シーン2:消えた馬の飼料と、逆さ吊り読書の王子
重力という見えない巨大な手が、全身の血液を脳天へと強制的に引きずり下ろしていく。
頭蓋骨の内側に強い圧力がかかり、ドクドクという自らの心音が耳の奥で直接鳴り響いている。
俺は今、自室の高く強固な天井の梁に設置された鉄製のバーに、両足首に装着した『魔力吸着ブーツ』を引っ掛け、コウモリのように完全に逆さ吊りの状態になっている。
「スッ……ハッ……。よし、関節の圧迫が綺麗に抜けていくな」
逆さ吊り(インバージョン)の姿勢は、二足歩行という重力との戦いを強いられる人間の身体にとって、究極の『リセット』だ。
自身の体重によって背骨と椎間板がギシギシと心地よく引き伸ばされ、日常の座学や立ち仕事で圧縮され凝り固まった関節の隙間が解放されていく。
そして何より、心臓よりも下に位置することになった脳へ、大量の血液がナイアガラの滝のように雪崩れ込んでくる。強制的な血流増加による、圧倒的な酸素の供給。
視界は極彩色を帯びたように鮮明になり、思考速度は通常の限界を軽々と突破する。
「きゅうぅ、ちゅぅぅぅ……」
俺の胸元――現在においては重力的に下方向だが――のシャツの生地に小さな爪を立ててしがみついているのは、相棒のハリーだ。
彼もまた逆さ吊りの世界を堪能しながら、小さな両手で特製のストロー付きボトルを抱え、中に入った『ベリー風味のプロテインドリンク』を懸命に吸い上げている。
逆さまの状態で液体を飲み込むのは、食道の蠕動運動を鍛える立派なトレーニングだ。ハリーの喉の筋肉が力強く波打っているのが、シャツ越しに伝わってくる。
「いい飲みっぷりだ、ハリー。重力に逆らって栄養を胃に送り込むその動きが、内臓を芯から強くするんだ」
俺はハリーの丸っこい背中を指先で撫でながら、床の石畳に広げた分厚い書物『広域地勢学と軍事兵站・第八版』へと視線を落とす。
逆さまの視界。上下反転した文字。
通常であれば脳が混乱して読むことすらままならない状態だが、極限まで血流が促進された現在の俺の脳にとって、文字の反転など些細なノイズに過ぎない。
むしろ、視覚情報を脳内でリアルタイムに反転処理するという負荷が、前頭葉を心地よく刺激してくれる。
『――殿下! 財務局長マクシミリアン、ただ今ランニングマシンによる心肺機能強化メニューを消化しつつ、ご報告に上がりました!』
不意に、床に置かれた通信用の魔力水晶が青白く明滅し、溌剌とした大声が部屋に響き渡る。
背景からは「ダッ、ダッ、ダッ」という一定のリズムで床を蹴る走行音が聞こえてくる。
「ご苦労、マクシミリアン。息が全く上がっていないな。心肺機能がさらに向上している証拠だ」
俺は腹直筋に強烈な力を込め、逆さ吊りの状態から上半身を床に向かってグッと引き上げる。
いわゆるインバーテッド・クランチ。強烈な負荷が腹筋を引き裂きそうになるが、その痛みがまたたまらない。
顔を水晶に近づけたまま、俺は尋ねる。
「で、バルザック商業連合での『買い占め作戦』の進捗はどうなっている」
『完璧であります! 殿下の指示通り、我が国が長年蓄積してきた隠し資金を市場へ一気に投入しました。バルザック商業連合が抱えていた軍馬用のオーツ麦、魔法干草、そして荷車用のオーク材の替え車輪。これらの市場に出回っている全在庫を、相場の三倍の価格で即座に買い叩きました!』
「三倍か。商人たちはさぞ喜んで売ってくれただろうな」
『はい! 彼らは目先の莫大な利益に目が眩み、自国の同盟軍へ納入するはずだった予約分すらも平然と横流ししてきました。現在、バルザックの市場から馬の飼料と替え車輪は完全に消失しております!』
俺は逆さ吊りのまま、口角を深く吊り上げる。
バルザック商業連合は、利益最優先の国だ。
彼らにとって、愛国心や同盟の義理など、積み上げられた黄金の前ではただの紙切れに過ぎない。
そこを突いた。
「よくやった。軍の血管を物理的に切断する、最高の一手だ。引き続き、走りながら市場の監視を続けろ」
『はっ! ペースを上げて監視業務に戻ります!』
水晶の光がフッと消える。
俺は腹筋の力を抜き、再びダラリとぶら下がった姿勢に戻る。
頭に血が上る感覚を味わいながら、俺は『水鏡』の術式を展開する。
空中に浮かび上がった映像に映し出されているのは、ガルド帝国軍の主力が進軍しようとしている、長大な『アズライト渓谷』の入り口だ。
だが、そこに広がっているのは、威風堂々たる進軍の光景ではない。
完全なる『停滞』と『混乱』だ。
「ヒヒィィィィンッ!」
「動けッ! この駄馬が! なぜ進まない!」
水鏡の中から、焦燥に駆られた騎兵たちの怒声と、馬の悲痛な嘶きが響いてくる。
無理もない。
五十万という途方もない数の軍勢の装備と食糧を運ぶには、数万頭の軍馬と、無数の荷馬車が不可欠だ。
しかし、彼らの馬はすでに限界を迎えていた。
極度の睡眠不足のまま強行軍を強いられ、さらには『飼料』が一切届かないのだ。
バルザック商業連合からの補給をアテにしていたガルド帝国軍は、突然の飼料の供給停止に直面した。
栄養価の高いオーツ麦や魔法干草を失い、その辺の痩せた野草しか口にできない軍馬たちは、疲労と空腹で次々と膝を折っている。
肋骨が浮き出るほどに痩せ細った馬たちは、鞭で打たれてもピクリとも動こうとしない。
「くそっ! また荷車の車輪が砕けたぞ!」
「替えの車輪はないのか! これでは食糧が運べないぞ!」
「後方の補給部隊に確認した! バルザックの市場から車輪が消え去ったそうだ! 納品は三ヶ月後になると!」
さらに致命的なのが、荷馬車の崩壊だ。
アズライト渓谷は、岩がゴツゴツと突き出た悪路が延々と続く難所である。
通常の行軍であっても、重い物資を積んだ荷車の木製車輪は頻繁にひび割れ、交換を余儀なくされる。替えの車輪がなければ、荷車はただの巨大な木の粗大ゴミと化す。
そして今、その替えの車輪は一つ残らず、ルミナス王国の倉庫にうず高く積み上げられている。
「……見ろ、ハリー。これが『不健康な軍隊』の末路だ。馬を休ませず、栄養を与えず、道具の予備すら確保せずに数だけで押し切ろうとする。そのツケが今、一気に爆発している」
俺は逆さ吊りのまま、水鏡に映る地獄絵図を冷ややかに見下ろす。
荷車が動かなくなった以上、選択肢は一つしかない。
「おい貴様ら! 荷車に乗っている小麦と武器を下ろせ! 兵士一人につき、追加で三十キロずつ背負って歩くんだ!」
「さ、三十キロ!? ふざけるな、俺たちはもう二日もまともに寝ていないんだぞ! その上、こんな重装備で渓谷を越えろと言うのか!」
「命令だ! 逆らう者は斬る!」
将校が剣を抜き放ち、無理やり兵士たちに物資を背負わせる。
すでに疲労困憊の兵士たちの顔から、完全に生気が抜け落ちていく。
重い鉄の鎧を着込み、背中には大量の食糧と替えの武器。その総重量は一人あたり五十キロを優に超えているだろう。
彼らの足取りはまるでゾンビのように重く、一歩進むごとに岩肌に足を取られ、次々と倒れ込んでいく。
「スッ……ハッ……。哀れだな。彼らはルミナス王国の国境を越える前に、自分たちの荷物の重さと、疲労という名の重力に押し潰されて死ぬ」
俺は大きく息を吐きながら、再度インバーテッド・クランチで上半身を引き上げる。
キュッと腹筋が収縮し、強烈な熱を生み出す。
軍隊という巨大な生き物は、『兵站』という血管を通じて栄養(物資)を全身に巡らせることで初めて機能する。
その血管を、俺は経済というメスを使って完璧に切断したのだ。
血が通わなくなった手足は壊死するしかない。今、アズライト渓谷の手前で起きているのは、軍隊という生命体の『局所的な壊死』だ。
「……そろそろ、彼らの大将軍様も、自分たちが何と戦っているのかに気づく頃だろうな」
俺は腹直筋の痛みを心地よく味わいながら、水鏡の映像を、混乱の極みにある最前線から、後方で本陣を構えるレオンハルトの陣幕へと切り替えるよう魔力を操作した。
「さあ、見せてみろ。武力至上主義の怪物よ。脳の疲労と物理的な絶望を前に、お前のその『根性』がどこまで通用するかを」
逆さ吊りの俺の視界の中で、赤黒く燃える敵の陣幕が、不気味に揺らめき始めていた。




