シーン3:全自動健康ループと、連合軍の集団降伏
「は、はひぃ……ッ、ひゅーっ、ひゅーっ……」
「もう、無理だ……。足が、一歩も、前に出ねェ……ッ」
世界大連合軍の最前線は、もはや戦場ではなく巨大な『野戦病院』のような惨状を呈していた。
ルミナス軍の完璧な有酸素機動に翻弄され、酸欠と乳酸の蓄積によって限界を超えた連合軍の兵士たちは、次々と膝をつき、泥だらけの腐葉土の上に倒れ伏している。
まだ立っている者たちも、武器を構える筋力すら残されておらず、ただ白目を剥いてゼーゼーと喘ぐことしかできない。
そこに、背後から決定的な『トドメ』が突き刺さった。
ゴォォォォォォォォッ!!
ルミナス陣営のさらに後方から、大気を震わせるような凄まじい地鳴りと共に、マグマが噴出するような沸騰音が響き渡る。
それと同時に、夜明けの冷たい風に乗って、暴力的なまでの『匂い』が平原を駆け抜けた。
「……あ?」
「な、なんだ、この……鼻の奥を、直接ぶん殴ってくるような匂いは……ッ!」
極限の疲労と酸欠で霞んでいた兵士たちの瞳に、ギンッ! と野生の光が灯る。
それは、魔獣の骨から抽出された極上のブイヨンと、大量のハーブ、そしてタンパク質が熱によって分解されることで生み出される、抗いがたい命の香りだった。
「はーい、世界大連合軍の皆さーん! 朝早くから激しい有酸素運動、お疲れ様です!」
巨大な魔導スピーカーから、今度はミレイナの元気いっぱいの声が響き渡る。
ルミナス陣営の後方では、ゴンザレスたち筋肉農民が、五十万の帝国軍を陥落させた時よりもさらに巨大な、プールほどの大きさがある超特大の鉄鍋を何十個も並べ、丸太のような木べらで豪快にスープをかき混ぜていた。
「『超巨大プロテイン炊き出し・第二幕』の準備が整いましたよー! 徹夜明けの空きっ腹に染み渡る、超高栄養スープです!」
ミレイナは荷車の上でメガホンを持ち、さらにとんでもない発表を付け加えた。
「今日は特別に、農業局の自信作である『はりねずみ型どうぶつパン』も大量に焼き上げてあります! 全粒粉とプロテインを限界まで練り込んだ究極の炭水化物です! スープに浸して、背中の針のカリカリとした食感を楽しんでくださいねー!」
「きゅいーんっ!!」
スピーカー越しに自分の姿を模したパンが宣伝され、俺の肩の上でハリーが誇らしげに胸を張り、短い腕を突き上げた。
「パ、パン……だと……?」
「温かい、肉のスープに……パン……ッ!」
ギュルルルルルルルルルルルルルッッ!!!!
百万人の空きっ腹が、朝の平原で同時に絶叫した。
その凄まじい腹の虫の音は、先ほどの突撃の足音すらも上回る大音響となって、大深緑の森を揺るがした。
兵士たちの視線は、もはや目の前のルミナス軍には向けられていない。彼らの目は、ルミナス軍の背後から立ち昇る、黄金色の湯気の柱に完全に釘付けになっていた。
「ま、待て貴様ら! 惑わされるな! それは悪魔の罠だ!」
「陣形を崩すな! 振り返った者は軍法会議にかけるぞォォッ!」
本陣の将軍たちが、裏返った声で必死に叫ぶ。
だが、その将軍たち自身の口からも、滝のように涎が流れ落ちている。
徹夜での行軍。不衛生な環境でのストレス。極度の睡眠不足。
そして今、彼らは一分間の全力ダッシュ(無酸素運動)を強制させられ、体内のグリコーゲン(糖質)を完全に使い果たしているのだ。
人間の脳は、エネルギーが枯渇した状態で目の前に『極上のカロリー』を提示された時、理性による制御を完全に放棄する。
「うるせェェェェッ! 軍法会議でも死刑でも好きにしろォォッ!」
最前線で倒れかけていた大柄な兵士が、手にした長槍を力任せに地面へと放り投げた。
ガシャンッ! という乾いた音を皮切りに、まるで伝染病のように、次々と武器が捨てられていく。
「俺は食う! 毒が入ってようが、呪われようが、あの『はりねずみパン』をスープに浸して腹いっぱい食ってやるゥゥッ!」
「どけッ! 俺が先頭だ! 割り込むなァッ!」
百万の軍勢が、完全に軍隊としての形を失った瞬間だった。
彼らはもはや侵略者ではない。ただの「極限まで腹を空かせた巨大な難民キャンプ」だ。
兵士たちは、武器を捨て、重い鎧の留め具を引きちぎりながら、フラフラとした足取りで、だが一直線にルミナス軍の陣地へと歩みを進め始めた。
「……信じられない光景だな。百万の軍勢が、たった一杯のスープとパンの前に瓦解していくとは」
俺は高台から、雪崩を打ってこちらへ向かってくる兵士たちの群れを見下ろし、呆れたように息を吐く。
「スッ、ハッ! 殿下、敵兵が完全武装を解除して接近してきます! いかがなさいますか!」
最前線で構えていたガイアスが、盾を下ろしながら大声で確認を求めてくる。
俺は魔導スピーカーのマイクを手に取り、平原全体に響く声で指示を出した。
「第一騎士団、および文官チームは直ちに『戦闘態勢』を解除! これより我が軍は『会場整理・および健康管理態勢』に移行する!」
「「「了解ッ!!」」」
ルミナス軍の兵士たちは、流れるような動作で武器を納め、代わりに誘導用の旗やメガホンを手に取った。
「はい、走らないで! 列を乱さないでください! スープもパンも百万食以上、無限に用意してありますからね!」
「横入りは禁止です! ちゃんと二列に並んで! 待機中はアキレス腱を伸ばして、血栓を予防してください!」
先ほどまで敵兵を殴り飛ばしていた文官たちが、今度は慣れた手つきで百万人の大行列をテキパキと捌いていく。
「み、見ろ! あっちの連中だ! あいつらを真似しろ!」
その時、連合軍の後方から、異様な集団が列の前方へと割り込んできた。
かつてアズライト渓谷で農民の圧倒的物理(鍬)に心を折られ、その後ルミナス軍の捕虜として健康管理の手ほどきを受けた、セルディア魔導連邦の残存エリートたちだ。
「イチ、ニー、サン、シー! 大きく息を吸って!」
「関節の可動域をアピールするんだ! ルミナスの皆さんに、我々が健康であることを証明すれば、スープを大盛りにしてくれるはずだァァッ!」
魔導士たちは、ボロボロと涙を流しながら、泥だらけのローブ姿で『完璧なラジオ体操』を踊り狂っていた。
かつて魔法至上主義を掲げ、肉体労働を蔑んでいた彼らが、今や生き残るために(そしてスープにありつくために)、狂ったように有酸素運動をこなし、自らの健康状態をアピールしているのだ。
「す、すげぇ……ッ。あいつら、完全にルミナスの教え(バグ)に適応してやがる……ッ」
「俺たちもやるぞ! 屈伸だ! 屈伸をして、血流を良くするんだ!」
魔導士たちの奇行を見た他の連合軍兵士たちも、見よう見まねで屈伸運動やストレッチを始め出す。
見渡す限りの平原で、百万人の兵士が武器を捨てて一斉に柔軟体操を始めるという、狂気じみた、だが圧倒的に平和な光景が広がっていた。
「……勝負あり、だな」
俺はマイクを置き、首の後ろで両手を組んで大きく伸びをする。
もはや、各国の王や将軍たちがいくら声を枯らして叫ぼうとも、この巨大な『健康への渇望(食欲)』の奔流を止めることは誰にもできない。
百万の世界大連合軍は、ただの一滴の血も流すことなく、自らの胃袋と、ルミナス王国が提示した『絶対的な健康(安らぎ)』の前に、完全かつ無条件の集団降伏を遂げた。
彼らは今、次々とルミナスの国境を越え、「ルミナス健康管理区」へと自発的に吸い込まれていく。
人類史上最大の戦争は、人類史上最大の『ピクニック会場』へと、完全に姿を変えたのだった。




