シーン2:『徹夜組』の反乱と、片手で荷車を浮かす農民
バンッッッ!!
分厚いオーク材の円卓が、怒りに震える両手で激しく叩きつけられる。
王城の東翼、一階に位置する内政管理棟の第一会議室。
高い天井と見事な装飾が施された部屋だが、室内には長年染み付いた古紙の匂いと、カフェインの強い濁ったお茶の匂いがねっとりと充満している。
「殿下ッ! これは一体どういうことですか! 本日から『夜間執務室の完全封鎖』および『全官僚の八時間睡眠義務化』などと……狂気の沙汰にも程がありますぞ!」
血走った両目を大きく見開き、口角から泡を飛ばしながら叫んでいるのは、内政の要である宰相補佐のバルド老人だ。
彼の顔色は、まるで数日間地中に埋められていたかのように土気色に濁り、目の下には黒々とした隈がくっきりと刻まれている。怒りで肩を上下させるたびに、彼が着ている豪奢なローブからツンとしたストレス性の汗の匂いが漂ってくる。
円卓を囲む他の古参官僚たちも、一様に青白い顔でバルド老人に同調し、俺に向かって敵意に満ちた視線を突き刺している。
「狂気とは心外だな、バルド宰相補佐」
俺はシャワーを浴びて完全にリセットされた清々しい気分のまま、ゆったりとした動作で円卓の上座に腰を下ろす。
朝食の『高タンパク特製オムレツ』の消化は順調に進み、胃腸から吸収された良質なアミノ酸が血流に乗って全身の筋肉を修復しているのがわかる。脳の回転は最高速に達しており、目の前の老人たちの怒声など、そよ風程度にしか感じない。
「きゅぅ?」
俺の肩に乗った魔法ハリネズミのハリーが、怒鳴り散らすバルド老人を不思議そうに見つめながら、小首を傾げる。その小さな両手には、食後のデザートである乾燥大豆がしっかりと握られている。カリッ、ポリッと、静かな会議室にハリーが大豆を齧る軽快な音が響く。
「……殿下、真面目に聞いてくだされ! 我々ルミナス王国の官僚は、他国の三倍働き、睡眠を削って知識を捻り出すことで、この弱小国家を支えてきたのです! その血と汗と涙の結晶である『徹夜の努力』を、たかだか十六歳の小僧が、健康などというふざけた理由で否定するおつもりか!」
バルド老人が再び机を叩く。だが、その手は疲労で小刻みに震えており、音には全く力がない。
「血と汗と涙の結晶、ね」
俺はローブの内ポケットから、ズシリと重い羊皮紙の束を取り出し、円卓の中央へと無造作に放り投げる。
ドサッ、と重い音を立てて落ちたその束は、俺がこの数ヶ月間、密かに集めさせていた各部署の業務データだ。
「それを開いてみろ、バルド。それは過去半年間の、夜間執務組と昼間執務組の『計算ミス発生率』と『書類差し戻し件数』の比較データだ」
「なっ……こんなデータ、何の意味が……ッ」
「いいから見ろ。見ればわかる」
バルド老人は震える手で羊皮紙の束をめくる。その目元が、ページを進めるごとにヒクヒクと痙攣し始める。
「深夜二時を過ぎたあたりから、お前たち『徹夜組』の計算ミス発生率は昼間の六倍に跳ね上がっている。そして、そのミスの修正のために、翌日の昼間組が通常の二倍の時間を浪費している。わかるか? お前たちの言う『血と汗と涙の徹夜』は、ただ翌日の業務を妨害し、国家の生産性を著しく下げているだけの『大迷惑な自己満足』なんだよ」
冷徹な事実を突きつけられ、古参官僚たちの間に動揺が走る。
だが、彼らの凝り固まった旧時代のプライドは、そう簡単には折れない。
「そ、それは……極限の疲労の中でも、国を想う気概の問題でして……ッ! 精神力でカバーすれば……!」
「人間の脳は魔法の箱じゃない。臓器だ」
俺は立ち上がり、バルド老人の目の前まで歩み寄る。
そして、彼の手首をガシッと掴む。
「ひぃッ!?」
「脈拍が異常に早い。指先が冷え切っている。それに、さっきから瞬きの回数が極端に多いな。これは脳が『マイクロスリープ(瞬間的睡眠)』に陥っている証拠だ。お前は今、起きているつもりでも、脳の半分は気絶しているんだよ」
「な、何を……」
「徹夜明けの脳の処理能力は、致死量一歩手前のアルコールを摂取した酩酊状態と完全に同じだ。そんな状態で国家の重要書類にサインをする気か? 壊れるまで自分を痛めつけることを『努力』と呼ぶな。それはただの『無能』だ」
俺の静かだが重い声が、会議室の淀んだ空気を切り裂く。
前世で、過労死の直前まで「気合だ」「根性だ」と叫びながら壊れていった同僚たちの顔が脳裏をよぎる。
間違った努力は、人を殺す。国を殺す。
それだけは、この国で絶対に繰り返させない。
「だ、だが殿下! 我々が休めば、その間に大国に差をつけられます! 彼らは強靭な肉体を持ち、昼夜を問わず訓練し……」
「なら、お前たちも強靭な肉体を作ればいいだけの話だろう」
「文官に体を鍛えろと!? そんな野蛮な真似、学者の誇りが許しません!」
バルド老人が真っ赤な顔で叫び返した、まさにその瞬間だった。
「――アルス殿下ぁぁぁぁぁっ! 納品です! 最高のタンパク質が仕上がりましたよぉぉぉっ!」
バンッ! という爆発音のような音と共に、会議室の隣にある中庭に通じる巨大なガラス窓が、外から力任せに開け放たれる。
心地よい朝の風が、室内の淀んだ空気を一気に吹き飛ばす。
窓の向こう、太陽の光が燦々と降り注ぐ中庭に立っていたのは、農業改革局局長のミレイナだ。彼女の背後には、山のように巨大な木箱を積んだ、二頭立ての大型荷車が停まっている。
「ミレイナか。ずいぶんと威勢がいいな。その荷車は?」
「ふっふっふ、見て驚かないでくださいよ! 私の農業局が総力を結挙して品種改良を行った、完全無農薬・魔力循環型の超回復野菜! その名も『マッスル・マンドレイク』と『大胸筋キャベツ』の初収穫分です!」
ミレイナがドヤ顔で荷車の幌をバサッとめくると、そこには赤々とした光沢を放つ巨大な根菜と、岩のように硬く引き締まった巨大なキャベツが山積みになっている。
野菜から溢れ出す微かな魔力の粒子が、朝日に反射してキラキラと輝いている。見ているだけで細胞が活性化しそうな、圧倒的な生命力の塊だ。
「……名前のセンスは最悪だが、魔力含有量とタンパク質の密度は完璧だな。よくやった、ミレイナ」
「えへへ! 農家の皆さんも、この野菜を食べて農作業をしながら鍛えまくったおかげで、すっかり見違えましたよ!」
ミレイナが後ろを振り返ると、荷車を牽いてきた農民の代表が前に出る。
「おはようございます、殿下! 王都近郊で農場を任されております、ゴンザレスです!」
太く、地響きのような野太い声。
古参官僚たちは、そのゴンザレスの姿を見て、揃って顎を外さんばかりに口を開けた。
かつて、ルミナス王国の農民といえば、痩せ細り、腰の曲がった力弱き民の象徴だった。
だが、目の前に立つ五十代の農民ゴンザレスは――違う。
麻布の粗末なチュニックの袖からは、丸太のように太く、血管がバキバキに浮き出た巨大な上腕二頭筋がはみ出している。胸板は鋼鉄の鎧のように分厚く、足は巨木のように大地を掴んでいる。
その顔には健康的すぎる赤みが差し、歯は太陽の光を反射してキラリと輝いている。
「ひぃっ!? な、なんだその化け物は……ッ! 農民がなぜ、第一騎士団の重装歩兵よりも分厚い筋肉を持っているのだ!」
バルド老人が腰を抜かしそうになりながら、窓枠にしがみつく。
「ハッハッハ! 殿下の教えに従い、毎日八時間寝て、このマッスル・マンドレイクを齧りながら畑を耕していたら、こうなりましてな! 鍬を振るう速度が以前の十倍になり、今年の収穫量は過去最高です!」
ゴンザレスは豪快に笑いながら、手に持っていた真っ赤なマンドレイクを頭からガリッと齧る。
その時だ。
バキィッ!! という嫌な音が中庭に響いた。
「あっ! ゴンザレスさん、荷車の右後輪の車軸が折れてます! 野菜の密度が高すぎて、重さに耐えきれなかったみたいです!」
ミレイナが慌てて声を上げる。
見れば、巨大な木箱を三つも積んだ大型荷車の車輪がひしゃげ、車体が大きく右に傾いている。総重量はおそらく二トンを超えているだろう。このままでは荷崩れを起こし、貴重な高タンパク野菜が地面に散乱してしまう。
「誰か騎士団を呼んでこい! 荷降ろしの応援を……!」
バルド老人が慌てて叫ぼうとした、次の瞬間。
「おおっと、いけねぇ。こりゃあ少し積みすぎましたな」
ゴンザレスは齧りかけのマンドレイクを口に咥えると、ひしゃげた車輪のある荷車の後方へと無造作に歩いていく。
そして、荷車の分厚い木の枠に、右手の太い指を引っ掛けた。
足を肩幅に開き、深く腰を沈める。大臀筋と大腿四頭筋が極限まで収縮し、ズボンの生地がはち切れそうに膨張する。
「まさか……一人で持ち上げる気か!? 狂っている、そんな重量、人間の力で……!」
官僚たちが息を呑む中、ゴンザレスは口にくわえたマンドレイクをモグモグと噛み砕きながら、フンッ! と短く息を吐き出した。
メキィィィッ!
太い腕の筋肉が凄まじい音を立てて隆起し、血管がはち切れんばかりに膨張する。
次の瞬間。
「よっこらせ、と」
ギシギシと悲鳴を上げる二トン超えの荷車が、ゴンザレスの『右手一本』によって、軽々と宙に浮き上がった。
「「「「…………は?」」」」
会議室にいた全ての古参官僚たちの思考が、完全に停止した。
目の前で起きている物理法則を無視した光景を、彼らの疲弊しきった脳は処理できないのだ。
「おお、局長! 今のうちに予備の車輪を突っ込んでくだせぇ! 片手なら、あと五分はこのまま浮かせとけますんで!」
「了解です! さすがゴンザレスさん、背中の広背筋の広がりが完全に鬼の顔になってますね! 素晴らしいパンプアップです!」
ミレイナが楽しそうに予備の車輪を転がしてきて、手際よく交換作業を始める。
ゴンザレスは右手一本で巨大な荷車を空中に固定したまま、空いた左手でポケットから新しいマンドレイクを取り出し、バリバリと食べ始めている。全く息が上がっていない。
俺はポカンと口を開けて硬直しているバルド老人の肩を、ポンと軽く叩く。
「……見たか、バルド。これが『健康』の力だ。よく食べ、よく眠り、よく動いた結果生み出される、純粋で圧倒的な身体能力。彼らは魔法すら使っていない。ただの農民だぞ」
「…………」
「徹夜で削り出したお前たちの貧弱な計算式と、健康に満ち溢れた彼らの暴力的なまでの生産力。どちらが国家を支えるのに相応しいか、まだ議論の余地があるか?」
バルド老人は、ガクガクと震える首をゆっくりと横に振る。
彼の手から、握りしめていた羽ペンがポロリと床に落ちた。
「よ、夜間執務室の鍵は……私が、責任を持って……全て閉めておきます……。そして、本日は……帰って、寝ます……」
「賢明な判断だ。明日の朝、スッキリと目覚めたら、一緒に三キロほどランニングをしよう。血圧も下がるぞ」
完全に戦意を喪失し、敗北を受け入れた古参官僚たちは、まるで憑き物が落ちたような顔でフラフラと会議室を後にしていく。
これで、国内における『健康改革』への最後の抵抗勢力は完全に排除された。
いよいよ、ルミナス王国は国を挙げての完全なる最適化(バグ強化)のフェーズへと移行する。
「お見事です、殿下! これで徹夜組もようやくプロテインの美味しさに目覚めますね!」
車輪の交換を終えたミレイナが、窓枠をヒラリと飛び越えて会議室へと入ってくる。
「ああ。これで国内の憂いはなくなった」
俺は窓の外で「次はスクワット百回だ!」と笑い合っているゴンザレスたち農民兵(?)を見つめながら、ハリーの背中を撫でる。
国内はこれでいい。完全に仕上がった。
問題は――外だ。
この異常に健康になりすぎた国家の姿を、周辺の『旧時代の常識』に囚われた国々がどう見るか。
答えは火を見るよりも明らかだ。
俺は、窓から吹き込む風に目を細めながら、遠く国境の向こう側へと意識を向ける。
さて、スパイとして他国に放っている『彼』からの定期報告は、そろそろ届く頃だろうか。




