シーン4:開戦の足音と、プロテイン片手の戦争準備
ぷる、ぷる、ぷる。
俺の足元で、特殊な加工を施した飛竜の革袋が、微かな軋み音を立てている。
王城の私室。その中央に鎮座する直径七十センチほどの巨大な革袋――内部に『圧縮空気の魔法』を限界まで詰め込んだ特製の『バランスボール』の上に、俺は両膝立ちの姿勢で乗っている。
全身の筋肉が、極めて精緻なバランス調整のために総動員されている。
大腿四頭筋、ハムストリングス、そして腹直筋と脊柱起立筋。体の中心軸(体幹)を僅かでもブレさせれば、反発力の強い革袋から無様に転げ落ちてしまう。
そのギリギリの均衡状態を保ちながら、俺は両手に持った『広域地勢学と軍事兵站・第八版』の分厚いページをめくる。
「きゅぅ……」
頭のてっぺんから、息を殺したような小さな鳴き声が降ってくる。
俺の頭髪に短い四本足を絡ませ、器用にバランスを取っている魔法ハリネズミのハリーだ。俺が体幹トレーニングを始める際、彼は自ら進んで頭上に登り、自重を『不安定な追加ウェイト』として提供してくれている。
その小さな両手には、砕いた乾燥プロテインバーが握られており、俺の集中を削がないように、音を立てずにモグモグと口を動かしている。
「いいぞハリー。お前のその数ミリの重心移動が、俺の小脳を猛烈に刺激する。バランスを保つための神経伝達速度が、そのまま読書の演算速度に直結しているのがわかる」
俺は本から視線を外さず、口の端だけで微かに微笑む。
全身の筋肉が産生する熱で、額にはじっとりと汗が滲んでいる。だが、心拍数は完全にコントロール下にあり、呼吸は深く、静かだ。
まさに完璧な『ながらトレーニング』の境地。
「――アルス殿下ッ! た、大変ですッ!」
バンッ! と私室の扉が乱暴に開け放たれる。
飛び込んできたのは、主席魔導士のリーシャだ。彼女は普段の冷静沈着な振る舞いを完全に忘れ、藍色のローブの裾を乱しながら、血相を変えて俺の元へと駆け寄ってくる。
「リーシャ。深呼吸だ。顔面が蒼白で、心拍数が百三十を超えている。その状態での報告は脳の言語野にエラーを引き起こすぞ」
俺はバランスボールの上で完璧な姿勢を保ったまま、視線だけを彼女へ向ける。
「そ、そんな悠長なことを言っている場合ではありません! 先ほど、帝国に潜入しているシオンから、最重要指定の極秘暗号通信が届きました!」
リーシャは震える手で、風の魔法で封をされた小さな金属製の通信筒を差し出す。
俺は小さく息を吐き、膝のクッションを使って音もなく床へと着地する。頭上のハリーが「きゅっ」と鳴いて、器用に俺の肩へと滑り降りる。
「ご苦労。……シオンからの暗号通信か。あいつのことだ、どうせ敵の懐で筋トレでもしながら書いたんだろうな」
俺は首に巻いていたタオルで顔の汗を拭い、傍らに置いてあった『特製魔力回復スポーツドリンク』を一口呷る。
そして、リーシャから通信筒を受け取り、指先に魔力を込めて封印を解除する。
中から出てきたのは、極小の文字がびっしりと書き込まれた薄い羊皮紙の巻物だ。文字の乱れは一切なく、シオンが極めてリラックスした状態でこの情報を書き上げたことが見て取れる。
俺は羊皮紙を広げ、視線を走らせる。
『ご機嫌麗しゅう、殿下。ガルド帝国の大作戦会議室より愛を込めて。
ガルド帝国、セルディア魔導連邦、バルザック商業連合の三ヶ国が、我がルミナス王国に対する侵略同盟を正式に締結しました。
総兵力、推定五十万。
決行は十日後の新月の夜。
第一目標は西の穀倉地帯の制圧と、王都への電撃戦。
追伸、帝国の第五軍団長はバルザックの商人から三千万ゴールドの賄賂を受け取り、副官の妻と絶賛不倫中です。証拠の裏帳簿の隠し場所も特定済みです』
「…………」
俺は最後まで読み終え、小さく鼻で笑う。
「で、殿下……笑い事ではありません! 五十万ですよ!? 我が国の常備軍は、第一騎士団を含めても三万に満たないのです! 圧倒的な兵力差……しかも、魔法と経済の大国まで敵に回して、この国は……ッ!」
リーシャが両手で頭を抱え、絶望的な声を上げる。
「落ち着け、リーシャ。五十万という数字の暴力に脳を支配されるな。軍隊というものは、数が多ければ多いほど『不健康』になる生き物なんだよ」
俺は私室の壁に掛けられた巨大な大陸地図の前に歩み寄り、シオンの報告書を片手に、赤と青のピンを次々と突き立てていく。
「見てみろ。ガルド帝国の主力が西の『アズライト渓谷』を抜けるルートだ。五十万の軍勢を動かすには、とてつもない量の食糧と水が必要になる。だが、彼らの補給線は驚くほど細く、しかもバルザック商業連合の金に依存している」
「そ、それは……」
「それに、だ。この将軍たちの健康状態を見てみろ。アルコール依存症、重度の睡眠不足、そして過度なストレスによる内臓疾患。五十万の兵士も同じだ。彼らは徹夜での行軍を強要され、粗悪な干し肉と濁った水しか口にできない」
俺は地図上の『アズライト渓谷』のポイントを指の関節でコンコンと叩く。
「睡眠不足の国ほど、こうやって無謀な戦争をしたがる。脳の疲労が正常なリスク評価を妨げ、『勝てる』という根拠のない精神論に逃げ込むからだ。……全く、不健康極まりない奴らだ」
「で、ですが殿下! 不健康であろうと、五十万の剣と魔法が国境を越えれば、我が国は火の海です!」
リーシャの言うことは、一般的な軍事常識からすれば完全に正しい。
だが、我がルミナス王国は、すでにその『一般的な常識』から完全に逸脱した国家に仕上がっている。
そして俺は、自国の民の健康を害するような『真っ当な戦争』を正面から受けて立つつもりなど、毛頭ない。
「リーシャ。戦争というのは、戦場で剣を交えることだけを指すんじゃない。始まる前に終わらせるのが、最も健康的な防衛戦だ」
「始まる前に……終わらせる?」
「ああ。敵は我が国を『武力を持たないひ弱な知識の宝庫』だと勘違いしている。だから、こんな杜撰な補給計画で同盟を組んだんだ。ならば、その知識を最大限に活用してやるまでだ」
俺は机の引き出しから白紙の羊皮紙を取り出し、万年筆を握る。
「シオンに暗号通信を返せ。指示は三つだ。
第一。第五軍団長の汚職と不倫の証拠を、開戦前夜に帝国軍の全陣幕にばら撒け。これで第五軍団の指揮系統は崩壊し、同士討ちが始まる。
第二。バルザック商業連合の流通市場で、我が国の隠し資金を使って『軍馬用の飼葉』と『荷馬車用の車輪』を市場価格の三倍で全て買い占めろ。物理的に補給の足を止めろ。
第三。セルディア魔導連邦の新聞社に、彼らの高官が帝国のスパイに情報を売っているという『事実』をリークしろ。議会を大混乱に陥れろ」
スラスラと書き殴った指示書を、俺は呆然とするリーシャに手渡す。
「いいか、リーシャ。軍隊の筋肉は、兵站と指揮系統で動いている。そこを潰せば、五十万の軍勢なんてただの鉄屑を持った案山子の集まりだ」
俺は冷たい笑みを浮かべる。
「彼らが国境を越える前に、補給を絶ち、内ゲバを起こさせ、疑心暗鬼に陥らせる。戦場に辿り着く頃には、満足な睡眠も取れず、脱水症状と栄養失調で立っていることすらできなくなるようにな」
「……殿下は、悪魔ですか」
リーシャが、震える声で呟く。
だが、その目からは先ほどの絶望の色が消え去り、代わりに俺のえげつない盤外戦術に対する底知れぬ畏怖と、微かな興奮の色が浮かんでいる。
「俺はただの健康オタクだ。自国民に徹夜の防衛戦なんていう、不健康なマネをさせたくないだけさ」
俺は軽く肩をすくめ、再び私室の中央に転がるバランスボールへと向き直る。
「よし、報告は終わりだな。ガイアスにも『準備』を始めるよう伝えておいてくれ。俺は読書の続きがある」
俺は再びバランスボールの上に飛び乗り、完璧な体幹でピタリと静止する。
ハリーが「きゅいっ!」と元気よく鳴いて、再び俺の頭の上へとよじ登ってくる。
「さあ、一方的な蹂躙の時間だ。脂肪と一緒に、敵の慢心を綺麗に燃やし尽くしてやろうぜ」
五十万の軍勢。三ヶ国の同盟。
彼らはまだ知らない。
自分たちが手を出そうとしている相手が、知識と筋肉を極限まで最適化し、もはや国家そのものが『一つの巨大な戦略兵器』と化した狂気の国であることを。
そして、その全てを操る男が、今もバランスボールの上で体幹を鍛えながら、彼らを内部から腐らせる毒をばら撒いていることを。




