シーン1:三ヶ国同盟の慢心と、深夜の陣幕に舞う不倫の証拠
ギシッ、ギシッ、という小気味良い摩擦音が、深夜の私室に静かに響いている。
俺は部屋の太い梁から吊るした、強靭な魔獣の腱から作られた特製のトレーニング用ゴムバンド(チューブ)を両手でしっかりと握り込み、ゆっくりとしたペースで斜め下へと引き下ろしている。
広背筋の収縮を意識しながら、肩甲骨を背中の中心へとグッと寄せる。
筋肉が限界まで収縮したポイントで二秒間静止し、その後、重力とゴムの反発力に抗うように、三秒かけてゆっくりと腕を元の位置に戻していく。
『ネガティブ動作』を重視した、広背筋と僧帽筋下部を苛め抜くラットプルダウンだ。
「きゅうっ、もぐもぐもぐ……」
俺の足元では、特製の『低反発スライムクッション』の上に陣取った魔法ハリネズミのハリーが、就寝前の栄養補給として『カゼインプロテイン入り特製チーズ』を両手で抱えて齧っている。
就寝中の長時間の絶食状態において、ゆっくりと吸収されるカゼインタンパク質は筋肉の分解を防ぐ最適の食事だ。ハリーもそれを本能で理解しているのか、目を細めて至福の表情を浮かべている。
俺はゴムバンドを引き切りながら、視線を部屋の空中に固定する。
そこには、青白い光を放つ直径一メートルほどの『水鏡の術式』が展開されている。
シオンの視覚と聴覚を魔法的にリンクさせ、遠く離れた敵陣の様子をリアルタイムで映し出す、ルミナス王国が誇る超広域諜報魔法だ。
水鏡の向こう側に広がっているのは、耳をつんざくような喧騒と、下品な笑い声、そして油の焦げる不快な匂いだ。
視覚と聴覚だけでなく、微かな嗅覚情報まで伝達されるこの魔法は、前世の『高画質ライブ配信』以上の臨場感を持っている。
映し出されているのは、ルミナス国境へと向かうアズライト渓谷の手前に設営された、ガルド帝国軍『第三軍団』の巨大な野営地だ。
無数に焚かれた篝火が、夜の闇を赤黒く染め上げている。
五十万という途方もない数の軍勢の先陣を切る彼らは、これから侵略戦争を始めるとは思えないほど弛緩しきっていた。
「ガハハハハッ! 飲め飲めェ! 明日の夜には、ルミナスの軟弱な学者どもを土下座させて、王城の宝物庫の金品でさらに極上の酒が飲めるんだからなァ!」
水鏡の中央で、第三軍団長のボルドスが、樽のような巨大な腹を揺らしながら度数の強い蒸留酒をラッパ飲みしている。
ボルドスの周囲の兵士たちも、顔を真っ赤にして安い酒を煽り、下品な冗談を言い合って笑い転げている。
「……ひどい有様だな」
俺はゴムバンドのテンションを保ったまま、冷ややかな視線で彼らの肉体を観察する。
ボルドスのあのせり出した腹は、明らかに内臓脂肪の塊だ。皮膚はアルコールによる重度の脱水症状でカサカサにひび割れ、眼球の白目は毛細血管が破裂して赤黒く濁っている。
兵士たちも同様だ。長距離の強行軍による関節の炎症、ビタミン不足による歯茎からの出血、そして何より、睡眠時間を削って酒宴を開いていることによる極度の脳疲労。
彼らの肉体は、すでに内側からボロボロに崩壊し始めている。
『――殿下、こちらシオンです。映像の感度は良好ですか?』
ふいに、水鏡越しにシオンの念話が直接俺の脳内に響く。
彼の声は、あの狂騒の野営地のど真ん中にいるとは思えないほど、静かで落ち着いている。
「ああ、完璧だ。敵の不健康な肝臓の数値まで透けて見えそうだよ。……お前、今はどんな体勢だ? 映像の視点がやけに地面に近いし、上下が逆さまに揺れているんだが」
『ふふっ、よくお気づきで。巡回する歩哨の足音に紛れるため、現在は両手を使った「逆立ち歩き(ハンドスタンドウォーク)」で第五軍団の陣幕に潜入中です。静音性を高めるには、足よりも手を使う方が体重移動のコントロールが利くんですよ。何より、体幹と三角筋の良いトレーニングになります』
俺の脳内で、シオンが暗闇の中で逆立ちしながら高速で移動している光景が浮かび、思わず口角が上がる。
敵兵のすぐ背後を、ルミナスの文官が逆立ちしながら通り過ぎているのだ。喜劇以外の何物でもない。
「さすがだな。で、『プレゼント』の配布準備は?」
『すでに完了しています。第五軍団の将校テントの枕元、兵士たちの配給箱の中、さらには第三軍団の食糧庫にまで、たっぷりとお届けしました』
シオンの視界が、スッと上を向く。
暗闇の中、風魔法によって音もなく舞い散る無数の羊皮紙の束が映し出される。
それらは、第五軍団長がバルザック商業連合の商人から受け取った『三千万ゴールドの裏金リスト』の完璧な写しと、彼が副官の妻に宛てた『極めて生々しく情熱的な不倫の手紙』の複製だ。
それが今、無防備に眠る兵士たちの顔の上に、まるで雪のように降り注いでいる。
「ご苦労。明日の朝、彼らが起きるのが楽しみだな。……よし、俺もそろそろ筋肉の超回復の時間だ。シオン、お前も無理はするなよ。プロテインを飲んでしっかり寝ろ」
『御意。それでは、また明朝の「開演時間」にお会いしましょう』
プツン、と水鏡の術式が解除され、私室に元の静寂が戻ってくる。
俺はゴムバンドをフックから外し、タオルの端で軽く汗を拭き取る。
壁掛け時計の針は、ちょうど夜の十時を指している。成長ホルモンの分泌が最も活性化されるゴールデンタイムの始まりだ。
「さあハリー、寝るぞ。明日は忙しくなる」
ハリーが「きゅっ」と短く鳴き、俺の後をついてベッドルームへと向かう。
俺は特注の魔力保温シーツに包まれた、人間工学に基づいた最高級のマットレスに身体を沈める。
適度な疲労感と、満たされたアミノ酸が、俺の意識を深い深い眠りの底へと心地よく引きずり込んでいった。
* * *
ピピピッ、ピピピッ。
正確に八時間後、魔力駆動の目覚まし時計が涼やかな音を立てる。
俺は朝日が差し込む部屋の中で、パッチリと目を開ける。
完璧な睡眠だ。脳の疲労は完全にリセットされ、思考は澄み渡る冬の夜空のようにクリアになっている。
ゆっくりとベッドから起き上がり、両手を天井に向かって大きく伸ばす。背骨の関節が一つ一つ開いていく感覚を味わいながら、深く長い深呼吸を行う。
「おはよう、ハリー。朝食にしよう」
俺は茹でた鶏胸肉とブロッコリー、そしてハリー用の特製パンを胃袋に流し込み、完璧なコンディションを作り上げる。
そして再び私室の中央に立ち、魔力を練り上げる。
『水鏡、展開』
青白い光の円環が空中に浮かび上がり、再びシオンの視界が映し出される。
そこに広がっていたのは、昨晩の狂騒とは全く質の異なる、地獄のような大混乱だった。
「ふざけるなァァァッ! この手紙はなんだ! 隊長、俺の妻と裏でこんな真似をッ!」
「待て、誤解だ! それは敵の罠――」
「誤解でこんな生々しいホクロの位置まで書けるわけねぇだろうがァァッ!!」
怒号と悲鳴。
第五軍団の陣幕群の中心で、副官らしき男が血走った目で剣を振り回し、第五軍団長に斬りかかっている。
将校たちは慌てて彼を取り押さえようとするが、その周囲の兵士たちも暴動を起こしている。
「俺たちの給金が半年間も据え置きだったのは、あんたが三千万ゴールドも懐に入れてたからかよ!」
「死んでいった仲間の慰労金まで横取りしやがって……! 許さねェ、ぶっ殺してやるッ!」
兵士たちの目は、極度の睡眠不足と昨晩の深酒による二日酔いで、理性を完全に失っている。
脳の前頭葉――感情をコントロールし、論理的な判断を下す部位が、疲労とアルコールの残骸によって完全に機能停止しているのだ。
一度火がついた怒りは、誰にも止められない。
「や、やめろ貴様ら! 上官への反逆は死刑だぞッ!」
「うるせェ! 泥棒野郎が上官面すんなァ!」
ガキンッ! ズバァッ!
ついに、兵士同士で刃が交わされ、鮮血が朝の空気を切り裂いて飛沫を上げる。
誰かが投げた松明がテントに燃え移り、瞬く間に炎が野営地全体へと燃え広がっていく。
第五軍団は今、敵軍と一度も剣を交えることなく、完全に同士討ちの修羅場と化している。指揮系統は崩壊し、兵士たちは互いを疑い、殺し合っている。
『殿下、おはようございます。朝の有酸素運動の代わりとしては、少々血生臭い光景ですが』
水鏡の奥から、高台の木の上に潜伏しているシオンの、楽しげな念話が響く。
「おはよう、シオン。素晴らしい目覚めのショーだ」
俺は水鏡越しに、崩壊していく敵軍の陣地を冷徹に見下ろす。
「ほらな。睡眠不足と二日酔いの脳は、感情のブレーキが全く効かないんだよ。ちょっとした不信感の種を蒔くだけで、あとは彼らの不健康な脳が勝手に暴走して自滅してくれる」
一切の兵力を割かず、一滴の味方の血も流さずに、敵の主戦力の一つを完全に無力化した。
これが、知識と情報、そして相手の『不健康』を徹底的に突く、ルミナス王国の新しい戦争の形だ。
「だが、これはまだ序の口だ。シオン、バルザック商業連合での『買い占め作戦』の進捗はどうなっている?」
『ええ、そちらも完璧に仕上がっておりますよ。彼らが次に直面するのは、さらなる「物理的」な絶望です』
俺は深く息を吐き、獰猛な笑みを浮かべる。
不健康な侵略者たちに、俺たちの土地を一歩たりとも踏ませるつもりはない。
さあ、息の根を止める兵站破壊の第二幕の始まりだ。




