シーン4:タンパク質革命と、国王の問いかけ
カンッ、カンッ、ジュワァァァァッ!
王城の裏手に位置する大厨房に足を踏み入れた瞬間、鉄鍋がぶつかり合う甲高い音と、油が跳ねる猛烈な熱気が俺の全身を打ち据える。
むせ返るような甘い小麦の匂いと、根菜を煮込む単調な香りが鼻腔を支配する。ルミナス王国の食事は、どこまでいっても『頭脳労働のための糖分補給』に特化している。
「ちがーう! だから、お肉をもっと入れろって言ってるじゃないですか! このスープ、野菜と豆のカスしか浮いてないですよ!」
厨房の中心で、小柄な少女が料理長らしき大男に向かって激しい抗議の声を上げている。
農業改革局局長、ミレイナ・フォルティス。
十五歳という若さで国の食糧生産を担う天才だが、その手にはなぜか生の人参が握られており、彼女はそれをウサギのようにボリボリと齧りながら叫んでいる。
「ミ、ミレイナ局長……ですが、我が国の予算では大量の肉を仕入れることは……それに、学者様たちは胃が弱くていらっしゃるので、脂っこいものはちょっと……」
「胃が弱いのは筋肉がないからです! 筋肉がないのはタンパク質が足りないからです! タンパク質不足は国家の衰退を招くんですよ!」
料理長を正論で殴り飛ばすミレイナの姿に、俺は思わず口角を上げる。
この国にも、まだまともな栄養学の視点を持つ人間が残っていたらしい。
「その通りだ。糖質偏重の食事は、一時的な血糖値の上昇で脳を錯覚させるだけで、すぐに強烈な睡魔とパフォーマンスの低下を引き起こす」
俺が口を挟みながら近づいていくと、ミレイナはウサギのようにピクッと肩を跳ねさせ、こちらを振り返る。
大きな琥珀色の瞳が、俺の姿と、俺の肩で丸くなっているハリーの姿を捉える。
「あ、アルス殿下……? どうして厨房なんかに」
「俺の筋肉が、そして騎士団の筋肉が、本物の『栄養』を求めているからだ。ミレイナ、お前の言う通り、この国の食卓には決定的にタンパク質が欠けている」
俺はローブのポケットに手を入れると、先ほど自分で焼き上げた『高タンパクどうぶつパン』の余りを取り出し、ミレイナの目の前に突き出す。
ハリネズミの形を模した、こんがりと焼き色のついた手のひらサイズのパン。
「な、なんですか、この可愛らしい形のパンは……! 可愛いだけじゃなくて、ものすごい密度の匂いがします!」
「『どうぶつパン・特製ハリーモデル』だ。見た目は子供向けだが、生地には大豆粉と乾燥卵白を極限まで練り込んである。一つで鶏肉一枚分のタンパク質が摂取できる完全栄養食だ」
ミレイナは目を輝かせ、そのパンを両手で受け取ると、躊躇なく頭からガブリと噛み付く。
「……ッ! な、なんですかこの弾力! 噛み応えがあって、顎の筋肉まで鍛えられます! その上、口の中に広がるこの濃厚なアミノ酸の気配……天才の所業です!」
「わかってくれるか。だが、俺一人でこれを作り続けるには限界がある。ミレイナ、お前の農業改革局の権限で、大豆と高タンパクな魔力野菜の生産ラインを急造してほしい。騎士団を皮切りに、この国の全職員の食事メニューを根本からひっくり返す」
「やります! やらせてください! 私もずっと、この国のヒョロヒョロな文官たちを見るたびに、プロテインを飲ませたくてウズウズしていたんです!」
ミレイナはギュッと両拳を握りしめ、鼻息を荒くする。
これで、肉体改造のためのピースは全て揃った。
運動、栄養、そして休養。
あとはこれを、国家規模でシステム化するだけだ。
「――アルス殿下。国王陛下が、執務室でお呼びです」
背後から、音もなく現れた近衛兵が冷たい声で告げる。
俺は小さく息を吐き、ミレイナに「後で計画書を送る」とだけ言い残し、厨房を後にする。
カツン、カツンと、冷たい石造りの回廊を歩く。
王城の最奥部。分厚いオーク材の扉を押し開けると、そこには大講義室よりもさらに淀んだ、インクと古い紙束の匂いが充満する空間が広がっている。
窓は閉ざされ、机の上には崩れそうなほどに積み上げられた書類の山。
「……ゴホッ、ゴホッ。来たか、アルス」
その書類の山の向こうで、青白い顔色をした初老の男が、枯れ木のような手で羽ペンを握っている。
我が国のトップ、国王フェルディナンド・フォン・ルミナス。俺の父親だ。
その目の下には黒々とした隈が張り付き、呼吸は浅く、今にも命の灯火が消えそうなほどに衰弱している。
「学術院の教授から、泣き言のような抗議文が山のように届いているぞ。それに、主席魔導士を泣かせ、第一騎士団を酸欠で全滅させかけたそうだな」
国王は視線を書類から外さず、淡々とした声で問い詰める。
「お前は一体、何をしようとしている? この弱小国家の僅かな秩序すらも、内側から破壊するつもりか」
「破壊などとんでもない。俺はただ、正常化しようとしているだけです」
俺は背筋を伸ばし、淀んだ空気の中で真っ直ぐに国王を見据える。
「父上。この国は異常です。知識を売るために、民の肉体と精神を削り、壊れるまで働かせる。そんな自転車操業の先に、国の未来などありません。俺は、皆に健康になってほしいだけです」
「……健康、だと?」
「はい。十分な睡眠を取り、適切な食事をし、適度に体を動かす。たったそれだけのことで、脳の演算速度は跳ね上がり、魔法効率は向上し、国家の生産性は劇的に改善する。壊れるまで働くのは、努力ではなく無能の証明です」
ピタリ、と。
国王の手で動いていた羽ペンが止まる。
彼はゆっくりと顔を上げ、窪んだ双眸で俺を射抜くように見つめる。
「……理想論だな。他国に脅かされる我が国に、そんな『休む余裕』などどこにある」
「余裕は作るものです。そのための効率化を、俺が証明してみせます。手始めに、父上。今すぐそのペンを置いて、八時間の睡眠を取ってください。顔色が最悪です」
俺の不敬ギリギリの言葉に、国王はしばらく沈黙し、やがて小さく、自嘲するように鼻を鳴らす。
「……好きにしろ。だが、結果が出なければ、お前のその『健康遊び』は直ちに終わらせる」
「御意に」
俺は深く一礼し、執務室を後にする。
遊びなどではない。これは、生存を懸けた国家の最適化だ。
彼らがその真の意味を理解する日は、そう遠くないはずだ。
* * *
ズシンッ! ズシンッ! ズシンッ!
王城の渡り廊下を、城の基礎ごと揺らすような重厚な足音が駆け抜けていく。
「第三次魔力供給ルート、最適化完了! 続いて第四ルートの演算に入ります! 筋肉の収縮率、良好ッ!」
凄まじい怒声と共に走り去ったのは、総重量三十キロを超えるフルプレートアーマーを身に纏った大男だ。
だが、彼が握っているのは剣や槍ではない。空中に浮かぶ複数の羽ペンを念動力(魔法)で器用に操りながら、分厚い羊皮紙に猛スピードで戦術論文を書き殴っている。
尋常ではない速度の走り込みと、超高度な魔法演算、そして論文作成の同時並行。
あれから、三百六十五日が経過した今日の朝。
俺は廊下の端で、ミレイナが開発した『高純度大豆プロテイン』の入った木製シェイカーをシャカシャカと振りながら、その異様な光景を呆然と見送る。
「……なあ、ハリー。あれ、どう見ても第一騎士団の重装歩兵だよな?」
俺の肩に乗ったハリーが、「きゅっ」と鳴きながら同意するように頷く。
「いや、違うぞ。よく見ろ。あの胸の紋章……あいつ、外交と書記を担当する『文官』じゃないか。なんで文官が重装鎧を着てフルスプリントしながら論文を書いてるんだ」
一年という歳月は、人の意識を変えるには十分すぎる時間だった。
俺が提唱した『アルス式・文武両道トレーニング』と『高タンパク食』、そして『八時間睡眠の義務化』は、驚異的な効果を叩き出した。
文官は徹夜を辞めたことで脳の処理速度が爆発的に向上し、余った時間で騎士団に混ざって筋トレを始めた。騎士団は走りながら戦術を学ぶことで、知性を持った重戦車へと進化した。
結果として、この国からは『ひ弱な天才』も『知性のない筋肉』も消え失せた。
「……なんか、俺が思ってた『健康国家』と方向が違う気がするんだが」
俺はプロテインを一気に飲み干し、遠ざかる重装文官の背中を見つめながら、小さくツッコミを入れる。
だが、この時の俺はまだ、自国のこの『異常な進化』が、周辺の敵対国家にどれほどの絶望と恐怖を与えることになるのか、実感としては理解していなかった。
一方的蹂躙の足音は、すぐそこまで迫っていた。




