シーン4:五十万の降伏と、プロテイン乾杯
ズズズッ……ゴクン。
ズズズズズッ……ゴクン、プハァッ。
太陽が西の岩山に傾き、アズライト渓谷に長く涼しい影が落ち始める頃。
見渡す限りの荒野を埋め尽くしているのは、武器ではなく木製の器を抱え、ひたすらにスープを啜り続ける男たちの姿だ。
ガルド帝国、セルディア魔導連邦、バルザック商業連合からなる、総勢五十万の侵略同盟軍。
世界を恐怖のどん底に陥れるはずだったその巨大な軍事力は今、ルミナス王国が誇る超高タンパクスープの前に完全に屈服し、ただの巨大な『食事会の参加者』へと成り下がっている。
「ゆっくり噛んで食べろよ! マッスル・マンドレイクは食物繊維が豊富だからな! 胃腸を驚かせないよう、唾液をしっかり分泌させるんだ!」
俺は荷車の上に立ち、風魔法で声を拡声しながら、谷底を埋め尽くす捕虜(お客様)たちに向けて呼びかける。
「食後に急激な眠気が襲ってくるのは、血糖値が急上昇している証拠だ! だからといって、すぐに地面に寝転がるな! 胃酸が逆流して食道を痛めるぞ! 上半身を最低でも三十度は起こした状態で、静かに消化を待て!」
俺の厳格な健康指導に対し、スープを飲み終えた帝国兵たちが、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら「はいぃぃッ!」「ごちそうさまでしたぁぁッ!」と敬礼を返してくる。
彼らの目は、もはやルミナス王国に対する敵意など微塵も残っていない。
飢餓という極限の恐怖から救い出してくれた俺たちを、まるで神の使いか何かのように崇拝する光を宿している。
「きゅぅぅ……、むにゃ……」
俺の肩の上では、お腹をパンパンに膨らませたハリーが、幸せそうな寝息を立てて丸くなっている。
彼もまた、俺の特製スープを小皿一杯分飲み干し、急激な血糖値の上昇によって完全な『食後睡眠』に陥っている。小動物の消化器官に負担をかけないよう、俺は肩の筋肉を極力揺らさないように静かに立ち続ける。
「……アルス殿下」
ふいに、荷車の下から、ひどく掠れ、しかし確かな意志を持った声がかけられる。
視線を落とすと、そこにはガルド帝国軍の副将が立っていた。
かつては傲慢に顎を反らしていたであろう彼の顔は、泥と涙で汚れ切り、その両手には自らの佩剣が水平に捧げ持たれている。
彼の後ろには、セルディア魔導連邦の残存魔導士たちや、バルザック商業連合の輜重隊の長たちも、力なく膝をついて項垂れている。
「五十万の同盟軍を代表し……我々の、完全なる敗北を認めます」
副将は、震える声で絞り出すように告げる。
「我々は驕っていました。貴国を、武力を持たないひ弱な知識の国だと侮り……その結果が、この惨状です。剣を交えることすらできず、自らの傲慢さと無知によって自滅し……あろうことか、敵である貴国に命を救われた」
副将は深く頭を垂れ、捧げ持った剣を俺の足元へと差し出す。
「もはや、どのような言い訳も通用しません。我々は貴国の捕虜です。煮るなり焼くなり……奴隷として一生こき使うなり、好きになさってください」
その言葉に、周囲の将校たちも静かに目を閉じる。
敗戦国の将兵がどのような扱いを受けるか、彼らは自分たちの常識に照らし合わせて覚悟を決めているのだろう。強制労働、拷問、見せしめの処刑。
だが、俺は彼らの差し出した剣を受け取らない。
「煮るなり焼くなり、だと?」
俺は呆れたようにため息を吐き、荷車から軽やかに飛び降りる。
そして、覚悟を決めて目を閉じている副将の前に立ち、その肩をポンと叩く。
「勘違いするな。お前たちのような不健康で筋肉量の足りない人間を奴隷にしたところで、我が国の生産性は全く上がらない。むしろ、医療費や食費で国家予算が圧迫されるだけだ」
「え……?」
副将が、予想外の言葉にポカンと口を開ける。
「俺たちが欲しいのは、お前たちの命でも、領土でもない。……ただ、これ以上、間違った『不健康な努力』を世界に撒き散らすのをやめてほしいだけだ」
俺はローブのポケットから、特製の『超高純度アミノ酸配合・魔力プロテインドリンク』が入った金属製のフラスコを取り出す。
そして、その蓋を開け、副将の手に握らせる。
「……こ、これは?」
「我がルミナス王国からの、和解の杯だ。アルコールではないから安心して飲め。疲労回復と筋肉の修復に特化した、至高のタンパク質だ」
俺自身も、別のプロテインボトルを取り出し、高く掲げる。
「いいか、お前たち! 戦争などという非効率で不健康な行動は、今日、このアズライト渓谷で完全に終わりだ!」
俺の声が、夕闇に包まれつつある渓谷に響き渡る。
五十万の兵士たちが、静かに俺の言葉に耳を傾けている。
「徹夜で行軍し、まともな食事もとらず、根性論で自分を痛めつける。そんなものを『強さ』と呼ぶ旧時代の常識は、俺たちが完全に破壊した! これからの時代を生き抜くために必要なのは、ただ一つ!」
俺はボトルを夕日に向かって突き出す。
「八時間の睡眠と! 適切な栄養と! 適度な運動だ! 分かったなら、今すぐそのボロボロの肉体を休め、修復に専念しろ!」
「……っ!」
副将の目から、再び大粒の涙が溢れ出す。
彼はフラスコを両手で握りしめ、震える声で叫んだ。
「ル、ルミナス王国……万歳ッ! アルス殿下の、寛大なる御心に……感謝をォォッ!」
「「「ルミナス王国、万歳ェェェェッ!!」」」
五十万の兵士たちの、地鳴りのような歓声がアズライト渓谷を揺るがす。
それは、敗者の悲痛な叫びではない。
地獄のような不健康な支配から解放され、真の『生きる喜び』を取り戻した、生命の歓喜の声だ。
「よし。では、我が国が誇る『世界最強のピクニック』の無事の完了と、諸君らの新しい健康的な人生の始まりを祝して……」
俺は満面の笑みを浮かべ、高らかに宣言する。
「乾杯ッ!」
「「「乾杯ッ!!」」」
夕日に染まる渓谷の底で、五十万の男たちが一斉に架空の杯を掲げ、あるいはスープの残りを飲み干す。
俺もボトルのプロテインを喉に流し込む。
冷たいバニラ風味の液体が、食道を通り、胃袋へと落ちていく心地よい感覚。
これが、勝利の味だ。
血も涙もない情報戦と兵站破壊の果てに辿り着いた、最も優しく、最も合理的な蹂躙劇の結末。
「……全く。戦争に勝って、敵兵全員に健康指導をして回る王子なんて、歴史上どこを探しても殿下くらいですよ」
俺の隣で、リーシャが呆れたような、しかしどこか誇らしげな笑顔を浮かべて立っている。
彼女の手にも、ちゃっかりとプロテインドリンクが握られている。
「歴史なんてどうでもいいさ。俺はただ、自分が治める国や、関わる人間たちに、健康で長生きしてほしいだけだ」
俺は肩で眠るハリーを起こさないように、そっと首を回して筋肉の緊張をほぐす。
「さて、リーシャ。食後三十分が経過したら、彼らに『疲労回復のためのスタティック・ストレッチ(静的柔軟)』の指導を始める。五十万人に一斉にやらせるからな、魔法で手本を空中に投影する準備を頼む」
「はいはい。捕虜になってまで筋トレとストレッチを強制される帝国兵たちも、ある意味で不憫ですね」
リーシャがクスクスと笑いながら、魔力投影の術式を編み始める。
夕闇が完全に渓谷を包み込む頃。
そこには、ルミナス王国の文官や騎士たちに見守られながら、五十万の帝国兵たちが一斉に『アキレス腱伸ばし』や『股関節のストレッチ』を真剣な顔で行うという、世界で最も平和で、世界で最も異様な光景が広がっていた。
俺は満天の星空を見上げながら、深く、長い深呼吸を一つする。
肺の奥まで新鮮な空気が満たされ、生きているという実感が全身の細胞に染み渡っていく。
アズライト渓谷での一方的蹂躙は、こうしてルミナス王国の完全勝利という形で幕を閉じた。
だが、この圧倒的な『無血勝利』という事実が、遠く離れた世界各国の指導者たちにどのような形で伝わり、どのような『誤解』と『恐怖』を生み出すことになるのか。
そして、その恐怖が、五十万どころではない、世界中を巻き込んだ真の『大連合軍』を生み出す引き金になるということを、この時の俺はまだ、完全に予測しきれてはいなかった。
ただ今は、この心地よい筋肉の疲労感と、満ち足りた健康状態だけを味わっていたい。
俺は夜空に向かって、静かに両手を伸ばし、今日最後の深呼吸を行った。




