シーン1:大深緑の森の罠と、水筒を持たない兵士たち
ザワワワッ。
頭上を覆い尽くす巨大な広葉樹の天蓋が、生ぬるい風に揺れて重々しい葉擦れの音を立てる。
ルミナス王国の西の国境線を守る天然の要害、『大深緑の森』。
樹齢数百年を超える巨木が何千、何万と立ち並び、足元には分厚い苔と腐葉土が敷き詰められている。森の奥からは、むせ返るような濃密な緑の匂いと、湿った土の香りが漂ってくる。
「スッ……、ハァ……。よし、大腿四頭筋の伸びが完璧だ。この腐葉土の柔らかさが、足首の関節にかかる負担を絶妙に吸収してくれる」
俺は樹齢千年を超える巨大な神木の太い幹に背中を預け、右足の甲を右手で掴み、踵をお尻に引き寄せる『スタンディング・クワッドストレッチ』を念入りに行っている。
太ももの前側の筋肉がジンジンと心地よく引き伸ばされ、血流が促されていく。
ここまでの長距離の物資運搬で酷使した筋肉のケアは、戦い(有酸素運動)に入る前の絶対条件だ。
「きゅんっ、ごきゅっ、ごきゅっ」
俺の頭上、ちょうど目線の高さにある太い枝の上では、魔法ハリネズミのハリーが特等席を陣取っている。
彼の小さな両手には、ルミナス特製の『魔力柑橘系スポーツドリンク』が入った小瓶が握られている。ハリーは短い首を上に向けて、コクコクと美味しそうに喉を鳴らしながら、黄金色の液体を胃袋へと流し込んでいる。
その丸っこいお腹が、水分を吸収してぽよんと膨らむのが見える。
「いい飲みっぷりだ、ハリー。喉が渇いたと感じる前に飲む、それが水分補給の鉄則だからな」
ハリーは「ぷはぁっ!」と一息つくと、満足げに口の周りを短い前足で拭い、俺に向かってシャキッと背中の針を立てて敬礼のようなポーズをとる。
俺たちの周囲、鬱蒼とした森の木陰には、数万のルミナス国民と騎士、文官たちが思い思いの姿勢でリラックスしている。
誰もがハリーと同じようにスポーツドリンクの入った水筒を手に持ち、談笑しながらストレッチを行ったり、魔導書の復習をしたりしている。
悲壮感や、これから人を殺し合うという極度の緊張感は一切ない。
彼らの顔には健康的な汗が光り、瞳には『いつでも動ける』という静かな活力が満ちている。
「殿下。気温三十度、湿度八十五パーセント。風向きは南東から微風。魔力循環の阻害要因はありません。我が軍のコンディションは、現在百二十パーセントと言っても過言ではありません」
すぐ隣で、主席魔導士のリーシャが、空中に浮かべた数個の風速・湿度計(魔導具)の数値を読み上げながら、自身の水筒からスポーツドリンクを一口含む。
彼女の藍色のローブは、森の湿気を弾く通気性の高い魔法繊維で編み直されており、その顔に疲労の色は微塵もない。
「ご苦労、リーシャ。湿度八十五パーセントか。……最高だな。これなら、連中の『天然のサウナ』は完璧に機能する」
俺はストレッチする足を左足へと切り替え、森の奥――木々の隙間から僅かに見える、アズライト渓谷からの出口の方角へと視線を向ける。
「人間の身体は、体重のわずか二パーセントの水分を失っただけで、運動能力が三十パーセント低下する。血液はドロドロの泥のようになり、心臓はそれを無理やり全身へ送ろうとして悲鳴を上げる。当然、脳への酸素供給量も激減し、判断力は鈍り、魔法の演算など不可能になる」
俺の言葉に、リーシャが神妙な顔で頷く。
「五パーセントを失えば、頭痛やめまいで立っていることすら困難になり、十パーセントを失えば筋肉の痙攣と共に死に至る……殿下が書かれた『人体水分学』の基礎ですね」
「ああ。そして、あの乾燥した炎天下のアズライト渓谷を、水なしで数十キロも歩いてきた連中は……とうの昔に、その五パーセントのラインを突破している」
ガシャン、ギギギギ……ッ。
不意に、森の奥から、錆びついた鉄同士が擦れ合うような、耳障りな音が響いてくる。
それは一つや二つではない。数万の鉄塊が、泥に足を取られながら無理やり前へ進もうとする、不気味な足音の集合体だ。
「……来ましたね」
リーシャが、水筒の蓋をキュッと締め、アイスブルーの瞳を細める。
俺もストレッチを終え、軽くその場で数回ジャンプして足首のバネを確認する。
ガサガサッ!!
深い茂みを掻き分け、ついに『それ』が森の中へと姿を現す。
ガルド帝国第三軍団。五十万の軍勢の先陣を切る、誇り高き重装歩兵たち。
だが、その姿は、もはや人間の軍隊のそれではない。
「水……水ゥ……」
「どこだ……川は、ないのか……ッ」
彼らの目は虚ろに濁り、焦点が全く合っていない。
日焼けと極度の脱水で顔の皮膚はひび割れ、唇からはどす黒い血が滲んでいる。口を半開きにしてゼーゼーと喘ぐたびに、乾ききった舌が白い粉を吹いているのが見える。
五十キロを超える鎧と荷物の重さに耐えきれず、多くの兵士が腰を直角に曲げ、剣を杖代わりにしながら、ゾンビのように足を引きずっている。
「ガハッ、ゲホォッ!! 森だ! 森に入ったぞ! ここなら、日差しが遮られて……涼し、い……はず、だ……ッ!」
先頭を歩く、一際巨大な鎧を着た男――第三軍団長ボルドスが、血を吐くような声で叫ぶ。
彼らは、日陰のある森に入れば、あの地獄のような渓谷の暑さから解放されると信じていたのだ。
だが、それは決定的な『間違い』だ。
「無知とは恐ろしいな。森の湿度を舐めるなよ」
俺は木陰から彼らを観察しながら、冷酷な事実を呟く。
アズライト渓谷は確かに暑いが、乾燥しているため、汗をかけばそれはすぐに蒸発し、気化熱で体温を下げてくれる。
だが、この湿度が八十五パーセントを超える『大深緑の森』では違う。
空気中にすでに限界まで水分が飽和しているため、どれだけ汗をかいても一切蒸発しないのだ。
「あ、あぢぃ……ッ! なんだこの、まとわりつくような空気は……ッ!」
「汗が、汗が止まらねェ! 鎧の中が、煮えたぎってるみたいだァァッ!」
森に足を踏み入れた帝国兵たちが、次々と悲鳴を上げて鎧の胸元を掻き毟り始める。
蒸発しない汗は、ただ体内の貴重な水分を無駄に垂れ流すだけだ。
分厚い鋼鉄の鎧の中に熱がこもり、彼ら自身の体温が彼らの内臓をゆっくりと茹で上げている。
完全な『熱射病』の初期症状だ。
「脱げ! 鎧を脱げェ! 息が、できねぇ……ッ!」
一人の兵士が狂乱状態になり、重い兜をかなぐり捨て、胸当ての留め具を無理やり引きちぎる。
だが、その急激な動作が、限界を迎えていた心臓にトドメを刺す。
兵士は白目を剥き、激しく痙攣しながら腐葉土の上に倒れ込んだ。口からは白い泡が溢れ、そのまま二度と動かなくなる。
「ひぃっ!? おい、しっかりしろ! 死ぬな!」
「だ、駄目だ……水筒はもう一滴も残ってねぇ……ッ! 魔導士! 水を出せ! 魔法で水を造れェェッ!」
ボルドスが後ろを振り返り、自軍の魔導士たちに向かって怒鳴りつける。
だが、呼び出された帝国軍の魔導士たちは、鎧の兵士たち以上に悲惨な状態だった。
「む、無理です……ッ。の、脳が……割れるように痛い……ッ」
魔導士の一人が、杖にしがみつきながら頭を抱えてうずくまる。
彼らの血液は完全に泥状と化している。その状態で、高度な脳の処理能力を要求される魔法演算を行おうとすれば、毛細血管が圧力に耐えきれず破裂する。
「や、やってみま……『水よ(アクア)――』ガハァッ!?」
無理やり呪文を詠唱しようとした魔導士の鼻と耳から、勢いよく鮮血が吹き出す。
彼はそのままバタリと前に倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。脱水症状による脳の酸欠と、魔力暴走の併発だ。
「ば、馬鹿な……。魔法すら、使えねぇだと……? 俺たちは、一体どうすれば……ッ」
絶望。
純度百パーセントの物理的な絶望が、帝国軍の歩みを完全に停止させる。
彼らは水筒を持たず、補給を絶たれ、自らの足でこの地獄のサウナへと足を踏み入れた。
戦う前に、彼らの肉体という兵器は、完全に『壊れ』ている。
「……そろそろ、挨拶をしてやるか」
俺は木の幹から背中を離し、ゆっくりと彼らの前へ、森の開けた場所へと歩み出る。
背後の木陰からは、水分補給を終え、完璧なウォームアップを済ませた数万のルミナス軍が、音もなく立ち上がる。
「な……ッ! き、貴様ら……!」
俺の姿に気づいたボルドスが、充血した目を限界まで見開き、錆びた剣を震える手で構える。
「ルミナス王国の……軍隊、か……! なぜだ……! なぜ貴様らは、そんなに涼しい顔をしている……ッ! 鎧も着ずに……そんな薄着で……!」
「ようこそ、ガルド帝国の諸君。ずいぶんと顔色が悪いな。肝臓の数値も最悪そうだ」
俺はボルドスの怒声に対して、手元のスポーツドリンクのボトルを軽く掲げてみせる。
ボトルの表面には冷たい水滴がつき、中の黄金色の液体がチャプチャプと涼しげな音を立てる。
「あ、ああっ……! 水……! 水だァァッ!!」
その音と視覚情報が、帝国兵たちの狂気を決定的に爆発させる。
彼らにとって、俺の持っているその小さなボトルは、命そのものに見えているはずだ。
「殺せェェェッ! 奴らはひ弱な文官の集まりだ! 殺して、その水を奪い取れェェェェッ!!」
ボルドスが大口を開けて絶叫し、自ら俺に向かって突進してくる。
彼の後ろに続く数千の兵士たちも、獣のような唸り声を上げながら、泥だらけの足で腐葉土を蹴り立てて迫り来る。
「ひ弱な文官、ね」
俺はボトルの蓋を開け、最後の一口をゆっくりと飲み干す。
爽やかな柑橘系の香りが口内に広がり、アミノ酸が筋肉の隅々まで行き渡るのを感じる。
空になったボトルをハリーに預け、俺は両手をだらりと下げたまま、一切の武器を持たずに彼らを迎え撃つ姿勢をとる。
「勘違いするなよ、ボルドス将軍。お前たちは今から戦死するんじゃない」
俺は、突進してくる大男の顔を真っ直ぐに見据え、言い放つ。
「水分管理もできない無能として、ただ『自滅』するだけだ」
森の木々の間から、ルミナス王国の『最強の文官たち』が、暗算のウォーミングアップを終えた不気味な笑顔を浮かべながら、一斉に飛び出していった。




