シーン4:世界大連合軍の結成と、国王の言葉
深夜二時。
昼間の異常な熱狂が嘘のように静まり返った王城のバルコニーから、俺は静かに夜空を見上げていた。
雲一つない漆黒の天幕には、満天の星々が冷徹なまでの光を湛えて瞬いている。森の香りと、完成したばかりの超農場から漂う、豊潤な土の匂いが夜風に乗って鼻腔をかすめる。
「スッ……、ハァァァァ……」
肺の最深部まで冷涼な夜気を吸い込み、限界まで横隔膜を押し下げてから、細く、長く吐き出し切る。
どれほど過酷な戦況が予想されようとも、寝る前の『完全なる静的呼吸』による自律神経の調整は欠かさない。交感神経の昂ぶりを力ずくで抑え込み、副交感神経を優位な状態へと導く。これこそが、明日という一日に最高密度のパフォーマンスを発揮するための絶対条件だ。
「きゅぅ……」
俺の足元、大理石の床の上では、魔法ハリネズミのハリーが特製の『睡眠用リカバリーマット』の上で丸くなっている。
彼もまた、夜間の筋肉修復効率を最大化するための完璧な姿勢――丸い背中の針を限界まで寝かせ、完全な無防備体勢で微かな寝息を立てている。
「アルスよ。こんな夜更けに、一人で身体の調整か」
重厚なすりガラスの扉が静かに開き、背後から落ち着いた、だが確かな威厳を帯びた声がかけられる。
振り返ると、そこにはルミナス国王フェルディナンドが立っていた。
かつて書類の山に殺されかけていた初老の男の姿は、そこにはない。仕立ての良い寝衣の上からでも分かるほどに背筋が真っ直ぐに伸び、その足取りは大地を的確に捉えている。毎日の『八時間睡眠』と『アルス式高タンパク食』が、彼の肉体を細胞レベルで若返らせた証拠だ。
「父上。こんな時間に起きていては、成長ホルモンの分泌サイクルが乱れます。今すぐベッドに戻るべきだ」
「ふっ、お前のその徹底ぶりには、いかなる時も恐れ入るな」
国王は苦笑しながら、俺の隣でバルコニーの手すりに手をかける。そして、静まり返った王都の夜景を見つめながら、静かに言葉を続けた。
「シオンから、大陸全土を揺るがす最終報告が届いたぞ。……周辺三ヶ国だけではない。東の神聖王国、北の騎馬連邦、西の鉄鋼同盟……。エルドア大陆に存在する大小あらゆる国家が、我がルミナス王国を『共通の敵』と認定し、歴史上類を見ない【世界大連合軍】を結成した」
「……世界大連合、ですか」
俺は眉一つ動かさず、ただ静かにその言葉を受け止める。
「総兵力、推定五十万……いや、輜重兵や後方支援を含めれば【百万】を超える大津波だ。彼らの目的はただ一つ。我が国に潜入し、全職員に筋トレを強制して国家をバグ化させたお前の『健康思想』を、禁忌の悪魔の思想として世界から完全に抹殺することだ」
国王の言葉に、俺は思わず小さく鼻で笑う。
百万の軍勢。世界すべてを敵に回したという事実。
通常であれば、小国がそんな事態に直面すれば一瞬で絶望し、国ごと瓦解するだろう。だが、今の俺の脳は、驚くほどクリアに、そして冷静にその「数字の不健康さ」を計算し始めている。
「百万、ですか。全く、不健康の極みのような数字ですね」
「……お前は、怖くないのか?」
国王が、不思議そうな、しかし確かな信頼の光を宿した目で俺の横顔を覗き込む。
「怖いわけがないでしょう。父上、想像してみてください。百万の人間が一堂に会し、不衛生な陣地で、睡眠を削って行軍するのです。排泄物の処理はどうする? 水の確保は? 栄養の管理は? 数の暴力というものは、その規模が大きくなればなるほど、内部の『不健康という名の摩擦』によって自重崩壊する砂の城なのです」
俺は手すりをトントンと指先で叩く。
「彼らは我が国を『危険な生体兵器国家』だと恐れて連合を組んだ。ですが、彼らが本当に恐れているのは、我が国の武力ではありません。……【壊れずに、自立して生きる】という、この圧倒的な健康のあり方そのものなのです」
「健康のあり方、だと?」
「そうです。この世界の多くの国は、民を壊れるまで働かせ、兵を使い捨ての道具としてすり潰すことで、特権階級の富を維持している。徹夜を美徳とし、根性論で不条理を誤魔化すシステムの上に成り立っているのです。そこに、我が国が『休むことこそが最強である』という真理を証明してしまった。だから、世界の支配者たちは恐怖しているのですよ。自国の民が『休む強さ』に目覚め、自分たちの都合の良い支配体制が崩壊することを」
国王は俺の言葉を聞き、深く、深く息を吐き出した。
「お前の言う通りだな、アルス。お前はただ、皆に健康になってほしいと願った。だが、そのあまりにも合理的で正しい『善意』は、搾取で成り立っていた旧世界そのものを内側から腐らせる、最も鋭利な刃となってしまったのだ」
国王は俺の肩に、力強く、温かい手を置く。
「ルミナス王国は、もう昔の弱小国家ではない。お前が育てた考える筋肉(国民)たちは、世界中が攻めてこようと、一歩も退く気はないぞ。明日の朝になれば、彼らはまた涼しい顔でランニングを始め、世界最強の百万の軍勢を迎撃する準備を笑いながらこなすだろう。……アルス、この国を、そして世界の常識を、お前のその『健康』で完全に塗り替えてみせよ」
「ええ。言われるまでもなく」
俺は国王の言葉に深く一礼し、自らの意思を完全に凝固させる。
世界がどれほどの『不健康の軍勢』を率いてこようと、関係ない。
壊れる努力を美徳とする間違った常識を、我がルミナス王国が誇る圧倒的な『合理的暴力』で、根底から蹂躙してやる。
「さあ、父上。話はここまでです。もう二時半だ。今すぐ寝なければ、明日の朝のプロテインの吸収率が最低レベルに落ち込みますよ」
「ハッハッハ、そうだな。世界を敵に回した前夜だというのに、妙にぐっすり眠れそうな気がするよ。おやすみ、アルス」
国王は軽快な足取りで室内のベッドへと戻っていく。
俺もまた、床で丸くなっているハリーをそっと両手で抱え上げ、自身のベッドへと向かう。
百万の軍勢。世界包囲網。
受けて立とうじゃないか。
戦争とは、より健康で、より合理的な生活を送った者が勝つゲームだ。
俺たちの完璧な睡眠と、極限まで最適化された肉体が、世界の不健康な常識を完全に終わらせる。
俺はマットレスに身体を沈め、静かに目を閉じる。
明日からの、世界中を巻き込んだ究極の健康指導(蹂躙戦)へ向けて、俺の身体は最高の超回復のプロセスへと突入していった。




