シーン1:百万の烏合の衆と、最前線のラジオ体操
朝日が昇る前の、どんよりとした薄暗い荒野。
ルミナス王国の国境を目前に控えた広大な平原は、文字通り『人の海』で埋め尽くされていた。
「ゲホッ、ゴホォッ……! 誰だ、俺のテントのすぐ横で排泄した馬鹿は! 臭くて眠れやしねェ!」
「眠れないのはこっちも同じだ! 昨日の夜からずっと、隣の陣地の連中が酒盛りして騒いでやがる!」
大陸中の国家が結託し、ルミナス王国を『世界共通の敵』として排除するために集結した【世界大連合軍】。
その総数は、後方支援や輜重隊を含めれば百万を超える。
だが、その実態は、史上最悪の『不健康の展覧会』だった。
百万という桁外れの人間が一箇所に密集すれば、何が起きるか。
まず、物理的にパーソナルスペースが完全に消滅する。他人のいびき、咳、諍いの声が絶え間なく鼓膜を叩き、睡眠の質は最悪のレベルまで低下する。
さらに、圧倒的なまでの衛生環境の悪化だ。百万人が一日に排出する排泄物の量は想像を絶する。簡易的なトイレは瞬く間に溢れ返り、ハエが飛び交い、不衛生な環境は赤痢や腸チフスといった感染症を爆発的に蔓延させ始めていた。
「おい、水はどうした! 補給の馬車がまだ着いていないぞ!」
「街道が渋滞して動けないんだよ! 北の騎馬連邦の奴らが、俺たちの陣地を無理やり横切ろうとするから馬車が横転したんだ!」
そして何より致命的なのが、指揮系統の完全な崩壊だった。
「――先陣を切るのは、我が東の神聖王国の聖騎士団に決まっておろうが! 貴様らのような泥臭い傭兵もどきに、ルミナスの首を取らせるわけにはいかん!」
「何をふざけたことを! 連合軍の盟主はこの俺だぞ! 我が鉄鋼同盟の重装歩兵こそが最前線にふさわしい!」
本陣の巨大な天幕の中では、各国の王や大将軍たちが、血走った目で『誰が一番偉いか』という不毛なマウント合戦(政治闘争)を徹夜で繰り広げていた。
彼らは自国のメンツと、ルミナス王国を倒した後の『戦利品の分配』のことしか頭にない。
極度の睡眠不足とストレスにより、彼らの前頭葉は完全に機能不全に陥り、怒りの感情をコントロールできなくなっていた。
外の兵士たちも、中の将軍たちも、誰もが等しく疲労し、飢え、苛立ち、ただ自らの身を削り合っている。
まだ一度もルミナス軍と剣を交えていないというのに、百万の大軍勢は、すでにその自重と摩擦によって、内側からドロドロに腐り落ちようとしていた。
* * *
一方、その頃。
ルミナス王国の国境防衛線である、大深緑の森の入り口。
朝日が木々の隙間から爽やかな光を差し込む中、俺は防衛陣地の最前線に立ち、深く、清々しい深呼吸を行っていた。
「スッ……、ハァァァァ……。素晴らしい朝だ。マイナスイオンとフィトンチッドが、肺の隅々まで行き渡るのがわかる」
俺の目の前には、ルミナス王国の全戦力――数万の騎士、文官、そして「俺たちも戦う(運動する)!」と自発的に集まってきた農民や一般市民たちが、等間隔で綺麗に整列している。
誰もが動きやすいウェアを身に纏い、顔には健康的な血色が浮かび、瞳は希望に満ちてキラキラと輝いている。
昨晩しっかりと八時間の睡眠をとった彼らの肉体は、完全に修復され、エネルギーのタンクは満タン状態だ。
「きゅいっ!」
俺の肩に乗った魔法ハリネズミのハリーも、短い両手をグッと上に伸ばし、朝の伸びを行っている。
「殿下、巨大魔導スピーカーの設置および、魔力チューニングが完了いたしました! いつでもいけます!」
少し離れた高台から、リーシャが水晶端末を操作しながら元気な声で報告してくる。
彼女の足元には、城の魔導士たちが総出で組み上げた、家屋ほどの大きさがある特大のスピーカー(拡声魔導具)が数台、連合軍の陣地へ向けて設置されている。
「ご苦労、リーシャ。では、予定通り『世界最強のウォーミングアップ』を開始する。彼らの澱んだ空気を、我がルミナス王国の健康的な周波数で完全に上書きしてやれ」
「了解です! 音楽、スタート!!」
リーシャが魔力を流し込んだ瞬間。
『チャチャチャッ、チャッチャッチャチャチャチャーン♪』
大音量の、しかし決して耳障りではない、どこか牧歌的でリズミカルなピアノの旋律が、巨大スピーカーから平原全体へと響き渡った。
「な、なんだッ!? 敵襲か!?」
「ルミナス軍の陣地から、妙な音楽が……ッ!」
百万の連合軍の陣地に、激震が走る。
徹夜で言い争いをしていた将軍たちも、慌てて天幕から飛び出し、音の鳴る方角――ルミナスの陣地を凝視した。
そこに広がっていたのは、彼らの常識を根底から破壊する、異様にして壮大な光景だった。
「――はい! 新しい朝が来ました! まずは腕を前から上に挙げて、大きく背伸びの運動から!」
スピーカーから、俺の爽やかな、そして腹式呼吸によって完璧に発声されたアナウンスが響く。
同時に、俺は両腕を真っ直ぐに伸ばし、胸を大きく開いて天を仰ぐ。
『イチ、ニィ、サン、シッ! ゴォ、ロク、シチ、ハチ!』
ズサァァァァァッ!!
俺の号令と動きに合わせ、背後に整列していた数万のルミナス国民が、一糸乱れぬ動きで全く同じ動作を行った。
数万人が同時に腕を振り上げ、息を吸い込む音。
ただそれだけで、凄まじい風圧が発生し、森の木々がザワザワと大きく揺れる。
「うおッ!? な、なんだあの動きは……ッ!」
「全軍が一斉に、同じ奇妙な踊りを……! ま、魔法の儀式か!?」
連合軍の兵士たちが、恐怖に顔を引き攣らせてざわめき始める。
「腕と脚の運動! 踵を上げて、下ろす! ふくらはぎの筋肉(第二の心臓)を刺激して、下半身に溜まった血液を脳へと一気に送り込みますよ!」
俺は軽快なリズムに合わせて、スクワットの要領で膝を曲げ伸ばしする。
ガイアス率いる第一騎士団も、マクシミリアン率いる財務局の文官たちも、ミレイナたち農民も、誰もが満面の笑顔で、完璧なフォームの『ラジオ体操第一』をこなしていく。
「馬鹿な……ッ。数万の人間が、コンマ一秒の狂いもなく完全に同調しているだと……?」
連合軍の本陣で、神聖王国の王が手にした双眼鏡を震わせる。
「訓練された近衛兵でも、あれほどの同調は不可能だ……! まるで、一つの巨大な生き物ではないか! やはり奴らは、自我を奪われた筋肉の生体兵器なのだ!」
「恐ろしい……。あんな気味の悪い連中と、どう戦えというのだ……ッ」
彼らには理解できない。
ルミナスの国民たちが完璧に同調しているのは、魔法の洗脳でも、恐怖による支配でもない。
ただ純粋に、「このリズムで動くと関節の滑液が分泌されて気持ちいい」という、身体の論理的な快感を全員が共有しているだけなのだ。
「次は胸の運動! 腕を斜め上に大きく広げて! 大胸筋をしっかり伸ばし、肺活量を最大化させます!」
『スッ、ハッ! スッ、ハッ!』
数万人の胸が大きく開き、朝の新鮮な空気が一斉に吸い込まれる。
その圧倒的な生命力のうねりは、目に見える『気』となって、ルミナス陣営の上空を黄金色に輝かせているようにすら見えた。
対する連合軍の陣営は、ドンヨリとした暗い霧に包まれているようだった。
呼吸が浅く、顔色が悪く、互いを憎み合っている百万の烏合の衆。
彼らは今、圧倒的な『健康の輝き』を直視させられ、自分たちの存在がいかに惨めで不健康であるかを、無意識のレベルで見せつけられていたのだ。
「深呼吸! 大きく息を吸ってー、吐いてー。はい、お疲れ様でした! これで全身の関節と筋肉のアイドリングは完了です!」
俺が笑顔で体操を締めくくると、ルミナス陣営から「「「フゥゥーーッ!!」」」という、最高にリフレッシュした清々しい歓声が沸き起こった。
全員の額にはうっすらと爽やかな汗が浮かび、身体中の血流は限界まで高まっている。
いつでも、一切の怪我のリスクなしに、トップスピードで動ける完璧な状態だ。
俺は巨大スピーカーのマイクに向き直り、遥か彼方で呆然と立ち尽くしている連合軍の将兵たちへ向けて、極めてフラットな声で語りかけた。
「――おはよう、世界大連合軍の諸君」
俺の声が、静まり返った平原に響く。
「ずいぶんと顔色が悪いな。肩は上がり、呼吸は浅く、目には酷い隈ができている。百万という数字を揃えるために、どれだけの睡眠時間と衛生環境を犠牲にしてきたのか……同情を禁じ得ない」
「き、貴様ァッ……! 世界を敵に回して、まだその減らず口を叩くかッ!」
連合軍の将軍の一人が、怒りで顔を真っ赤にして叫び返すが、その声はひどく掠れ、疲労の色が色濃く滲んでいる。
「世界を敵に回した? 違うな。お前たちが勝手に、自分たちの『不健康な常識』を押し付けようと集まってきただけだ」
俺はマイクから少し離れ、堂々と胸を張る。
「我々は、ただ健康に生きているだけだ。壊れるまで働くことをやめ、しっかり寝て、美味い飯を食い、適度に運動する。その当たり前の『健康』が、お前たちのそのボロボロの百万の軍勢よりも優れているということを、今から物理的に証明してやる」
俺は右手を高く掲げ、そして、力強く振り下ろした。
「さあ、第一フェーズ『最強の有酸素運動』の開始だ! 不健康な侵略者どもに、俺たちの研ぎ澄まされた心肺機能の暴力を見せつけてやれ!」
「「「応ッ!! 筋肉は裏切らない――ッ!!」」」
朝日を背に受け、世界最強の健康集団が、地鳴りを上げて平原へと駆け出していく。
人類史上最大の、そして最も一方的な『健康指導』の幕が、ついに切って落とされたのだった。




