シーン2:経済封鎖の危機と、自給自足の超農場
右足一本で床に立ち、左足を後方へとピーンと真っ直ぐに伸ばす。
上半身を床と平行になるまでゆっくりと倒し、両手に持った分厚い『国家経済学基礎・第十二版』と『大陸流通網の構造』(合計約十キロ)の重みを、軸足である右足のハムストリングス(裏もも)と大臀筋でしっかりと受け止める。
筋肉が限界まで引き伸ばされ、プルプルと微細な震えを起こすのを感じながら、数秒間静止。そして、反動を使わずにゆっくりと元の直立姿勢へと戻る。
『シングルレッグ・ルーマニアンデッドリフト』。
体の裏側の筋肉群を強烈に鍛え上げると同時に、高度なバランス感覚を養うトレーニングだ。
「スッ……、ハッ……。よし、右足のハムストリングス、見事な緊張感だ」
俺は呼吸を整えながら、手にした経済学の専門書のページを視線だけで追う。
「きゅぅーっ」
俺が上体を倒して床と平行になるたび、俺の背中の上に乗っている魔法ハリネズミのハリーも、短い手足をピーンと伸ばして『スーパーマン』の姿勢をとり、見事な背筋トレーニングをこなしている。
彼の背中の針が俺のシャツ越しにチクチクと心地よい刺激を与え、それがさらなる血流の促進を促している。
「――殿下ァッ! た、大変でございますッ!」
バンッ! と、執務室の分厚い扉が木っ端微塵に砕け散らんばかりの勢いで開け放たれる。
転がり込んできたのは、内務と外交の調整を担う数名の古参貴族たちだ。彼らはかつての徹夜による青白さは解消されつつあるものの、今は別の理由――純粋な『絶望』によって顔面を蒼白にしている。
「どうした。ノックの音が小さいぞ。大胸筋の収縮が足りないんじゃないか?」
俺は左足に軸を切り替え、再びシングルレッグ・ルーマニアンデッドリフトの動作に入りながら、極めて冷静に問いかける。
「筋トレなどしている場合ではありませんッ! バ、バルザック商業連合が……我が国との国交を完全に断絶し、『完全経済封鎖』を断行いたしました!」
「……ほう」
俺は上体を倒した姿勢のまま、視線だけを貴族たちに向ける。
「西の国境はおろか、南の海路に至るまで、すべての物流網がバルザックの私兵艦隊によって封鎖されました! 鉄鉱石、魔法触媒用の魔石、そして何より……我が国の食卓を支えていた『輸入小麦』と『岩塩』の供給が、完全にストップしたのです!」
「市場からはすでに小麦粉が消え去り、価格は昨日の十倍に跳ね上がっています! このままでは……我が国は、一ヶ月持たずに兵糧攻めで干上がりますぞ!」
貴族たちが、悲鳴のような声でまくしたてる。
俺はゆっくりと上体を起こし、手にした分厚い本をデスクの上に置く。
額から流れる汗をタオルで拭う俺の手は、ピタリと止まっていた。
「……バルザック商業連合め。自軍の兵站が崩壊した腹いせか。いや、違うな」
俺は窓の外、活気に満ちた王都の景色を見下ろす。
バルザックは徹底した利益至上主義の国だ。感情で経済を止めることはしない。
彼らがルミナス王国との貿易を完全に絶った理由はただ一つ。我が国がアズライト渓谷で見せた、あの常識外れの『異常な強さ(健康)』に、底知れぬ恐怖を抱いたからだ。
「アルス殿下! 申し上げにくいことですが……これは、殿下の進めた急激すぎる『健康改革』が招いた事態です!」
初老の貴族が、震える指を俺に突きつける。
「たしかに我が国民は強靭になりました! しかし、その異常な変化が周辺諸国を過剰に刺激し、世界中を敵に回してしまったのです! 我々のような小国は、大国に知識を売り、大人しく依存して生きるしか道はなかったはずだ!」
「……っ」
その言葉は、鋭い刃となって俺の胸の奥に突き刺さった。
健康であること。それは絶対に正しいことだと信じて疑わなかった。
過労で倒れる文官を救い、飢える兵士に栄養を与え、誰もが充実した日々を送れる国を作りたかった。俺の行動原理は、ただその一点のみだった。
だが、国家という巨大な生態系は、単独では生きられない。
周辺国とのバランスの上に成り立っている小国が、突然『最強の個体』へと変異すれば、周囲は恐怖し、群れをなして排除に動く。
俺の『善意』が、巡り巡ってこの国の民を飢えさせる原因になってしまったのか……?
「……俺の、責任だ」
俺が小さく呟き、伏し目がちに拳を握りしめた、その時だった。
「――何が『俺の責任』ですか! らしくないですよ、殿下!」
ズパーンッ!!
開け放たれたままの扉から、さらに元気な怒声と共に、二人の少女が執務室へと飛び込んできた。
右手に巨大な『マッスル・マンドレイク』を抱えた農業改革局局長のミレイナと、左手に丸められた大量の設計図(青写真)を抱えた主席魔導士のリーシャだ。
「輸入が止まって飢え死に? 馬鹿なことを言わないでください! だったら、国内で全部作ればいいだけの話じゃないですか!」
ミレイナが、抱えていたマンドレイクをデスクの上にドンッ! と力強く叩きつける。
その圧倒的な生命力とビタミン、アミノ酸の気配に、貴族たちが思わず後退りする。
「ミレイナ……。だが、我が国の農地面積と土壌の質では、三万の国民を養うだけのカロリーを自給自足することは不可能だ。それは過去のデータが証明している」
「それは『旧時代のひ弱な農民』のデータでしょう!?」
ミレイナは鼻息を荒くし、俺の目の前まで歩み寄る。
「今、ルミナス王国の農民たちは全員、ベンチプレス百キロを軽々と持ち上げる筋肉の化け物ですよ! しかも、殿下が推奨した『八時間睡眠』のおかげで、彼らの体力は翌朝には完全にリセットされています! 労働力の質と量が、過去の何十倍にも跳ね上がっているんです!」
「労働力があっても、土地が……」
「土地なら、私が解決しました」
俺の言葉を遮り、今度はリーシャがデスクの上に大量の青写真を広げる。
そこには、王都周辺の広大な荒野をキャンバスにした、幾何学模様の複雑な魔法陣と水路の設計図が描かれていた。
「『超・魔力循環型・立体自給自足農場』の完成設計図です」
リーシャは、知性を閃かせるアイスブルーの瞳で俺を見つめ、自信に満ちた声で解説を始める。
「バルザックからの輸入が止まったことで、我が国の魔導士たちは仕事(輸出用の魔法具作成)を失い、有り余る魔力と『筋トレの成果』を持て余しています。その魔力を、全て農業用の灌漑システムに注ぎ込みます!」
「魔導士が、農業を……?」
「はい! 荒れ果てた岩山も、魔導士たちの力で一瞬にして平地に変え、地下水脈から大量の水を汲み上げます。さらに、毎日ランニングをしている数万の国民たちの『運動エネルギー』と『汗(魔力を含んだ水分)』を、魔法陣を通じて大地に還元するのです!」
リーシャが青写真のポイントをペンで叩く。
「人間が健康に動き、熱と魔力を発散する。それがそのまま大地の栄養となり、作物の成長速度を物理法則を無視して加速させる……。完璧な、無限のエネルギー循環システムです!」
ミレイナとリーシャの二人が、俺の前に並び立ち、力強く頷き合う。
「殿下が教えてくれたじゃないですか。人間は、壊れるまで働くからダメなんだと。正しく鍛え、正しく休むからこそ、限界を突破できるのだと」
「今のルミナス王国は、決して壊れません。世界中が私たちを干上がらせようとしても、この強靭な筋肉と魔法がある限り、私たちは自分たちの力で生きていけます!」
二人の言葉が、迷いかけていた俺の脳の霧を一瞬にして吹き飛ばした。
そうだ。何を血迷っていたのか。
健康な肉体とクリアな頭脳があれば、乗り越えられない障害などない。
外から物資が入ってこないなら、内側から生み出せばいい。それこそが、国家の真の『強さ(自立)』だ。
「……ハッハッハッ!」
俺は堪えきれずに、腹の底から笑い声を上げた。
肩に乗ったハリーも、「きゅっきゅっ!」と一緒に楽しそうに鳴いている。
「全く、お前たちの言う通りだ。健康オタクの俺が、一時的なカロリー不足の予測データに怯えるなんてな。笑い話にもならない」
俺は貴族たちに向き直り、先ほどまでの迷いを完全に消し去った、鋭く、覇気に満ちた眼光を向ける。
「聞いたな、貴族諸君。バルザック商業連合の経済封鎖など、痛くも痒くもない。むしろ、我が国が『完全なる自給自足の超大国』へと進化するための、最高の負荷だと思って感謝すべきだな」
「で、殿下……しかし……」
「四の五の言っている暇はないぞ。お前たちも直ちに執務着を脱ぎ、動きやすいウェアに着替えるんだ。これよりルミナス王国は、国家総力戦としての『超立体農場建設』へ移行する!」
俺の力強い宣言に、ミレイナとリーシャが「「はいっ!!」」と満面の笑顔で応える。
数時間後。
王都の南に広がる広大な荒野は、凄まじい熱気と砂埃に包まれていた。
「そーれ! 魔力出力最大! 腕立て伏せの反発力を杖に込めて、大地を砕けェェッ!」
「スッ、ハッ! 岩盤の粉砕完了! 続いて地下水脈の引き上げに入ります! 腹筋群に魔力を集中させろ!」
かつては青白い顔で研究室に引きこもっていた数百名の魔導士たちが、上半身裸で汗を流しながら、スクワットや腕立て伏せと同時に大規模な地形操作魔法を連発している。
巨大な岩山が轟音と共に砕け散り、あっという間に平坦な農地へと姿を変えていく。
「よっしゃァッ! 水が来たぞ! 農業局の皆の衆、種まきだ! スクワットしながら種を植えろ! 大腿四頭筋に土の感触を叩き込めェッ!」
ゴンザレス率いる数千の筋肉農民たちが、トラクターなど目じゃない速度で畑を駆け回り、鍬を振り下ろし、等間隔で正確に種を植え付けていく。
その上を、ランニング中の国民たちが次々と通り過ぎていく。彼らが流す汗と、発散される熱、そして魔力が、リーシャの構築した巨大な魔法陣を通じて土壌へと吸収されていく。
シュルルルルッ……!
信じられない光景だった。
種を植えてからわずか数十分。
土壌に蓄積された莫大な魔力とアミノ酸を吸収し、芽が出たかと思うと、肉眼でハッキリとわかる速度で『マッスル・マンドレイク』や『大胸筋キャベツ』が巨大に成長していく。
そして、たわわに実った黄金色の『超プロテイン小麦』が、風に揺れてサラサラと音を立てる。
「おおおおっ! 育ったぞォォッ!」
「たった半日で、冬を越えるだけの食糧が……ッ! これが、我々の力……ッ!」
鍬を握る農民たちが、そして魔導士たちが、歓喜の涙を流しながら互いの筋肉を讃え合うように抱き合っている。
他国に依存し、知識を切り売りして細々と生きるしかなかった弱小国家。
その歴史が、今、完全に終わったのだ。
「……完璧だな」
俺は完成したばかりの超巨大農場の中心で、刈り取ったばかりの黄金の小麦の束を手に取りながら、心地よい疲労感と共に呟く。
「これで我が国は、物流の首根っこを掴まれても絶対に『壊れない』完全な生態系を手に入れた」
俺は小麦の粒を一つ齧る。口の中に広がる、力強い大地とタンパク質の甘み。
「バルザック商業連合の商人どもは、今頃自分たちが下した決断を後悔して震えているだろうな。自分たちの封鎖が、ルミナス王国を飢えさせるどころか、完全に自己完結した『最強の要塞』へと進化させてしまったことに」
ハリーが俺の肩で「きゅいーんっ!」と、勝利の雄叫びを上げる。
経済封鎖という最大の危機は、俺たちの筋肉と魔法、そして『健康』への執念によって、いとも容易く粉砕された。
だが、このルミナスの国内で巻き起こっている「常識外れの熱狂」は、すでに俺のコントロールすらも超え、新たな段階へと突入しようとしていたのだった。




