シーン1:渓谷のドン・キホーテたちと、巨大野菜の進軍
ジリジリと、肌を焼くような強烈な日差しが岩肌に照りつけている。
アズライト渓谷。
見渡す限りの荒涼とした赤茶けた岩山が連なるこの谷底に、ガルド帝国、セルディア魔導連邦、バルザック商業連合からなる同盟軍の主力、およそ四十万の兵士たちが足止めを食らっていた。
風は完全に凪いでおり、谷底に溜まった空気はオーブンのように熱い。
兵士たちの体から発せられる強烈な汗と泥の匂い、そして恐怖からくるアンモニア臭が、澱んだ空気の中で混ざり合い、息を吸うだけで肺が焼け焦げそうになる。
「ぜ、前衛の第三軍団が……大将軍閣下の部隊が、壊滅しただとォッ!?」
本陣として急造された天幕の中で、後方の指揮を任されていた帝国の副将が、伝令の首ぐらを掴んで絶叫した。
その声は裏返り、極度の脱水症状により口の端からは白い泡が飛んでいる。
「は、はい……ッ! 森の入り口で、ルミナスの部隊と接触し……わずか一時間で、ただの一人も帰還せず……ッ!」
「馬鹿なッ! たった一時間で一万の重装歩兵が全滅するなどあり得ん! 魔法だ! 奴ら、森全体を使った大規模な罠魔法を起動させやがったんだ!」
副将は血走った目で周囲を睨みつける。
天幕の中にいる将校たちも、皆一様に顔色を青ざめさせ、ガタガタと震えている。
彼らの腰に下げられた水筒は、昨日の夜の時点で完全に空になっていた。バルザック商業連合からの補給が途絶えた今、この四十万の軍勢は、一滴の水も持たずにこの炎天下の渓谷に取り残されているのだ。
「セ、セルディア魔導連邦の部隊はどうした! 奴らに『水生成』の魔法を使わせろ! このままでは、ルミナスと戦う前に全軍が干からびて死ぬぞ!」
「それが……」
伝令の兵士が、泣きそうな顔で天幕の外を指差す。
副将がフラフラとした足取りで外へ出ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「あ、がァ……ッ」
「頭が……頭が割れるゥゥッ……!」
セルディア魔導連邦が誇る、エリート魔導士部隊。
彼らは岩陰にうずくまり、自らの杖を抱きしめながら、のたうち回って苦しんでいた。
水を生み出す魔法は、基礎的な初級魔法だ。だが、今の彼らにはその初級魔法すら発動することができない。
「どういうことだ! なぜ魔法が使えん!」
副将が怒鳴りつけると、部隊長らしき初老の魔導士が、虚ろな目を向けて掠れた声で答えた。
「血が……巡らないのです……ッ。連日の強行軍と、この暑さによる脱水で……心臓が、脳に血液を送り込めない。演算しようとすると、毛細血管が悲鳴を上げて……気絶しそうになる……ッ」
魔法は神秘ではない。脳という臓器が行う物理的な演算だ。
日頃から運動を避け、書物と向き合うことだけを美徳としてきたセルディアの魔導士たちは、この過酷な環境下において、最も早く肉体の限界を迎えていた。
彼らの細い血管は、ドロドロになった血液を押し流すだけのポンプ機能(筋肉)を持っていないのだ。
「使えねェ連中だッ! 魔法大国が聞いて呆れるわ!」
副将が苛立ちに任せて岩を蹴り飛ばすが、その拍子に自身の足がつり、無様に地面に転がった。
もう、軍としての統率などどこにもない。
四十万の兵士たちは、ただ静かに、岩の陰で自分たちの命のカウントダウンが進むのを待っているだけの、巨大な死体泥棒の群れと化していた。
* * *
ズッ、ズッ、ズッ、ズッ。
その時。
静まり返った絶望の渓谷に、不規則だが、ひどく力強い地響きが聞こえてきた。
それは、東の方角――ルミナス王国の国境側から近づいてくる。
「……敵襲かッ!?」
「ルミナス軍が、森から出てきたのか!?」
副将が慌てて立ち上がり、岩陰から東の方角を凝視する。
蜃気楼で歪む渓谷の道の向こうから、巨大な影の塊が土煙を上げてゆっくりと進んでくるのが見えた。
だが、それは完全武装した騎士の集団でも、魔法の陣形を組んだ魔導士の部隊でもなかった。
「……なんだ、ありゃあ……?」
副将だけでなく、周囲の帝国兵たちも、目を疑った。
「そーれ、大腿四頭筋に意識を集中させて! 重量は踵に乗せる! いいですねー、皆さん、最高のパンプアップですよー!」
巨大な二輪の荷車の上に乗った小柄な少女――農業改革局局長ミレイナが、麦わら帽子を被り、特製のスポーツドリンクを片手に持ちながらメガホンで陽気な声を張り上げている。
そして、その彼女が乗る、家屋ほどもある巨大な荷車を『人力』で引っ張っているのは、麻布の服を着たルミナスの農民たちだった。
先頭を歩くのは、農民代表のゴンザレスだ。
彼は、丸太のような腕に極太の麻縄を巻き付け、背中を丸めながら、数十トンはあるであろう巨大な荷車をズシン、ズシンと力強く牽引している。
「ハッハッハ! 局長、このアズライト渓谷ってのは、坂道が多くて最高のトレーニングコースですな! 大胸筋キャベツの重みが、広背筋にビンビン効いてきますぜ!」
「ええ! ゴンザレスさんの背中の筋肉、完全に鬼の顔が浮かび上がってます! その調子で、お客様のところまで一気に納品しちゃいましょう!」
ミレイナが乗る荷車には、赤々と輝く巨大な『マッスル・マンドレイク』や、鋼鉄のような硬さを持つ『大胸筋キャベツ』が山のように積まれている。
その後ろからも、同じように筋骨隆々の農民たちが、巨大な野菜や、大量の薪、そして特大の鉄鍋を積んだ荷車を次々と引いて続く。
「の、農民……? 野菜を積んだ荷車だと……?」
帝国軍の副将は、ポカンと口を開けたまま硬直した。
彼らの常識では、農民とは戦争において真っ先に逃げ惑うか、あるいは物資を略奪されるだけの無力な存在だ。
それが今、戦場のど真ん中に、自ら進んで巨大な野菜を運んできたのだ。しかも、馬も使わずに。
「……幻覚だ。暑さで、俺の脳がイカれちまったんだ」
副将が頭を振るが、地響きは確実に近づいてくる。
ゴンザレスの異常に隆起した上腕二頭筋の血管や、彼が息を吐くたびに汗が太陽の光を反射してキラキラと輝く光景は、どう見ても現実の質量を伴っていた。
そして、その異様な『野菜の進軍』の最後尾。
農民たちの列から少し離れた後方で、俺――アルス・フォン・ルミナスは、一人黙々と歩を進めていた。
「スッ……ハッ……。よし、右足の踏み込み、大臀筋の収縮ヨシ。左足への体重移動ヨシ」
俺は両手にそれぞれ十五キロの鉄アレイを持ち、右足を大きく前に踏み出し、深く腰を落とす。膝が地面スレスレになるまで沈み込んだ後、後ろ足で地面を蹴って立ち上がり、そのまま左足を前へ。
歩きながら行う究極の下半身トレーニング、『ウォーキング・ランジ』だ。
「きゅんっ、きゅんっ」
俺の頭の上では、ハリーが俺の上下運動に合わせて「よいしょ、よいしょ」と短い前足を突き上げている。彼もまた、俺の頭皮の上で完璧なバランスを取りながら、体幹のトレーニングを怠っていない。
「殿下ー! もうすぐ目標地点ですー! 帝国軍の皆さん、案の定、岩陰で干からびてますよー!」
前方の荷車から、ミレイナが大きく手を振って報告してくる。
「了解した。ペースを維持しろ。心拍数を急に落とすと、疲労物質が抜けにくくなるからな」
俺はウォーキング・ランジの深いストロークを崩さないまま、前方の帝国兵たちの陣地へと視線を送る。
予想通り、五十万という数字の暴力は、アズライト渓谷という過酷な自然環境と、彼ら自身の『不健康』によって、完全に機能不全に陥っている。
「……あれが、五十万の軍隊の末路か。悲惨だな」
俺は額の汗をタオルで拭いながら、静かに息を吐く。
武器は地面に放り出され、兵士たちは互いの肩にもたれかかりながら、虚ろな目でこちらを見つめている。
彼らにはもう、戦う意志も、逃げる体力も残されていない。
あるのはただ、強烈な『飢え』と『渇き』だけだ。
「さて、ミレイナ。予定通り、作戦フェーズ3に移行する。彼らの固く閉ざされた『旧時代の常識』を、最高に美味しくて健康的な暴力で、内側からこじ開けてやろう」
俺の指示を受け、ミレイナは荷車の上でニヤリと笑い、メガホンを口に当てた。
「はーい、農業改革局の皆さん! 納品先に到着しました! 荷車を下ろして、ただちに『アレ』の設営を開始してください! 腹を空かせたお客様に、ルミナス王国が誇る最高のタンパク質を振る舞いますよー!」
「「「おうッ!!」」」
ゴンザレスたち筋肉農民が、地響きを立てて荷車を下ろす。
四十万の飢えた狼たちの群れの中へ、自ら食糧を運び込むという常軌を逸した行動。
だが、ルミナスの農民たちの目に恐怖はない。あるのは、自分が育てた野菜の栄養価に対する絶対的な自信と、それを効率よく運搬したことによる筋肉への確かな手応えだけだ。
「な、舐めるなァァァッ!! 貴様ら、我々を愚弄する気かァッ!!」
ついに、プライドをズタズタにされたセルディア魔導連邦の残存エリートたちが、血を吐きながら杖を構えて立ち上がった。
彼らは、農民という『下民』に情けをかけられることを、死よりも重い屈辱と感じたのだ。
「ルミナスの野蛮な土塊どもめ! 貴様らのそのふざけた野菜ごと、灰燼に帰してやるッ!!」
魔導士たちの杖の先に、最後の力を振り絞った魔力が集束し、赤黒い炎の渦が生まれようとしていた。
筋肉と魔法の、物理法則を度外視した激突が、今まさに始まろうとしている。
俺はウォーキング・ランジの姿勢のまま、ハリーにプロテインバーの欠片を渡し、特等席でその喜劇を鑑賞することにした。




