シーン1:敵将の学習と、帝国軍の「八時間睡眠令」
首の後ろ、僧帽筋の上部から胸鎖乳突筋にかけての筋繊維が、ミシミシと心地よい悲鳴を上げている。
俺は自室の床に敷いた特製のヨガマットの上で、頭頂部と両足の裏の三点だけで全身の体重を支える『レスラー・ブリッジ(ネック・ブリッジ)』の姿勢を維持している。
首の筋肉は、重い頭部を支え、脳へと繋がる極めて重要な太い血管と神経の束を保護する最大の関所だ。ここを鍛え上げ、血流の通り道を極太に拡張することで、脳への酸素供給量はさらに一段階上の次元へと跳ね上がる。
「スッ……ハッ……。よし、頸椎のアーチの角度、完璧だ」
深く静かな呼吸と共に、俺は首の筋肉の僅かな収縮に全神経を集中させる。
「きゅんっ、きゅんっ」
俺の目の前、ちょうど視線の先にあるマットの端では、魔法ハリネズミのハリーが小さな円柱形のコルク(手作りの筋膜リリース用ローラー)の上に背中を乗せ、短い足を踏ん張ってコロコロと前後に転がっている。
針の隙間から凝り固まった背中の筋膜をほぐしているらしい。小動物ながら、自己のコンディション管理に対する意識の高さには目を見張るものがある。
俺は首で体重を支えたまま、視線を部屋の空中に固定する。
そこには、青白い光を放つ『水鏡』の術式が展開されている。
シオンの視覚と聴覚をリンクさせたその映像の向こう側には、我がルミナスの王城とは対極に位置する、むせ返るような重圧と虚栄に満ちた空間が広がっている。
ガルド帝国の首都、その中枢にある白亜の謁見の間。
床には血のように赤い絨毯が敷き詰められ、太い大理石の柱にはこれ見よがしに黄金の装飾が施されている。
だが、その豪奢な空間を満たしているのは、焦燥と怒り、そして極度の『不健康』の匂いだ。
「――大将軍レオンハルトよ。五十万もの大軍を率いながら、ただの一度も剣を交えることなく敗走しただと……? 帝国の誇りを、貴様は泥水と共にすすり上げたのか!」
玉座にふんぞり返る皇帝が、顔に青筋を立てて怒号を飛ばす。
その周囲を取り囲む恰幅の良い貴族や文官たちも、一様に顔を真っ赤にして口々に罵声を浴びせている。
「まったくです! ルミナスのような武力を持たぬ弱小国家に対し、なんたる無様な!」
「兵が疲弊していたなどと言い訳にもならん! 帝国の戦士ならば、不眠不休で三日三晩戦い抜くのが常識! 貴様の『気合』が足りんから、兵が甘えたのだ!」
「直ちに再軍備を行え! 今度こそ昼夜を問わぬ強行軍で渓谷を抜け、ルミナスの王都を火の海にするのだ!」
彼らの言葉は、典型的な『旧時代の常識』そのものだ。
睡眠を削ることを忠誠の証とし、無茶な行軍を精神力でカバーできると本気で信じ込んでいる。
彼らの顔色を見るがいい。脂肪で膨れ上がった首、浅い呼吸、そして怒りでドロドロになった血流。彼ら自身が、不健康という名の病に侵されていることにすら気づいていない。
だが。
その罵声の嵐の中心で、片膝をついて頭を垂れている大将軍レオンハルトの様子が、以前とは決定的に違っていることに、俺の眼は鋭く気づく。
「……ほう」
俺はレスラー・ブリッジの姿勢のまま、思わず感嘆の息を漏らす。
水鏡に映るレオンハルトの肉体は、あのアズライト渓谷での敗北から数日が経過し、見違えるように『回復』している。
肌の極度な乾燥は消え失せ、唇には血色が戻っている。
そして何より、彼が発する『呼吸の音』が違う。
周囲の貴族たちが肩で息をして喚き散らす中、レオンハルトだけが、深く、長く、規則正しい腹式呼吸を繰り返している。怒りや焦りに自律神経を乱されることなく、完全に己の心拍数をコントロールしているのだ。
「……陛下。一つ、訂正をさせていただきます」
静寂。
レオンハルトが低く、しかし謁見の間の空気をビリビリと震わせるほどの重い声で口を開く。
彼はゆっくりと顔を上げ、皇帝と貴族たちを真っ直ぐに見据える。その眼光には、かつての『狂気的な根性論』の影はなく、氷のように冷たく、透き通った理知の光が宿っている。
「私は、兵たちに甘えを許したわけではありません。……兵が『壊れた』のです」
「壊れただと? 命ある人間を物のように……」
「そうです! 人間は物と同じ! いや、剣や盾よりも遥かに繊細で、容易く壊れる精密な構造物なのです!」
レオンハルトの力強い声が、貴族たちの反論を叩き潰す。
「水を与えなければ筋肉は痙攣し、血液は泥と化す! 睡眠を与えなければ、脳は狂乱し、味方同士で殺し合いを始める! 私はあの渓谷で、それを嫌というほど思い知らされた! 精神力などという曖昧なもので、物理的な肉体の限界は絶対に超えられない!」
「き、貴様……ッ! 帝国の伝統である不屈の闘志を否定する気か!」
激昂した軍務大臣が、唾を飛ばしながらレオンハルトに指を突きつける。
「否定する! 間違った伝統など、今すぐゴミ箱に放り捨てるべきだ!」
レオンハルトが立ち上がる。
その巨体から放たれる圧倒的な存在感に、周囲の貴族たちがヒッと息を呑んで後退る。
「ルミナスの軍隊は、誰一人として息を切らしていなかった! 彼らは完璧に水を飲み、完璧に休息を取り、完璧な健康状態を維持していたからこそ、我々の五十万の軍勢を『ただの肉の塊』として赤子のようにあしらったのだ! 最強の国家の条件とは、兵の数でも魔法の威力でもない! 決して『壊れない』ことだ!」
レオンハルトは皇帝に向かって、力強く右の拳を胸に当てる。
「陛下。私は直ちに、ガルド帝国軍の全軍規を根底から書き換えます。これより我が軍は、作戦行動中であっても『一日の八時間睡眠』を絶対の義務とします」
「は、八時間だとォッ!? ふざけるな、戦争中にそんな悠長な……ッ!」
「悠長ではありません! これは『戦略』です! 睡眠を削った兵士は、戦場においてただの歩く死体だ! さらに、酒の配給を全面禁止し、兵站には塩漬け肉と豆の増量を要求します! 兵の筋肉を修復する栄養素がなければ、戦には絶対に勝てない!」
謁見の間が、パニックに似た騒然とした空気に包まれる。
皇帝すらも、大将軍のあまりの変節に言葉を失い、口をパクパクとさせている。
「……私の兵の睡眠を妨害する者は、たとえ貴族であろうと軍律会議にかけ、首を刎ねます。文句のある者は、今ここで私の剣の前に立ちなさい」
レオンハルトが腰の剣の柄に手をかけると、貴族たちは一斉に顔を青ざめさせ、蜘蛛の子を散らすように玉座から距離を取る。
圧倒的な暴力の裏付けを持つ男が、論理的な『健康管理』に目覚めた瞬間だ。
「……スッ、ハッ」
俺は静かに息を吐き、首の力を抜いてレスラー・ブリッジの姿勢を解除する。
床に仰向けに転がり、汗ばんだ前髪を掻き上げながら、水鏡の向こうの光景を鋭い目で見つめる。
『……殿下。ご覧になりましたか』
水鏡越しに、謁見の間の隅の柱の影に潜伏しているシオンの念話が、微かに緊張を含んだ響きで届く。
「ああ。最悪のシナリオだ」
俺は起き上がり、傍らのタオルで汗を拭う。
先ほどまでの、筋トレによる心地よい高揚感が、スーッと冷え込んでいくのを感じる。
「ただの筋肉バカや、根性論の狂信者なら、何度攻めてきても同じように自滅してくれる。だが……『休むことの強さ』を学習した敵将は、厄介だ。極めて厄介だぞ、シオン」
『同感です。レオンハルト大将軍は本気です。先ほど、軍の酒蔵を全て封鎖し、兵士たちの居住区に強制的な消灯時間を設けるよう手配したという情報も入っています。……帝国軍は今、不健康な烏合の衆から、健康管理を覚えた精鋭へと急速に進化し始めています』
俺は深くため息を吐き、水筒のプロテインドリンクを一口煽る。
「五十万の兵力が、完璧な睡眠と栄養管理のもとで運用される……。冗談じゃない。そんなものが国境を越えてきたら、今度こそ情報戦や兵站破壊だけじゃ止められないぞ」
『いかがなさいますか、殿下』
「……俺たちの『健康の暴力』のレベルも、さらに引き上げるしかない」
俺は水鏡の術式を解除し、立ち上がる。
ハリーが「きゅっ!」と鳴いて、コロコロと転がりながら俺の足元へとすり寄ってくる。俺はその小さな体を抱き上げ、窓の外――平和な活気に満ちたルミナスの王都の景色を見下ろす。
「これまでは、相手の自滅を待つ『防衛戦』でよかった。だが、敵が健康という名の盾を手に入れた以上、こちらにもさらなる圧倒的な『基礎体力』が必要になる」
レオンハルト・ガルディア。
彼は、ただ一度の敗北から、ルミナス王国の強さの本質を完全に理解した。
努力の方向を間違えない敵ほど、恐ろしいものはない。
「本物の戦争は、ここからが本番というわけか。……上等だ。世界一健康な国家の座は、誰にも譲るつもりはない」
俺の胸の奥で、純粋な健康オタクとしての闘争心と、この国を絶対に守り抜くという冷徹な王族の意志が、高いレベルで融合し、静かに熱を持ち始めていた。




