シーン2:重装文官の強襲と、暗算しながらの白兵戦
「水だァァァッ! 殺して奪えェェェェッ!」
喉から血を吹き出しながら、ガルド帝国軍の先陣が押し寄せてくる。
彼らの目には、もはや国境を突破するという軍事的目標など微塵もない。ただ、俺たちが背後に隠し持っているであろう『水分』という物理的な救済しか見えていないのだ。
振り上げられた無数の剣や槍が、木漏れ日を反射して鈍く光る。
だが、俺はその光景を極めて冷静に、まるで遅延魔法のかかった映像でも見るかのように観察している。
遅い。あまりにも遅すぎる。
極度の脱水症状により、彼らの脳から筋肉への神経伝達速度は致命的に低下している。筋肉の中に溜まりきった乳酸が筋繊維の収縮を阻害し、彼らの動きは泥の中で藻掻いているように重く、そして大振りだ。
「……殿下。我々、王国財務局の文官チームが先陣を切ってもよろしいでしょうか。先ほどの朝食のタンパク質を筋肉へ合成させるために、ちょうど適度な有酸素運動を欲していたところなのです」
俺の背後から、分厚い鉄の装甲が擦れ合う重低音と共に、一人の男が進み出る。
財務局長、マクシミリアンだ。
彼は、魔力繊維で編まれた通気性抜群のインナーの上に、総重量三十キロを超える特注のミスリル製重装鎧を身に纏っている。その左手には分厚い『来年度国家予算案』の羊皮紙の束を抱え、右手には計算用の魔力弾き(そろばん)を握りしめている。
どう見ても、これから戦争をする人間の装備ではない。
だが、その足取りは恐ろしいほどに軽く、まるで羽毛のように無音で腐葉土の上を滑っている。
「許可する、マクシミリアン。だが、心拍数は百二十から百四十のファットバーン(脂肪燃焼)ゾーンを維持しろ。無酸素運動になるほどの過度な力みは、午後の執務の演算効率を下げるからな」
「はっ! 完璧な呼吸法で、脂肪と敵の士気のみを燃やし尽くしてみせます! 財務局、前へッ!」
マクシミリアンの号令と共に、木陰で待機していた数百名の文官たちが、一斉に地面を蹴る。
ズドォォォォォンッ!
三十キロの装甲を着込んだ数百人が、完璧に同期した歩法で一斉にスプリントを開始する。その凄まじい踏み込みの圧力で、大深緑の森の地面がトランポリンのように大きく跳ね上がる。
「な、なんだアイツらは……ッ!? 鎧を着て、あの速度で走ってくるだと!?」
「ひ、ひぃぃッ! 早すぎる! 止まれェッ!」
先頭を走っていた帝国兵たちが、眼前に迫る『超高速で移動する鉄の壁』に気づき、悲鳴を上げて足を止めようとする。
だが、後ろから押し寄せる味方の波に押され、彼らは逃げることもできず、そのままルミナスの文官たちと真っ向から激突する。
いや、激突ではない。
一方的な『処理』だ。
「スッ、ハッ! 第一項、関税引き上げによる見込み利益は!」
マクシミリアンは深く息を吐きながら、突進してくる帝国兵の顔面スレスレを、最小限の首の動き(スリップ)だけで躱す。
そして、すれ違いざまに、敵の鎧の隙間――脇下の関節部分に、右手で持っていた魔力弾きの角を的確に打ち込む。
「ガァッ!?」
「前年比で百二十パーセント増です、局長! スッ、ハッ!」
背後から続く部下の文官が、暗算で即答しながら、倒れ込んだ帝国兵の腕を掴み、完璧な体重移動で背負い投げを放つ。
投げ飛ばされた帝国兵が宙を舞い、後続の敵兵たちを巻き込んでボウリングのピンのように次々と薙ぎ倒していく。
「馬鹿な……ッ! 魔法も使わずに、重装歩兵を片手で投げただと……!?」
「奴ら、本当に人間か!? 剣を振るう速度が、見えねェ……ッ!」
帝国軍の中に、パニックが伝染していく。
彼らの常識では、重い鎧を着た人間は動きが鈍くなるはずだ。ましてや、相手はただの文官である。
だが、彼らは知らない。
ルミナスの文官たちが、日常的に『走りながら戦術会議』を行い、常に数十キロの負荷をかけながら生活しているということを。
装甲の重さなど、彼らにとっては『普段の筋トレの追加ウェイト』にすら満たないのだ。
「ふざけるなァッ! 俺は第三軍団の百人隊長だぞォッ!」
巨漢の帝国将校が、両手剣を頭上高く振りかぶり、マクシミリアンに向かって渾身の一撃を振り下ろす。
「大振りすぎる。広背筋の使い方が全くなっていないな。それに、刃筋が三度ズレている」
マクシミリアンは立ち止まりすらしない。
彼は左手に抱えていた『来年度国家予算案』の羊皮紙の束に、瞬時に魔力を流し込む。紙の繊維が鋼鉄以上の硬度に強化(ハード化)される。
ガキィィィィンッ!!
振り下ろされた両手剣の刃が、分厚い書類の束に激突し、火花を散らして弾き返される。
「なっ……紙の束で、俺の剣を……ッ!?」
「それに、だ。君の所属する第三軍団の維持費だが」
驚愕で硬直する将校の懐に、マクシミリアンは滑るように入り込む。
「兵站の浪費と費用対効果が最悪だ。我が国の予算には、君たちのような不良債権を抱え込む余裕はないのでね。……即刻、損切り(カット)させてもらう」
ドスゥゥゥッ!
マクシミリアンの右の掌底が、将校の胸当ての中央、みぞおちの急所を正確に打ち抜く。
鎧越しに叩き込まれた浸透勁のような衝撃が、脱水症状で弱り切っていた将校の内臓を完全に沈黙させる。
「あ、が……ッ」という短い呻きを残し、巨漢の将校は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「第二項! バルザック商業連合からの賠償金請求額の算出を急げ! 走りながら計算しろ!」
「はっ! 現在のレートで換算し、利子を含めて……おっと、そこをどきたまえ!」
部下の文官が、計算をしながら右足で鋭いミドルキックを放つ。
脛の骨が敵の盾を真っ二つにへし折り、そのまま敵兵を吹き飛ばす。
「……見事なもんだ」
俺は木陰でハリーの柔らかいお腹を撫でながら、前衛の圧倒的な蹂躙劇に満足げに頷く。
ルミナスの文官たちは、完全に『作業』として敵の無力化を行っている。
刃のついた武器すら使わない。ただ、打撃と投げ技、そして書類による防御だけで、帝国兵の波を次々と粉砕していく。
何より恐ろしいのは、彼らがこの乱戦の最中においても、誰一人として呼吸を乱さず、完璧な会議を進行させているという点だ。
「ば、化け物だ……ッ! こいつら、人を殴り飛ばしながら、ずっと数字の計算をしてやがる……ッ! 頭がおかしいッ!」
帝国兵が、恐怖に顔を引き攣らせて後退りする。
未知の狂気に対する恐怖が、彼らの闘争心を内側から食い破っていく。
「退くなァッ! 貴様ら、相手はただの学者だぞ! 数の暴力で押し潰せェェッ!!」
その時、後方から兵士たちを掻き分けて、巨大な影が躍り出た。
第三軍団長、ボルドスだ。
彼は顔中の血管を怒りで浮き上がらせ、身の丈ほどもある巨大な戦斧を軽々と振り回している。
脱水でボロボロの肉体のはずだが、極限の怒りとプライドが、彼に一時的なアドレナリンの爆発を引き起こさせている。
「俺が自ら、貴様らのそのふざけた頭蓋骨を叩き割ってやる! 泣いて命乞いしても遅いぞォッ!」
ボルドスは地面を蹴り上げ、マクシミリアンに向かって大跳躍する。
空中で体を捻り、遠心力を極限まで乗せた戦斧の刃が、マクシミリアンの頭上へと迫る。
その一撃は、確かに岩をも砕く威力を秘めていた。まともに受ければ、いかに強化された書類の束でも防ぎきれないだろう。
だが、マクシミリアンは全く動揺しない。
彼は右手で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、静かに呟いた。
「……重心が高すぎる。それに、下半身の連動が完全に死んでいるな。ただ腕力だけで振り回しているだけだ。アルス殿下が見れば、呆れてため息をつくぞ」
「御託を並べるなァァッ!」
斧が振り下ろされる。
その直前、マクシミリアンは半歩だけスッと右へ移動した。
ズガァァァァァンッ!!
戦斧の刃がマクシミリアンの残像を切り裂き、大深緑の森の地面に深く突き刺さる。大量の土塊が吹き飛ぶ。
「な、何ィ!?」
空振りした反動と、斧の重さに引っ張られ、ボルドスの巨体が大きく前のめりに崩れる。
そこへ、マクシミリアンが完璧なタイミングで踏み込んだ。
「大臀筋とハムストリングス(うらもも)。人体のパワーの源泉は、常に下半身にある。それを理解していない君の攻撃は、ただの『隙の大きな案山子』だ」
マクシミリアンは、前のめりになったボルドスの太い腕を両手でガッチリと掴み取る。
そして、自身の腰を深く沈め、ボルドスの巨体の下へと潜り込む。
「シッ!」
鋭い呼気と共に、マクシミリアンの下半身の巨大な筋肉群が爆発的に収縮する。
床を蹴る力が、腰から背中、そして腕へと流れるように伝達される『キネティック・チェーン(運動連鎖)』の極致。
「な……が、あァァァッ!?」
体重百三十キロを超える巨漢のボルドスが、まるで軽いボロ布のように、足からふわりと宙に浮き上がった。
そして、完璧な弧を描く一本背負い(オーバーヘッド・スロー)の軌道に乗り、頭から地面へと真っ逆さまに叩きつけられる。
メキョォォォォンッ!!
ボルドスの重厚な兜がひしゃげ、首の骨が悲鳴を上げる。
森の地面がクレーターのように大きく陥没し、凄まじい衝撃波が周囲の草木を薙ぎ払う。
「……第三軍団長の無力化、完了。次、第四項の予算編成に移る! ペースを落とすな!」
土煙が晴れた後、そこには首を奇妙な方向に曲げて完全に気絶しているボルドスと、何事もなかったかのように書類の束を開き直すマクシミリアンの姿があった。
息一つ乱れていない。額には爽やかな汗がうっすらと浮かんでいるだけだ。
「「「…………」」」
残された数千の帝国兵たちは、自軍の最強の将軍が、書類を持った文官に『一撃』で地面に沈められた光景を前に、完全に声帯の機能を失っていた。
カラン、と。
誰かの手から滑り落ちた剣が、地面の石にぶつかる乾いた音が、静まり返った森に虚しく響いた。
「さて、文官チームの良い有酸素運動はこれで十分だろう」
俺は木の幹から離れ、前線へとゆっくりと歩みを進める。
ハリーが「きゅきゅっ!」と戦闘の合図を鳴らす。
「そろそろ、我が軍の『本命』の筋肉たちを出番させてやらないと、彼らが拗ねてしまうからな。……おい、準備はいいか」
俺が背後の暗がりへと声をかけると、森の奥深くから、地鳴りのような「咆哮」が重なり合って響いてきた。
「応ッ!! 筋肉は裏切らない! 知識も裏切らない! 我ら第一騎士団、いつでも突貫可能です、殿下ァァッ!」
木々の間から、マクシミリアンたち以上に分厚い装甲を纏った、巨大な筋肉の塊たちが次々と姿を現す。
第一騎士団長ガイアスを筆頭とする、ルミナス最強の『考える暴力』たち。
彼らの目には、理知的な光と、圧倒的な闘争心が同居している。
帝国軍の兵士たちは、その姿を見た瞬間、本能で理解した。
自分たちが足を踏み入れたのは、ただの森ではない。
論理と筋肉が完璧に融合した、絶対的な『死地』なのだと。




