シーン2:睡眠四時間信仰への反逆と、大図書館に響く悲鳴
ギィッ、と。
木製の重い椅子が石畳の床を擦る不快な音が、死者の国のように静まり返っていた大講義室に突如として響き渡る。
数百人の生徒たちの虚ろな視線が、そして教壇に立つ老教授の氷のような眼光が、最後列の席でゆっくりと立ち上がった俺へと一斉に向けられる。
「アルス殿下。授業中の無断離席は、いかに王族といえど許されませんよ。知の探求において、集中を途絶えさせる行為は重罪です」
老教授の声には、明確な怒りと軽蔑が混じっている。
だが、俺はそんな威圧など意に介さず、肩をすくめてみせる。
「離席するつもりはない。ただ、座り続けることに限界を感じただけだ。それと教授、あんたの言う『知の探求』とやらには、根本的な欠陥がある」
「……欠陥、だと?」
「ああ。睡眠を極限まで削り、肉体を椅子に縛り付け、ただひたすらに脳髄だけを酷使する。そんな『四時間睡眠信仰』は、知性の向上どころか、ただの緩慢な自殺だ。血流は滞り、脳は酸欠を起こし、思考回路は錆びついていく。さっき倒れた彼女を見れば一目瞭然だろう」
室内に、息を呑む気配が広がる。
このルミナス王国において、長時間の座学と睡眠不足は『美徳』であり『努力の証』だ。それを真っ向から否定する俺の言葉は、彼らにとっては異端の暴言以外の何物でもない。
「戯れ言を……! 肉体の疲労など、強靭な精神力でねじ伏せるのが真の学者というものです! 野蛮な武力国家の獣たちとは違うのですよ!」
顔を真っ赤にして激昂する教授をよそに、俺は机の上に置かれていた分厚い魔導書『高位複合術式・第六版』を無造作に手に取る。重量にしておよそ五キロ。鈍器としても十分に使える代物だ。
俺はそれを両手で胸の前にしっかりと抱え込むと、足を肩幅よりやや広く開き、つま先を僅かに外側へと向ける。
「精神力で血流は改善しない。物理的なポンプが必要なんだよ」
息を深く吸い込み、腹圧を高める。
そのまま、膝が爪先より前に出ないよう細心の注意を払いながら、股関節から折りたたむようにして腰を深く、深く沈めていく。
大臀筋と大腿四頭筋――人体において最大級の体積を誇る筋肉群が、強烈な負荷を受けて悲鳴を上げる。太ももが床と平行になる位置まで腰を落としたところで、ピタリと動作を停止する。
完璧なフォームの、フルレンジ・スクワット。
筋肉の繊維一本一本が極限まで引き伸ばされ、燃えるような熱を帯び始める。
「なっ……! で、殿下、何を野蛮な真似を!?」
「静かにしてくれ。今、いいところなんだ」
一秒、二秒と姿勢を保持しながら、俺は胸の前に掲げた魔導書のページに視線を落とす。
――素晴らしい。
下半身の巨大な筋肉群が強烈に収縮することで、滞っていた血液が一気に全身を駆け巡り始める。心拍数が上がり、新鮮な酸素とブドウ糖が滝のように脳細胞へと流れ込んでいくのが、はっきりと知覚できる。
淀んで霞んでいた視界がクリアになり、難解な古代魔法文字が、まるで光を帯びたように脳内に直接刻み込まれていく。
「……ふう。やっぱり、スクワットをしながら魔導書を読むと、血流が良くなって脳への定着率が段違いだな」
ゆっくりと息を吐きながら、大腿の筋肉を爆発させて元の立ち姿勢へと戻る。
そして再び息を吸い込み、腰を沈める。
アップ、ダウン。アップ、ダウン。
静まり返った大講義室に、俺の規則正しい衣擦れの音と、深く力強い呼吸音だけが響き渡る。
青白い顔をした生徒たちは、健康的な汗を額に滲ませながら上下運動を繰り返す俺を、まるで未知の怪物でも見るかのような目で凝視している。
「で、出て行きなさいッ! 神聖な学問の場を愚弄する気ですか、この愚か者ッ!」
ついに老教授が教壇を叩き、金切り声を上げる。
「ああ、言われるまでもなく退出させてもらう。ここは空気が悪すぎて、まともな有酸素運動ができないからな」
俺は魔導書を小脇に抱えると、呆然とする生徒たちの間を抜け、大講義室の重い扉を蹴り開けて廊下へと出る。
背後から教授の怒声が聞こえた気がしたが、全く気にならない。俺の脳は今、運動によって分泌されたエンドルフィンとドーパミンで満たされ、極めて前向きな状態にある。
そのまま俺が向かったのは、王城の北側に位置する『王立大図書館』だ。
蔵書数数百万を誇る、世界最大の知識の殿堂。
高いドーム型の天井からステンドグラス越しに柔らかな光が差し込み、空気中には古い羊皮紙と乾いたインクの匂い、そして微かな埃の匂いが漂っている。大講義室の淀んだ空気とは大違いだ。
「よし、ここなら集中できそうだ」
俺は誰もいない静かな区画を見つけると、床の石畳の上に先ほどの魔導書を開いて置く。
そして、その手前にうつ伏せになるように体を沈め、両肘とつま先の四点だけで全身の体重を支える姿勢をとる。
体を一直線の板のように保つ、体幹トレーニングの基本――『プランク』だ。
「きゅうっ」
俺が姿勢を作った瞬間、ローブのポケットからごそごそと這い出してきた魔法ハリネズミのハリーが、俺の背中の上にトコトコとよじ登ってくる。
背中のちょうど肩甲骨の間に陣取ったハリーは、丸っこいお尻を落ち着かせると、どこから取り出したのか、俺のお手製『プロテイン入りどうぶつパン』を両手で抱え、モグモグと齧り始める。
「いいぞハリー。お前の体重が、今の俺には最高の追加ウェイトだ」
ハリーは「きゅっ」と短く鳴いて、パンの欠片を俺の背中にポロポロとこぼす。
両肘にかかる負荷。腹直筋と腹横筋が、姿勢を維持するためにアイロンを押し当てられたように熱を発し、細かく震え始める。
この『全身の筋肉が総動員されている』という物理的なストレスが、逆に脳から一切の雑念を吹き飛ばす。
今、俺の意識にあるのは、目の前の床に開かれた魔導書の記述だけだ。
『――第六複合術式におけるマナの干渉限界点は……』
視線が文字の上を滑る速度が、通常の三倍、いや四倍にまで跳ね上がる。
肉体が苦鳴を上げれば上げるほど、精神は恐ろしいほどの冴えを見せ、複雑怪奇な魔法陣の構造が、頭の中で立体的なパズルとしてカチリ、カチリと組み上がっていく。
汗が顎を伝い、石畳にポタポタと音を立てて落ちる。
腹筋が限界を訴え、全身が痙攣しそうになる。だが、それがいい。このギリギリの均衡状態こそが、脳の処理能力を限界突破させる鍵なのだ。
「ひ、ひぃぃぃぃぃッ!?」
突然、本棚の陰から、鼓膜を劈くような悲鳴が上がった。
視線だけを動かすと、分厚い眼鏡をかけた新人の女性司書が、抱えていた本を床にぶちまけ、幽霊でも見たかのように腰を抜かしている。
薄暗い図書館の床で、顔から滝のように汗を流しながら、背中にパンを齧るハリネズミを乗せてプルプルと震えている男。
確かに、客観的に見れば完全に狂人のそれだろう。
「……静かにしてくれ。今、第四術式の多重展開演算がピークなんだ」
俺は腹筋の震えを堪えながら、極めて冷静な声でそう告げる。
司書は「ひっ、ああっ……!」と謎のうめき声を上げながら、後ずさりで逃げていく。
まあいい。理解されなくても構わない。
だが、この『アルス式・文武両道トレーニング』が、この虚弱な国を根本から作り変える最強のメソッドであることを、いずれ彼らも嫌というほど思い知ることになる。
「さあ……あと三分、この姿勢を維持して一章を読み切るぞ」
俺の腹筋への意識と、魔法理論への探求は、静かな図書館の中でさらに深く、熱く研ぎ澄まされていった。




