シーン3:敵国会議室の書記官と、笑顔の片手腕立て伏せ
むせ返るような強い葉巻の煙と、焼けた獣の肉の脂臭さ、そして強い度数の蒸留酒の匂いが、窓一つない重厚な石造りの広間にねっとりと立ち込めている。
壁には無数の武器や魔獣の頭骨が飾られ、部屋の中央には巨大な一枚岩から切り出された円卓が鎮座している。
ここは、武力至上主義を掲げる軍事大国・ガルド帝国の中枢を担う大作戦会議室。
円卓を囲むのは、鋼鉄の鎧を着込んだまま酒杯を煽る、熊のように屈強な十数名の将軍たちだ。彼らの顔はアルコールと極度の興奮で赤黒く充血し、目にはギラギラとした好戦的な光が宿っている。
「――よって、我がガルド帝国、およびセルディア魔導連邦、バルザック商業連合の三ヶ国は、これより同盟軍を組織。目標はルミナス王国。あの小賢しい知識の宝庫を完全に解体し、有能な学者どもを我らが『奴隷』として各国の管理下に置く!」
円卓の上座から、地鳴りのような低い声が響き渡る。
声の主は、ガルド帝国大将軍、レオンハルト・ガルディア。
四十代前半、鋭い鷹のような眼光と、歴戦の傷跡が刻まれた精悍な顔つき。他の将軍たちのように酒に溺れたり腹をたるませたりはしていない、純粋な武と暴力の結晶のような男だ。彼が発する圧倒的な覇気だけで、室内の空気がビリビリと震えている。
「ハッハッハ! レオンハルト閣下の仰る通りだ! ルミナスなど、青白い顔をして机にへばりついているだけのヒョロガリの集まり! 我らが重装騎兵が国境を越えれば、鎧袖一触よ!」
「恐怖のあまり、魔導書を抱えて泣き叫ぶ姿が目に浮かぶわ!」
将軍たちが下品な笑い声を上げながら、ドンッと乱暴に酒杯を打ち鳴らす。
彼らの頭の中には、すでに『一方的な蹂躙』の青写真しか描かれていない。武力を持たないルミナス王国など、赤子の手をひねるよりも容易いと本気で信じ込んでいるのだ。
「……ふふっ」
その狂騒の中心で、俺――ルミナス王国からガルド帝国へ『外交文官』として派遣されているシオン・レイヴェルトは、顔に完璧な愛想笑いを貼り付けたまま、手元の羊皮紙に猛スピードで羽ペンを走らせている。
表向きの役職は、両国の友好的な関係を記録するための『書記官』。
だが、その実態はルミナス最強の諜報網の要だ。
「おい、そこのルミナスの小僧! お前もそう思うだろう! 貴様らの弱小国家が、我が帝国の軍靴に踏み躙られる素晴らしい未来がなァ!」
酒で顔を真っ赤にした太った将軍――第三軍団長のボルドスが、俺を指差してゲラゲラと笑う。
俺は羽ペンを止めることなく、にっこりと人の良い笑顔を向ける。
「ええ、ええ、全くその通りでございます、ボルドス将軍。我々のようなひ弱な文官は、皆様の強靭な肉体と武力の前には、ただひれ伏すしかありませんから」
俺のへりくだった態度に、将軍たちはさらに気分を良くして高笑いを上げる。
……滑稽だ。
俺の目から見れば、彼らの肉体は決して『強靭』などではない。
視線や癖、微細な筋肉の動きからあらゆる情報を読み取る俺の固有能力《記憶解析》を通せば、彼らの不健康な実態は丸裸だ。
ボルドス将軍は重度のアルコール依存で肝臓が悲鳴を上げており、少し動くだけで息切れを起こす。隣に座る第五軍団長は、極度の睡眠不足からくる偏頭痛を誤魔化すために、致死量スレスレの鎮痛薬を常用している。
唯一まともなのは大将軍レオンハルトだけだが、彼とて『根性論』で己の肉体を限界まで酷使し続けているだけで、疲労の蓄積はピークに達している。
『アルス殿下が見たら、激怒して全員にプロテインを無理やり飲ませるレベルの不健康さですね』
俺は内心でクスクスと笑いながら、机の下――誰の視界にも入らない円卓の足元へと意識を集中させる。
実は今、俺が椅子に座っているように見えるのは、上半身の姿勢を完全に固定しているだけのフェイクだ。
机の下では、腰を完全に浮かせ、右手の『指三本』だけで全身の体重を支え、床スレスレまで体を沈め、そして引き上げるという超高負荷の『片手腕立て伏せ』を絶賛実行中である。
しかも、《隠密身体強化》の魔法を筋肉と衣服の摩擦音にまで適用し、呼吸音すら完全に遮断している。
「スッ……ハッ……」
横隔膜を静かに、だが力強く上下させながら、俺は指先の筋肉繊維がプツプツと切れては再結合していく快感を味わう。
三百回、三百一回、三百二回。
心拍数は跳ね上がり、血液が猛烈な勢いで脳内へと酸素を送り込んでくる。
ルミナス王国の文官にとって、「会議中に体を鍛えない」などという非効率な選択肢はもはや存在しないのだ。
「では、具体的な侵攻ルートの確認に入る」
レオンハルトが卓上に巨大な地図を広げ、短剣の切っ先を突き立てる。
「第一陣はボルドス、貴様の第三軍団だ。西の国境『アズライト渓谷』を抜け、ルミナスの穀倉地帯を制圧しろ。補給は現地調達、逆らう農民は全て斬り捨てて構わん」
「はっ! お任せを! 先陣の誉れ、必ずや血祭りで応えてみせましょう!」
ボルドスが立ち上がり、大仰に胸を叩く。
俺は指三本での腕立て伏せのペースをさらに上げながら、その情報を脳内の『処理済みフォルダ』へと放り込む。
(なるほど。西の穀倉地帯……ミレイナ局長が『マッスル・マンドレイク』を栽培している、あの筋肉農民の巣窟に向かうわけですか。農民たちだけで第三軍団は壊滅ですね)
「第二陣は第五軍団。補給部隊の護衛と、後方支援を任せる。バルザック商業連合からの物資輸送ルートを確実に確保しろ」
「承知いたしました。我が軍団の鉄壁の守り、ご安心ください」
第五軍団長が恭しく頭を下げる。
俺は腕立て伏せの手を左手に切り替えながら、さらなる情報を引き出す。
(第五軍団長……先日、バルザック商業連合の商人から裏金を三千万ゴールド受け取り、軍の物資を横流ししている証拠は既に押さえています。しかも副官の妻と不倫中。開戦前にこの情報を陣中にばら撒けば、軍は内部から自滅しますね)
将軍たちが意気揚々と軍略を語り、ルミナス王国の地図に次々と駒を置いていく。
彼らは自分たちが完全な主導権を握っていると信じ疑わない。
だが、その軍略の全て――行軍ルート、部隊の編成、将軍の性格、補給線の弱点、さらには軍内部の汚職やスキャンダルに至るまで、俺の手元の羊皮紙と、極限まで活性化された脳細胞の中に、一文字の漏れもなく記録されている。
「……よし。決行は十日後の新月の夜。ルミナス王国に、我らガルド帝国の真の力を見せつけてやれ!」
レオンハルトの力強い宣言と共に、将軍たちから地鳴りのような歓声が上がる。
会議は終了だ。
俺は左手の腕立て伏せを五百回で切り上げ、一切の音を立てずに椅子へと腰を下ろし直す。
汗一滴かかず、呼吸一つ乱さず、完璧な笑顔のまま、羊皮紙をトントンと机で揃える。
「素晴らしい軍略でございました、レオンハルト閣下。この記録は、我がルミナス王国へしっかりと『報告』させていただきます」
「フン。せいぜい貴様らの無能な王族に震えて眠るよう伝えておけ」
レオンハルトは俺を冷たく一瞥し、マントを翻して会議室から出ていく。
他の将軍たちも、俺を嘲笑いながら次々と部屋を後にした。
誰もいなくなった静かな会議室で、俺は立ち上がり、軽く首と肩の関節を鳴らす。
ポキポキという音が、重厚な石の壁に吸い込まれていく。
「……震えて眠る、ですか」
俺は窓の外、遠くルミナスの空へと視線を向ける。
「うちの殿下は、『睡眠不足の軍隊は隙だらけだ』と笑って、八時間ぐっすり眠るでしょうね。あなた方のような、徹夜で作り上げた不健康な軍略など、戦う前にすでに終わっているということに、いつ気づくのでしょうか」
俺は集めた情報と、敵将の弱みを記した暗号文書を小さな通信筒に詰め込むと、それを風の魔法で王都へと撃ち出した。
さあ、一方的な情報戦と兵站破壊の時間の始まりだ。
俺は足取りも軽く、次なる『潜入先』であるバルザック商業連合の会議室へと向かうため、帝国城の影へと静かに溶け込んでいった。




