シーン1:十五時間座学の地獄と、王子の密かなるスクワット
カツッ、カツッ、カツッ。
硬質なチョークが黒板を叩く音が、無駄に高い天井を持つ王立学術院の大講義室に響き渡る。
窓は分厚い遮光カーテンで完全に閉ざされ、外の光は一切入ってこない。代わりに室内を照らすのは、壁に等間隔で配置された魔力灯の青白い光だけだ。
空気が酷く淀んでいる。
数百人の生徒たちが吐き出す二酸化炭素と、古い羊皮紙の匂い、そして微かなインクの酸っぱい匂いが混ざり合い、肺の奥にねっとりとへばりつく。
「――この第十五術式において最も重要なのは、魔力回路の構築における『静寂』です。精神の波立ちを極限まで抑え込み、ただひたすらに論理の海へと没入する」
教壇に立つ老教授の単調な声が、呪文のように室内に降り注ぐ。
生徒たちの顔色は、魔力灯の光を差し引いても異常なほど青白い。目の下にはくっきりと土気色の隈が刻まれ、誰もが虚ろな瞳でひたすらに羽ペンを動かしている。カリカリ、カリカリという摩擦音だけが、まるで虫の羽音のように不気味に響く。
異常だ。
俺――ルミナス王国第三王子、アルス・フォン・ルミナスは、一番後ろの席で頬杖をつきながら、この狂気じみた空間を見下ろす。
これが、大陸有数の『頭脳特化国家』と呼ばれる我が国の最高学府の日常風景。
一日十五時間にも及ぶ、狂気の連続座学。
途中休憩は、水と少量の固焼きパンを齧るためのわずか十分間のみ。私語は厳禁、席を立つことも許されない。
「……ふう」
俺は誰にも気づかれないよう、極めて小さく息を吐き出す。
そして机の下、分厚いローブに隠された両足に全神経を集中させる。
ぐっ、と足の指先で硬い石畳の床を掴むように力を込める。
そのまま踵をゆっくりと引き上げ、ふくらはぎの筋肉――下腿三頭筋を限界まで収縮させる。
一秒、二秒、三秒。
頂点で静止し、筋肉が焼けるような感覚を味わってから、再びゆっくりと踵を下ろす。床に触れるか触れないかのギリギリのラインで止め、再び引き上げる。
いわゆる『カーフレイズ』だ。
「きゅうっ」
膝の上で、小さく愛らしい鳴き声が上がる。
視線を落とすと、俺の使い魔である魔法ハリネズミの『ハリー』が、仰向けの無防備な姿勢でモグモグと口を動かしている。
小さな両手で大事そうに抱え込んでいるのは、俺が厨房のオーブンを借りてこっそり焼き上げたお手製の『高タンパクどうぶつパン』だ。ハリーの姿を模した丸っこいシルエットのパン生地には、卵と豆類から抽出した純度の高いタンパク質がぎっしりと練り込まれている。
ハリーは満足そうに目を細め、短い後ろ足をぴくぴくと動かす。背中の針は完全に寝ており、柔らかなタワシのようだ。
「……美味いか。しっかり食べて、丈夫な筋肉を作るんだぞ」
俺はハリーの柔らかいお腹を指先でそっと撫でながら、再びカーフレイズの反復運動に戻る。
ふくらはぎは『第二の心臓』と呼ばれる。重力に逆らって血液を心臓へと送り返す、極めて重要なポンプ器官だ。
こうして筋肉を収縮させることで、滞っていた血流が一気に全身を巡り始める。足先からじんわりと温かい血液が駆け上がり、それが太い血管を通って、脳へと新鮮な酸素とブドウ糖を送り届ける。
途端に、視界の霞が晴れる。
教授が黒板に書き殴る複雑な魔法陣の構造が、まるで立体模型のように脳内で明確に組み上がっていく。
座りっぱなしは、万病の元だ。
筋肉は衰え、血流は滞り、脳への酸素供給量は劇的に低下する。そんな状態で十五時間も机に向かったところで、定着する記憶などたかが知れている。
前世の記憶――現代日本という異世界で、窓のないオフィスに軟禁され、エナジードリンク片手にキーボードを叩き続けた末に過労で心臓が止まった『社畜』としての記憶が、俺にそう警告し続けている。
「……まったく、不健康を極めた非効率な国だ」
呟きながら、俺はふくらはぎのポンプをさらに加速させる。
ルミナス王国の生存戦略は理解している。武力も資源もないこの国が他国に飲み込まれないためには、圧倒的な『知識』を輸出するしかない。
だが、そのためのアプローチが根本的に間違っている。
肉体を軽視し、精神論だけで知性を磨こうとするこの偏った教育は、いずれ必ず限界を迎える。いや、もうすでに限界は来ているのだ。
ガタッ。
不意に、前方から鈍い音が響く。
三列前の席に座っていた、美しい金糸の髪を持つ令嬢が、まるで糸の切れた操り人形のように横へ崩れ落ちる。
彼女の手からこぼれ落ちた羽ペンが、床を転がっていく。インク瓶が倒れ、真っ黒な液体が羊皮紙を無残に汚していく。
彼女の顔は紙のように白く、浅い呼吸を繰り返しながらピクピクと痙攣している。明らかな過労と、極度の睡眠不足による魔力枯渇のサインだ。
「あ……」
隣の席の生徒が小さく声を漏らすが、誰も彼女を助け起こそうとはしない。ただ怯えたような目で、教壇の教授を見つめるだけだ。
「……授業の邪魔です」
老教授はチョークを止め、氷のように冷たい目で倒れた令嬢を見下ろす。
「警備兵。その生徒を医務室へ運びなさい。知の探求において、肉体の限界などという言い訳は通用しません。彼女は『脱落者』です」
教室の後方から静かに歩みみ寄ってきた屈強な警備兵が、令嬢の両脇を抱えて引きずっていく。
その無残な光景を見つめながら、俺の胸の奥で、どす黒い怒りが静かに、だが確実に沸騰し始める。
『代わりはいくらでもいるんだよ。君が倒れても、仕事は回る』
前世で倒れる直前に上司から投げつけられた冷酷な言葉が、教授の声と完全に重なり合う。
壊れるまで人間をすり潰すことを『努力』と呼ぶ、この狂った世界。
間違っている。
こんなものは、知性でも何でもない。ただの緩やかな自滅だ。
俺は膝の上のハリーをそっとローブのポケットに滑り込ませる。
そして、両足の裏でしっかりと床を踏みしめる。
カーフレイズのウォームアップはもう十分だ。筋肉には十分に血液が行き渡り、脳は最高速で回転を始めている。
「……そろそろ、限界だな」
俺は、小さく、だが教室全体に響くようにはっきりと呟き、椅子からゆっくりと立ち上がる。




