シーン3:『呼吸の乱れ』と、第一騎士団の考える暴力
「スッ、スッ、ハッ、ハッ! スッ、スッ、ハッ、ハッ!」
大深緑の森の湿った空気を震わせ、地鳴りのような『呼吸音』が響き渡る。
それは乱雑な息切れではない。数百人の屈強な男たちが、吸気と呼気のタイミングをコンマ一秒の狂いもなく完全に同期させた、完璧な有酸素リズムの合唱だ。
第一騎士団長ガイアスを先頭とする、ルミナス王国の重装歩兵部隊。
彼らは三十キロを超える全身鎧を身に纏いながら、信じられないほど軽やかなステップで、怯える帝国兵たちの前へと展開していく。
「見ろ、ハリー。あれが『呼吸』を支配した軍隊の姿だ」
俺は木陰から歩みを進めながら、肩に乗ったハリーの柔らかい背中を指先でトントンと叩く。
ハリーもまた、騎士団の動きに合わせて「きゅっ、きゅっ、ふーっ、ふーっ」と小さな鼻を鳴らし、懸命に呼吸のリズムを真似している。
「人間が極限の緊張や疲労に直面した時、真っ先に乱れるのは呼吸だ。呼吸が浅くなれば、肺胞でのガス交換効率が著しく低下し、血中の酸素濃度が急激に下がる。その結果、何が起きるか」
俺は視線を、恐怖で後退りするガルド帝国兵たちへと向ける。
彼らの呼吸は「ハァッ、ハァッ、ヒューッ」と、まるで陸に打ち上げられた魚のように浅く、そして異常に早い。肩を大きく上下させ、必死に空気を肺の奥へ送り込もうとしているが、過呼吸状態に陥っているため、酸素は全く脳へと届いていない。
「……彼らの視界は今、極端に狭まっている」
酸欠状態に陥った脳は、生命維持に直結しない機能を真っ先に切り捨てる。
その筆頭が『周辺視覚』だ。
今の帝国兵たちには、自分の真正面にいる敵しか見えていない。左右の景色は暗くぼやけ、まるで細い筒の中から世界を覗き込んでいるような、極度の『トンネル・ビジョン』に陥っているのだ。
「全軍、陣形展開! 『歩兵戦術マニュアル第四章・対密集陣形における斜線機動』を移行プロセスBで実行せよ!」
最前線に立つガイアスが、野太い声で戦術用語を叫ぶ。
「「「応ッ! スッ、スッ、ハッ、ハッ!」」」
騎士たちが完璧な呼吸を維持したまま、瞬時に動く。
彼らは正面から帝国兵の波にぶつかるような、脳筋の真似は絶対にしない。
帝国兵が構えた槍や剣の正面――トンネル・ビジョンの中心から、コンパスで円を描くように滑らかに『斜め前方の死角』へとステップを踏む。
「な、消え……ッ!?」
「どこだ!? 前にいたはずの敵がッ!」
帝国兵たちがパニックに陥り、慌てて首を振る。
だが、彼らが視線を動かした時には、すでにルミナスの騎士たちは彼らの真横、あるいは斜め後ろの完全な『死角』に位置取っている。
「右舷死角、確保! 敵の重心は現在、前のめりに六十パーセント傾いています!」
「了解! 対象の膝裏の関節へ、牽制の打撃を放ちます! スッ、ハッ!」
一人の若いルミナス騎士が、息を吐きながら盾の縁で帝国兵の膝裏を軽く叩く。
ただそれだけで、疲労困憊の帝国兵はカクンと体勢を崩し、自らの鎧の重さに耐えきれずに無様に転倒する。
「ギャアァァッ!」
「落ち着け! 立ち上がって陣形を組み直せェッ!」
帝国軍の将校が叫ぶが、一度崩れた陣形は二度と元には戻らない。
ルミナスの騎士たちは剣を抜くことすらしない。ただ、完璧なフォーメーションで敵の死角を突き、足元をすくい、体重移動を利用して次々と敵を転ばせていく。
「陣形B、完了! 敵の密集度が限界を超えました! 互いの武器が干渉し合い、身動きが取れない状態です!」
「素晴らしい計算だ! 論文にまとめた通りの流体力学的な誘導だな! よし、そのまま包囲を絞れ!」
ガイアスが豪快に笑いながら指示を飛ばす。
帝国兵たちは、ルミナス騎士団の滑らかな動きに翻弄され、森の開けた場所の中央へと密集させられてしまっている。
互いの肩や鎧がぶつかり合い、長い槍を振り回すスペースすら残されていない。
完全に『詰み』の状態だ。
「くそォォォッ! 俺はガルドの戦士だ! こんな所で、こんな訳の分からない連中にィィッ!」
密集陣の端で、一人の屈強な帝国兵が発狂したように叫び、無理やり身をよじってガイアスへと斬りかかる。
その一撃は、死に物狂いの力を秘めていた。
「来るぞ団長! 敵の剣筋、右上段からの袈裟斬り! 軌道にブレあり!」
「フンッ。呼吸が乱れている者の剣など、止まって見えるわ!」
ガイアスは一切動じない。
彼は深く息を吸い込み、強靭な横隔膜を押し下げる。そして、帝国兵の剣が自身の脳天に到達する寸前で、わずかに首を傾けてそれを躱す。
空を切った刃が、ガイアスの鎧の肩当てを掠めて火花を散らす。
「腕力に頼りすぎだ! だから剣が振られた後に隙ができる!」
ガイアスの右の鉄拳が、コンパクトな軌道で帝国兵の腹部に深々と突き刺さる。
ゴフゥッ! という鈍い音と共に、帝国兵の背中側の鎧が外側へとボコッと隆起するほどの衝撃が突き抜ける。
「戦場で力むな! 常に筋肉をリラックスさせ、脳に酸素を回せ! そうすれば、敵の次の動きが論理的に予測できる!」
ガイアスは腹を押さえてうずくまる帝国兵の肩をポンと叩き、そのまま彼を後方へと放り投げる。
「どうだお前たち! 脳に酸素を送り込みながらの白兵戦は!」
「「「最高であります、団長!! 視界が恐ろしくクリアです!」」」
「アドレナリンの分泌も適切にコントロールできています! これならあと三日はぶっ続けで戦闘が可能です!」
騎士たちが歓喜の声を上げながら、次々と帝国兵の群れを解体していく。
そこにあるのは、血みどろの殺し合いではない。
まるで熟練の職人が木材を切り分けるような、あるいはチェスの名手が盤面を支配するような、冷徹で、合理的で、圧倒的な暴力の展覧会だ。
「……きゅぅぅ……」
俺の肩で、ハリーが目を丸くしてその光景を見つめている。
彼のような小動物の本能からしても、今のルミナス第一騎士団が放つ『論理的な捕食者』の気配は、異質で恐ろしいものに映るのだろう。
「すごいだろう、ハリー。あれが『筋肉』と『知識』が完全に噛み合った時の、人間の到達点だ」
俺は静かに語りかける。
「かつての彼らは、ただ大声を出し、力任せに武器を振り回すだけの肉の壁だった。だが、走りながら戦術論文を書かせ、脳と筋肉の神経回路を繋ぎ合わせた結果……彼らは『状況を俯瞰する目』と『それを実行する肉体』を同時に手に入れたんだ。もはや、彼らを止めることは誰にもできない」
俺の言葉を証明するかのように、戦場(という名の処理場)の趨勢は完全に決定づけられていく。
「水……水をくれ……」
「助けて……息が……」
森の腐葉土の上には、数千の帝国兵たちが武器を手放し、重なり合うようにして倒れ伏している。
ルミナスの騎士たちは彼らの命を奪うことはしない。急所を避け、的確に関節や神経叢を打撃して無力化しているだけだ。
そもそも、極度の脱水と酸欠に陥っている彼らには、もはや立ち上がる気力すら残されていない。
「全軍、戦闘終了に移行! 敵の武装を解除し、拘束しろ! 同時に、深呼吸を忘れるな! スッ、スッ、ハッ、ハッ!」
ガイアスの号令と共に、騎士たちの動きが緩やかなものへと変わる。
戦闘という極度の緊張状態から、スムーズに副交感神経を優位な状態へと切り替えていく。
彼らの額には輝くような汗が流れているが、呼吸はすでに正常なリズムを取り戻している。
わずか一時間。
五十万の軍勢の先陣を切り、最も士気が高かったはずのガルド帝国第三軍団、およそ一万の重装歩兵部隊は、ルミナス王国の文官と騎士の手によって、文字通り『一人の死傷者(ルミナス側)も出さずに』完全に壊滅させられた。
「……お見事です、第一騎士団。戦術理論の具現化として、これ以上ない完璧なデータが取れました」
リーシャが、空中に浮かべていた記録用の魔力水晶を回収しながら、感嘆のため息を漏らす。
「彼らの魔力循環も、戦闘中常に高い数値を維持していました。呼吸による酸素供給がいかに重要か、改めて証明されましたね」
「ああ。だが、これで終わったわけじゃない」
俺は森の奥、アズライト渓谷の方角から漂ってくる、尋常ではない『気配』に視線を向ける。
倒れ伏す第三軍団の兵士たちの向こう側、木々の影が濃く落ちる暗がりから、ズシン、ズシンと、大地を揺らすような重い足音が近づいてくる。
その足音の主が放つプレッシャーは、先ほどの数千の兵士たちの比ではない。
むせ返るような濃密な血の匂いと、大気を焦がすような凄まじい闘気。
「……殿下。あれは」
ガイアスが剣の柄に手をかけ、表情を引き締める。
「ああ。来たな」
木陰からゆっくりと姿を現したのは、全身を血と泥にまみれさせ、目をギラギラと輝かせた一人の巨漢だった。
ガルド帝国大将軍、レオンハルト・ガルディア。
彼もまた、極限の脱水と疲労の真っ只中にあるはずだ。
だが、彼を突き動かしているのは、もはや肉体の機能ではない。純粋な『狂気』と『執念』。それだけで、崩壊寸前の肉体を強引に稼働させているのだ。
「……なぜだ」
レオンハルトの唇から、血の混じった掠れた声が漏れる。
彼は、自分たちを迎え撃ったルミナス王国の兵士たち――文官や騎士たち――の姿を見て、信じられないものを見たかのように目を剥いている。
「なぜ、貴様らは……誰も息を切らしていない。なぜ、誰一人として疲労の顔を見せない……ッ! この炎天下の森で、武装して戦ったというのに……ッ!」
レオンハルトの魂からの叫びが、大深緑の森に木霊する。
彼の背負ってきた『努力』や『根性』という価値観が、目の前の理不尽なまでの『健康』を前にして、音を立てて崩れ去ろうとしているのだ。
俺はハリーを肩に乗せたまま、ゆっくりとレオンハルトの正面へと歩み出る。
そして、極めて涼しい顔で、残酷な事実を口にした。
「簡単なことだよ、大将軍」
俺は自分の水筒をポンと叩く。
「こまめな水分補給と、正しい呼吸法。……ただ、それだけだ。お前たちの不健康な努力は、我が国のラジオ体操以下の価値しかないんだよ」
知性と筋肉、そして絶対的な『健康状態』の差。
ルミナス王国の真の恐ろしさを前に、大将軍レオンハルトとの、価値観を懸けた頂上決戦の火蓋が、今ここに切られようとしていた。




