何もない日常
工房兼住居での暮らしが落ち着きはじめると、愛菜の朝は自然と穏やかなものになった。
まだ少しひんやりした空気の中で目を覚まし、寝台の上で小さく伸びをする。
本邸の客室とは違う、自分で整えた部屋の空気に包まれるだけで、なんとなく気持ちがゆるんだ。
「よく寝た……」
起き上がって窓を開けると、朝の風がふわりと入り込む。
部屋の中にやわらかな光が落ちて、見慣れてきた家具や棚をやさしく照らした。
小さな台所では、改造した電気ケトルですぐにお湯を沸かせる。
その間に顔を洗い、簡単に身支度を整える。
お湯が湧いたら、お茶をいれてひと息。
朝いちばんに湯気の立つカップを手にする時間が、愛菜はすっかり好きになっていた。
朝食は、その日の気分で簡単に用意する。
前の日の残りを少し温めたり、軽く何かを焼いたり。
野菜を切って添えるだけの日もある。
電子レンジや炊飯器、電気ケトルが使えるだけで、朝の支度はずいぶん楽だった。
「これ、ほんと便利だなあ」
誰に言うでもなくつぶやいて、小さな机でひとり朝ごはんを食べる。
本邸のきちんとした食事もありがたい。
けれど、自分の好きな味で、自分の好きな量を、気楽に食べられるこの時間はまた別の心地よさがあった。
朝ごはんを終えたあとは、工房側へ移る。
机の上を軽く整えて、その日に作りたいものや直したいものを考える。
棚の位置を少し変えてみる日もあれば、細かな収納を作る日もある。
何か大きなことをするわけではなくても、手を動かしているだけで落ち着いた。
「今日は何しようかな」
そう言いながら、使いやすいように布を畳み直したり、小物の置き場を変えたり、簡単な道具を作り足したりする。
急がなくていい。
誰かに追われることもない。
自分のやりたい順番で、少しずつ整えていける。
その自由さが、愛菜には何より嬉しかった。
昼や夜が近づけば、今度は台所に立つ。
街で買ってきた食材と、自分で用意した調味料を使って、その日の食べたいものを考える。
難しい料理ではなくてもいい。
ちゃんと自分が食べたい味であることが大事だった。
鍋から立つ湯気。
香る調味料。
火加減を見ながら混ぜる時間。
その全部が、愛菜には楽しい。
「やっぱり味があるって大事……」
思わずそんなことをつぶやいてしまうくらいには、食事の満足感は大きかった。
ひとり分の食事でも、手をかけるとちゃんと気分が変わる。
おいしく食べられるだけで、その日は少し良い日になる気がした。
日が落ちたあとの時間も、以前よりずっと快適だった。
魔石で動くように改造したランプ型のLEDライトのおかげで、部屋の中は明るい。
手元もよく見えるから、夜に片づけをしたり、少しだけ作業したりするのも苦にならない。
全部終わったあとは、椅子に座ってお茶を飲む。
静かな夜。
明るい部屋。
自分で整えた家具と、自分の手で暮らしやすくした空間。
その中にいると、ようやく本当に落ち着ける気がした。
「いいなあ、この暮らし」
ぽつりとこぼした声は、静かな部屋にすぐ溶けていく。
誰かに急かされることもなく、好きなものを作って、好きなように整えて、ちゃんと休む。
派手ではない。
けれど愛菜にとっては、それだけで十分に満たされる毎日だった。
工房兼住居で過ごす日々は、特別な出来事がなくても楽しかった。
朝に窓を開けること。
使いやすくなった台所に立つこと。
作業台に向かって、今日は何をしようか考えること。
夜に明るい部屋でゆっくりすること。
そんな小さなことのひとつひとつが、愛菜の心をやわらかく満たしていく。
気づけばこの場所は、ただ暮らすための家ではなくなっていた。
手をかけたぶんだけ馴染んでいく、愛菜の大事な居場所だ。
山口愛菜は、その日も湯気の立つカップを片手に、静かな部屋を見回してそっと笑う。
「うん。やっぱり、ここ好きだな」
そのつぶやきは、とても自然で、あたたかなものだった。




