シーン3:天才魔導士の敗北と、酸欠の『走り込み戦術会議』
「――殿下。神聖なる知識の殿堂で、いかなる奇行に及んでおいでですか」
床の冷たい石畳に汗の滴が落ちるのと同時、背後から絶対零度の声が降ってくる。
腹直筋に込めていた力をゆっくりと抜き、張り詰めていた体幹を解いて立ち上がる。俺の背中でバランスをとっていた魔法ハリネズミのハリーが、「きゅっ?」と首を傾げながら肩へとよじ登ってくる。
振り返ると、そこには一人の少女が立っている。
ルミナス王国主席魔導士、リーシャ・エル・セレスティア。
年齢は俺と一つしか違わない十七歳だが、その身に纏う深い藍色のローブと、知性を具現化したような銀糸の髪、そして冷徹なアイスブルーの瞳は、彼女がこの国における魔法理論の最高到達点であることを無言で証明している。
「奇行とは心外だな、リーシャ。俺は至って真面目に『第六複合術式』の最適化を図っていたところだ」
「床に這いつくばり、獣のように汗を流すことが最適化ですか? 呆れて言葉も出ません」
リーシャは細い指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、俺をゴミでも見るかのような冷たい一瞥をくれる。
「魔法とは、精神の芸術です。外界のノイズを完全に遮断し、肉体の動きを極限まで静止させる。心臓の鼓動すらも制御下置き、波一つない水面のような『静寂』を作り出して初めて、高位の魔力は脳内の術式に定着するのです。殿下のように血を沸騰させ、呼吸を荒らげるなど……魔法に対する冒涜に他なりません」
完璧な教科書通りの回答だ。
この国の魔導士は全員、彼女と同じことを言う。だからこそ、皆一様に青白い顔をして、少し走っただけで息切れを起こす虚弱体質に陥っているのだ。
「なるほど。なら、その『静寂』とやらを重んじるお前の理論と、俺の『血流』理論。どちらが正しいか、今ここで証明してみせようか」
「……証明? 殿下が、私に魔法で挑むと?」
リーシャの細い眉が微かにピクリと動く。不敬に対する怒りではなく、純粋な『あり得ない』という困惑だ。
「証明と言ったんだ。勝負じゃない。よく見ておけ」
俺は肩で息を整えながら、右手の人差し指をスッと虚空へ突き出す。
筋肉は今、先ほどのプランクによって極限まで温まっている。心拍数は通常時の約二倍。太い血管をドクドクと勢いよく駆け巡る血液が、脳の隅々にまで新鮮な酸素を送り届けている。
視界は恐ろしいほどに冴え渡り、脳細胞は最高速の処理能力を発揮する準備を整えている。
『――展開』
俺は一切の詠唱を放棄し、ただ一言、起動のキーだけを口にする。
直後。
指先から溢れ出した青白い魔力が、空中で瞬時に幾何学模様を描き始める。
円が交差し、三角形が折り重なり、古代ルーン文字がその隙間を高速で埋め尽くしていく。一つ、二つ、三つ――展開される魔法陣の数は瞬く間に増殖し、図書館の薄暗い空間に、直径二メートルを超える巨大で複雑な立体魔法陣が構築される。
光の奔流が周囲の書棚を照らし出し、魔力灯の光すらも霞ませるほどの強烈な輝きを放つ。
「な……っ!?」
リーシャが、息を呑んで後退る。
彼女のアイスブルーの瞳が見開かれ、その中で幾重にも重なる魔法陣の光が揺れている。
「無詠唱での……第六複合術式!? しかも、この展開速度……そして六層もの多重構築……!?」
「さっき読んだばかりの術式だが、悪くないな。魔力の流れが極めてスムーズだ」
俺は構築された立体魔法陣を指先でくるくると回しながら、呆然とするリーシャを見下ろす。
「いいか、リーシャ。脳は臓器だ。そして魔力演算を行うのは、その臓器である脳だ。体を動かさず、血流を滞らせたまま『静寂』を保てば、確かにノイズは減るかもしれない。だが、圧倒的に酸素が足りなくなる」
「酸素……血流……?」
「そうだ。俺は筋肉に負荷をかけ、強制的に心臓のポンプを回した。結果、俺の脳は今、お前の何倍もの酸素とブドウ糖を消費し、超高速で術式を組み上げている。筋肉を鍛え、動かすことは、そのまま脳のスペックを引き上げることに直結するんだよ」
パチン、と指を鳴らすと、空中の多重魔法陣が霧のように霧散し、光の粒子となって消えていく。
後に残ったのは、静寂と、己の常識を完全に破壊されて立ち尽くす天才魔導士の姿だけだ。
「ありえない……そんな筋肉と血の巡りなどという野蛮な理論で、我が国の何百年もの魔法の歴史が……」
ブツブツと呟きながら、リーシャはフラフラと壁に手をつく。
彼女の強固な『間違い』に、最初の楔を打ち込んだ瞬間だ。いずれ彼女も、ベンチプレスをしながら呪文を詠唱する素晴らしさに気づく日が来るだろう。
「――ガハハハハハッ! 聞いたぞアルス殿下! 学術院のジジイどもに啖呵を切って、大層な『筋トレ』とやらを見せつけたそうじゃないか!」
静寂を破り、図書館の大扉を乱暴に開け放って入ってきたのは、全身を分厚い鋼の鎧で包んだ巨漢だった。
ルミナス王国第一騎士団長、ガイアス・ヴォルグ。
身長二メートル近い巨体と、熊のような髭面。この『頭脳特化国家』において唯一、純粋な武力と暴力の匂いを漂わせる男だ。
「図書館では静かにしろ、ガイアス。本が痛む」
「細かいことは気にするな! いやぁ、このヒョロガリばかりの国で、殿下のように体を動かす喜びに目覚める御方が出るとは、このガイアス、感動の極み! どうだ殿下、その熱い血潮、我が騎士団の訓練場で爆発させてみないか!?」
暑苦しい笑顔で肩をバンバンと叩いてくるガイアス。
なるほど。
確かに、座学ばかりの文官や魔導士の意識を変えるには時間がかかる。だが、最初から体を動かすことに抵抗のない『騎士団』からアプローチするのは、合理的な手段だ。
「いいだろう。行くぞ、ガイアス。お前たち騎士団の現状、じっくりと見せてもらおうか」
「おう! 期待しててくれ! 我が第一騎士団は、ルミナス最強の筋肉の集まりだ!」
俺はへたり込むリーシャをその場に残し、ガイアスと共に図書館を後にする。
太陽の光が容赦なく照りつける、王城裏手の広大な中庭。
土と汗、そして鉄の錆びた匂いが熱風に乗って鼻腔を突く。
そこには、上半身裸の筋骨隆々な男たちが数十名、ただひたすらに木剣を振り下ろしている。
「フンッ!」「ハァッ!」「殺せェッ!」という野太い掛け声が響き渡り、土煙が舞い上がっている。
……ひどい有様だ。
「どうだ殿下! この漲る力! 溢れる闘気! 彼らこそが、我が国の盾となる最強の――」
「全員、手を止めろ」
俺はガイアスの言葉を遮り、鋭く声を張り上げる。
ピタリと木剣の音が止み、汗だくの屈強な男たちが一斉に俺の方を振り向く。その顔には「ひ弱な王子が何用だ」という侮蔑の色が微かに混じっている。
「単刀直入に聞く。お前たち、敵が重装歩兵による密集陣形を組み、右翼から長弓兵による制圧射撃を仕掛けてきた場合、どう対処する?」
俺の問いかけに、騎士団の男たちは顔を見合わせる。
やがて、一番前にいた傷顔の男が一歩前に出て、自信満々に胸を叩く。
「決まっております! 盾を構え、己の筋肉を信じて正面から突撃し、敵の陣形を気合でぶち破ります!」
「……他には?」
「気合で破れなければ、さらに気合を入れます!」
俺は深く、深くため息を吐く。
肩に乗ったハリーも、「きゅぅ……」と呆れたように短い前足を顔に当てている。
「ガイアス。お前たちは筋肉を鍛えているんじゃない。ただ脳を停止させているだけだ」
「む? どういうことだ、殿下」
「戦術の欠片もない。ただの肉の壁だと言っているんだ。我が国は『頭脳特化国家』だろう? なぜ、その頭脳を戦場で活かそうとしない」
俺は騎士たちの前に歩み出ると、足元の土を軽く蹴る。
「いいか。筋肉だけではただの的だ。知識だけではただの案山子だ。本当の強さとは、極限の肉体疲労の中で、どれだけ冷静に論理的な思考を維持できるかにある」
俺はガイアスを真っ直ぐに見据える。
「今から、俺が『アルス式・文武両道トレーニング』の基礎を叩き込んでやる。全員、訓練場の外周に整列しろ」
「な、何をする気だ?」
「簡単なことだ。走りながら、俺が出す戦術問題に答えてもらう。名付けて『走り込み戦術会議』だ」
騎士たちがざわつく。
走ることなど彼らにとっては造作もないことだ。だが、そこに『思考』を組み込むことの地獄を、彼らはまだ知らない。
「さあ、走れ! ペースは落とすな!」
俺の号令と共に、数十名の騎士たちが一斉に土煙を上げて走り出す。
彼らと並走しながら、俺は容赦なく声を張り上げる。
「第一問! 現在地は泥濘の深い湿地帯! 敵は軽装の騎馬隊が三十! こちらの物資は三日分! さあ、どう動く!」
先頭を走る傷顔の男が、息を荒らげながら叫び返す。
「突撃して、騎馬を、叩き落と……すッ!」
「不正解だ! 湿地帯で重装歩兵が追いつけるわけがない! そもそも泥で足を取られる! 正解は『後退して地形の有利をとる』だ! はい腕立て伏せ十回追加!」
「な、なんだとぉ……ッ!?」
「休むな! 足を動かし続けろ! 第二問! 補給線が絶たれた場合、現地での食糧調達において注意すべき三つのポイントを言え!」
走り続ける騎士たちの顔から、急速に余裕が消え去っていく。
筋肉を動かすためには、大量の酸素が必要だ。
そして、脳で論理的な思考を巡らせるためにも、同じく大量の酸素が必要になる。
つまり、全力で走りながら高度な戦術思考を行うということは、肉体と脳で限られた酸素を奪い合う『究極の酸欠状態』を引き起こすということだ。
「ハァッ……ハァッ……! わからん……気合で、山菜を食う……ッ!」
「毒の判別もできないのか! 腹を下して全滅だ! 腕立て二十回!」
五周目を過ぎたあたりから、次々と騎士たちが白目を剥いて土の上に倒れ伏していく。
彼らは屈強な肉体を持っているが、思考しながら動くという回路が全く構築されていないのだ。
「甘い! 甘すぎる! 敵の刃が迫っている時に『考えられません』で済むのか!」
俺は倒れた騎士たちの間を縫うように走りながら、激昂する。
「脳みそに酸素を送り込め! 足の筋肉から血を脳へ回せ! 筋肉と知識をリンクさせろ!!」
十周目。
立っているのは、ついに俺とガイアスだけになる。
俺自身も息は上がっているが、日頃のトレーニングにより、歩法と呼吸の完全な同期ができている。
対するガイアスは、全身から滝のように汗を流し、大木のような足はガクガクと震え、顔面は酸欠で紫色に染まっている。
「ハァッ……ハァッ……ッ! で、殿下……悪魔か、あんたは……ッ!」
「第十五問だガイアス! 夜間、敵の野営地を奇襲する際、風向きと火の回りの関係から最適な突入方角を答えろ!」
ガイアスは血走った目で虚空を睨みつけ、極限の酸欠状態の脳を無理やり回転させる。
そのこめかみに、太い青筋が何本も浮かび上がる。
「風上から……! 煙を敵陣に流し込み……視界を奪い……ッ、その後方から……迂回して……叩く!!」
「……正解だ。よく絞り出したな、ガイアス」
俺の言葉を聞いた瞬間、ガイアスは大木が倒れるような轟音を立てて、土の上に大の字にぶっ倒れる。
「ハハッ……ハァ……ッ。これ、は……効くぜ……。剣を、素振りする、千倍は……キツい……ッ!」
ガイアスは荒い息を吐きながら、土まみれの顔で、だが最高に清々しい笑顔を俺に向ける。
「殿下……あんたの言う通りだ。俺たちは、ただの肉の塊だった。戦場で生き残るには……戦術を、この筋肉に染み込ませなきゃならねぇ……」
「わかればいい。お前たちは今日から、考える筋肉に生まれ変わるんだ」
俺は倒れ伏すガイアスの前に立ち、手を差し伸べる。
ガイアスはその巨大な手で俺の手をがっちりと握り、強引に立ち上がる。
「ついていくぜ、殿下。俺たち第一騎士団を……本物の『最強』にしてくれ!」
その熱い眼差しを正面から受け止めながら、俺は内心で一つ頷く。
これで、武力の要である騎士団の意識改革の端緒は開かれた。
だが、彼らを真の『文武両道』の怪物に育て上げるには、決定的に足りないものがある。
どれだけ激しいトレーニングを行おうと、それに見合う『栄養』がなければ筋肉は育たず、脳も働かない。
我が国の食事は、頭脳労働に偏重した結果、手軽に糖分を補給できる固焼きパンや甘い干し果実ばかりで、肉体を構築するタンパク質が絶望的に不足しているのだ。
「……次は、厨房だな。この国の貧弱な食卓を、根本から叩き直す」
俺はハリーの背中を指で撫でながら、王城の奥から漂ってくる薄いスープの匂いの方角を、鋭く見据えた。




