけの場所でもない。
ここは、自分で工夫して、自分の居場所にしていける場所だ。
「まずは掃除ですね」 「うん」 「棚も見たいし、使える道具も確認したいです」 「もう始める気だね」 「はい」
即答すると、エドワードが楽しそうに笑った。
山口愛菜は、朝の光に満ちた小さな工房兼住居の真ん中で、これから始まる新しい暮らしに胸を弾ませていた。
古くても、あたたかみのあるこの家を、自分の手でもっと心地よい場所にしていける。
そう思うだけで、未来が少し明るく見えた。




