シーン4:新世界のプロテイン乾杯と、筋肉は裏切らない
ルミナスの国境に広がる大平原は、今や人類がかつて経験したことのない、超巨大な『至福の空間』へと変貌していた。
あちこちから聞こえてくるのは、怒号や悲鳴ではない。
「うめぇ……ッ、このパン、外はカリカリなのに中はモッチリしてて……」
「スープのおかわり、もらってもいいですか!? すいません、三日ぶりの飯なもので……ッ!」
という、涙ぐましい食レポと感謝の言葉だけだ。
ルミナスの農民や文官たちは、百万人の配膳を完璧なフォーメーション(反復横跳びやシャトルランを応用した超速配膳)でこなし、戦場は完全に巨大なフードフェスティバル会場と化していた。
その平和すぎる喧騒から少し離れた、本陣の天幕跡地。
そこには、世界大連合軍を率いていた各国の王や大将軍たちが、武装を解除され、膝をついて項垂れていた。
「……殺せ」
鉄鋼同盟の盟主が、虚ろな目で大地を見つめたまま、掠れた声で呟く。
「百万の軍勢を率いながら、ただの一人も殺せず、ただの一歩もルミナスに踏み入ることなく……胃袋で屈服した。もはや、我々に生きて国へ帰る面目などない。歴史に残る大敗北だ。潔く首を刎ねよ」
「そうだ……。まさか、我々の伝統と誇りが、一杯のスープとパンの前に敗れ去るとは……」
神聖王国の王も、絶望に顔を覆っている。
彼らのプライドは、自軍の兵士たちが武器を捨てて「はりねずみパン」に群がった瞬間、完全に粉々に砕け散っていた。
「スッ、ハッ……。相変わらず、極端な連中だな」
俺は彼らの前に立ち、ゆっくりと深呼吸をしてから口を開く。
「負けたら死ぬ、か。そんな不健康で非生産的な考え方をしているから、国が疲弊するんだ。失敗したのなら、しっかり寝て、食べて、筋肉(細胞)を修復してから次の日に挽回すればいいだろうが」
「き、貴様に……我々の武人の誇りが理解できるかッ!」
鉄鋼同盟の盟主が怒鳴るが、俺は一切動じず、ローブの懐から数本の『金属製シェイカー』を取り出した。
「武人の誇りよりも、今は血中アミノ酸濃度の回復が最優先だ。運動後四十五分以内は、筋肉の合成が最も高まる『ゴールデンタイム』だからな」
俺はシェイカーの蓋を開け、彼らの目の前に差し出す。
「ルミナス特製、最高純度のホエイプロテイン(バニラ風味)だ。水と氷で完璧にシェイクしてある。……飲め」
「な、なんだその怪しげな白い液体は! 我々を毒殺する気か!」
「いいから飲め。これは勝者の命令だ」
俺の静かだが絶対的な圧力に押され、各国の王たちは震える手でシェイカーを受け取った。
彼らは互いに顔を見合わせ、死を覚悟したように目をギュッと瞑り……その冷たい液体を、一気に喉の奥へと流し込んだ。
ゴクンッ……。
「……あ」
神聖王国の王の目が見開かれる。
「あ、甘い……? 冷たくて……とろけるように、甘い……ッ」
「なんだこの、身体の隅々まで染み渡るような優しい味は……ッ。胃が、胃が喜んでいる……!」
過酷な行軍で乾ききり、ストレスでボロボロになっていた彼らの内臓に、消化吸収に極限まで最適化された高品質なタンパク質が、滝のように流れ込んでいく。
急激な血糖値の安定と、必須アミノ酸の供給。
それは、彼らの脳に強烈な『幸福物質』を分泌させた。
「う……うぅぅ……ッ! 美味い……ッ。なんて、美味いんだ……ッ!」
鉄鋼同盟の盟主が、シェイカーを両手で抱え込み、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「我々は……私は、今まで何をしていたのだ。こんなに美味しいものをゆっくりと味わう時間すら削り、ただ領土と見栄のために、民を……自らを痛めつけ続けていた……ッ」
「間違っていた。我々の信じていた『強さ』は、ただの自己破壊に過ぎなかったのだ……ッ!」
各国の頂点に立つ男たちが、次々と地面に突っ伏し、バニラ風味のプロテインの甘さにむせび泣く。
ルミナスの『健康の真理』が、世界の支配者たちの旧来の常識を、内側から完全に溶かし尽くした瞬間だった。
「分かったなら、もう二度と徹夜で行軍などするなよ。これからの世界の覇権は、武力ではなく『健康寿命』で決まるんだ」
俺は空になったシェイカーを回収しながら、彼らに向かってニヤリと笑いかけた。
「きゅいーんっ!」
ハリーも俺の肩から飛び降り、泣いている王様たちの頭を短い前足でポンポンと優しく撫でて慰めている。
こうして、百万の世界大連合軍を巻き込んだ人類史上最大の戦争は、ただの一人の死者も出すことなく、完全なる『プロテインでの乾杯』をもって終結したのだった。
* * *
――それから、数ヶ月後。
世界は、劇的な変化を遂げていた。
かつて国境線で睨み合っていた各国の軍隊は解体され、代わりに『世界健康維持機構』が設立された。
徹夜労働は国際法で厳しく禁止され、『一日八時間睡眠』と『週三回の適度な運動』が、世界中のすべての国民の義務かつ権利として定められたのだ。
「スッ、ハッ! 第一項! 神聖王国へのプロテイン小麦の輸出ルートは!」
「スッ、ハッ! 既存の魔力鉄道網を流用し、輸送コストを昨対比で三十パーセント削減可能であります、局長!」
「よし! 次、鉄鋼同盟との合同インフラ整備予算案!」
王都ルミナスの中央大通り。
そこでは、三十キロの重装鎧を着込んだマクシミリアンを先頭に、かつての敵国であった連合軍の文官たちが、全員で横一列に並んで『走りながら』国境なき共同予算の会議を行っていた。
最初は泣き言を言っていた他国の文官たちも、今や筋肉の喜びに目覚め、暗算の速度と大腿四頭筋の筋肥大を競い合う立派な戦闘民族へと進化を遂げている。
「フフッ。世界中が健康になって、ルミナスの農作物(アミノ酸)が飛ぶように売れますね、殿下」
王城のバルコニー。
穏やかな日差しの中、リーシャが分厚い経済レポートを片手に、誇らしげな笑みを浮かべる。
「ああ。おかげで我が国の税収は爆発的に跳ね上がり、医療費はゼロになった。まさに理想的な国家運営だ」
俺はバルコニーの手すりに寄りかかり、平和で活気に満ちた、どこまでも筋肉と笑顔に溢れる王都の景色を見下ろす。
隣では、国王フェルディナンドが「ふむ、今日は背中のトレーニングの日だったな」と呟きながら、意気揚々とジム(かつての謁見の間)へと向かっていく。
世界から搾取と過労が消え、誰もが自分の身体と向き合い、健康に生きることを肯定される時代。
俺が前世で叶えられなかった、そしてこの世界で絶対に成し遂げたかった『最強の国造り』は、今ここに完璧な形で完成したのだ。
「きゅんっ!」
俺の足元で、ハリーが自分の体重と同じ重さ(百グラム)の特製ダンベルを「ふぬーっ!」と持ち上げ、見事なショルダープレスをキメている。
「いいフォームだ、ハリー。お前も立派なルミナスの戦士だな」
俺はしゃがみ込み、ハリーの頭を撫でてから、自らの手にあるプロテインドリンクの入ったシェイカーを高く掲げた。
青く澄み渡った、美しい新世界の空へ向かって。
「すべての人々の、健やかなる睡眠と超回復に」
俺は最高の笑顔で、この物語の締めくくりとなる言葉を口にした。
「乾杯! そして――筋肉は裏切らない!」




