シーン4:完璧なる兵站演習と、絶望の渓谷
両手にズシリと食い込む、強烈な重量感。
左右の手にそれぞれ五十キロ、合計百キロの特製木箱の取っ手をしっかりと握り込み、俺は王都の大通りを西の国境へ向かって力強く歩みを進めている。
背筋を伸ばし、胸を張り、肩甲骨を寄せて僧帽筋をロックする。体幹に極限まで圧力をかけ、ブレを一切許さない完璧な姿勢での歩行訓練――『ファーマーズ・ウォーク』だ。
「スッ……ハッ……。よし、前腕筋群のパンプアップが心地いいな。握力を鍛えることは、全身の神経系を覚醒させる最高のスイッチだ」
一歩踏み出すごとに、大臀筋とハムストリングスが百キロの重量と己の体重を支え、強烈な推進力を生み出していく。
足の裏で石畳を掴む感覚。ふくらはぎのポンプが作動し、新鮮な血液が途切れることなく脳へと供給され続ける。
「きゅんっ、きゅんっ!」
俺の右手に提げた木箱の上で、小さな声援が飛ぶ。
相棒の魔法ハリネズミ、ハリーだ。驚くべきことに、今日のハリーはただ乗っているだけではない。俺が職人に作らせた超小型のリュックサックを背負い、その中に『予備の乾燥大豆(約五十グラム)』を詰め込んで、彼なりに『歩荷トレーニング』に参加しているのだ。
短い足を踏ん張りながら木箱の上でバランスをとる姿は、最高に愛らしく、そして頼もしい。
「いいぞハリー。お前のその五十グラムが、我が軍の兵站を支える重要なピースになる」
俺が声をかけると、ハリーは得意げに胸を張り、背中の針をシャキッと立てる。
周囲を見渡せば、王都から西へと続く街道は、見渡す限りの人で埋め尽くされている。
だが、それはパニックによる避難民の群れでも、悲壮な決意を秘めた軍隊の行軍でもない。
太陽の光が降り注ぐ中、色とりどりのウェアを着た数万の国民たちが、尋常ではない量の物資を背負い、軽快な足取りでピクニックにでも向かうように歩いているのだ。
「――はい、第七区画の皆さん! ペースが落ちていますよ! 呼吸を整えて、大腿四頭筋ではなくお尻の筋肉で歩くことを意識してください! 疲労の蓄積スピードが劇的に変わります!」
街道の少し先で、ミレイナが荷車の上からメガホン代わりの風魔法を使って大声を張り上げている。彼女自身も、自分の体重ほどもある『マッスル・マンドレイク』の束を軽々と背負っている。
「「「おおーっ! 尻の筋肉ですね、局長!」」」
ミレイナの指示に応えるのは、王国中の農民、商人、そして文官たちだ。
六十歳を超えた図書館の老司書が、三十キロの小麦粉の袋を背負いながら、隣を歩く若手魔導士と『重量運搬時における魔力効率の推移』について熱っぽく議論を交わしている。
子供たちは水筒を首から下げ、遊び感覚でスキップしながら親の周りを駆け回っている。
これが、俺が発令した『超巨大兵站演習』の全貌だ。
五十万の敵軍が国境に迫っているというのに、この国には悲壮感など微塵もない。彼らはただ、日々のトレーニングの成果を試す絶好の機会として、大量の物資を最前線へと運ぶこの『健康イベント』を心から楽しんでいる。
「……信じられん光景だ。これが、あの虚弱だった我が国民の姿だとでも言うのか」
俺の左側を歩く人物が、深い感嘆の息を漏らす。
ルミナス国王、フェルディナンドだ。
かつて書類の山に埋もれて死にかけていた彼は今、仕立ての良い軽装の運動着に身を包み、背中には五キロほどの軽量リュックを背負って俺と並んで歩いている。
顔を覆っていた土気色の隈は完全に消え去り、頬には健康的な血色が戻っている。呼吸も深く、足取りは驚くほど力強い。
「父上、五キロの重量は重すぎませんか? 無理は禁物です」
「馬鹿を言え。八時間の睡眠と、お前の作ったあの『プロテイン』とやらのおかげで、余の肉体は二十代の頃よりも若返っている。この程度の重量、羽のようなものだ」
国王はそう言って、誇らしげに胸を張る。
そして、遥か彼方まで続く、笑顔と活気に満ちた数万の補給部隊の列を見渡し、静かに言葉を続ける。
「アルスよ。余はかつて、知識だけが国を守る盾だと信じていた。武力を否定し、肉体を軽視することが、文明国の証だと。……だが、間違っていた。知性とは、強靭な肉体と健全な精神という土台の上にしか成立しないのだな」
国王の視線の先で、第一騎士団の重装歩兵たちが、文官たちと冗談を交わしながら、馬車数台分の武器と防具を人力で運んでいく。
文と武の完全な融合。
これこそが、俺が目指した国家の最終形態だ。
「軍事において、最も重要で、最も困難なのは『補給』だと言われています」
俺は百キロの木箱を揺らさないように歩きながら、国王へ視線を向ける。
「いかに優れた戦術や魔法があろうと、飯が食えず、水が飲めなければ人間は三日で動けなくなる。だから俺は、この国全体を『最強の補給器官』に作り変えました。国民一人ひとりが自分の荷物を持ち、自分の足で長距離を移動できれば、馬も荷車も必要ない。道が途絶えようが関係ない。我が軍は、永遠に息切れすることなく戦い続けることができるんです」
「……恐ろしいことだ」
国王が、微かに震える声で呟く。
「お前は、戦争の概念そのものを変えてしまった。敵は今頃、この『規格外の生き物』を相手にしていることにすら気づかず、旧態依然とした不健康な常識の中で自滅への道を歩んでいるのだろうな」
「ええ。ちょうど今頃、地獄の釜の底を這いずり回っているはずです」
俺はファーマーズ・ウォークの足をとめ、二つの特製木箱をゆっくりと地面に下ろす。
ズシンッ、と地面が重く鳴る。
肩の力を抜き、深く息を吐き出してから、空中に魔力を練り上げる。
『水鏡、展開』
青白い光の術式が空間を切り取り、映し出すのは、ここから遥か西に位置する過酷な岩山――『アズライト渓谷』の現在だ。
そこには、俺たちルミナスの『健康的なピクニック』とは対極にある、凄惨な死の行軍が広がっていた。
「水……水をくれ……」
「もう歩けない……鎧が、重い……ッ」
太陽が容赦なく照りつける荒涼とした岩肌の道。
ガルド帝国軍は、もはや軍隊としての体をなしていなかった。
馬も荷車も失い、一人あたり五十キロの物資を強制的に背負わされた兵士たちは、重い鋼鉄のフルプレートアーマーの中で文字通り『茹で上がって』いた。
鉄の鎧は太陽の熱を吸収し、巨大なオーブンと化す。
極度の睡眠不足に、過剰な重量負荷、そして絶対的な水分不足。
彼らの肉体は悲鳴を上げ、次々と限界を迎えていく。
「ひぃっ……!」
水鏡の映像の中で、一人の兵士が白目を剥いて岩場に倒れ込む。口からは白い泡を吹き、手足が異常な角度で痙攣している。
重度の熱中症と脱水症状による、筋肉の異常収縮だ。
だが、倒れた彼を助け起こそうとする者は誰もいない。皆、自分の命を繋ぐだけで精一杯なのだ。
「止まるなァッ! 歩け! 歩き続けろ!! 休めば死ぬぞ!!」
その地獄の先頭で、血を吐くような怒号を上げているのは、大将軍レオンハルトだ。
彼自身も、他者の何倍もの荷物を背負い、尋常ではない量の汗を流しながら、岩だらけの急斜面を登っている。
彼の足元には、すり減った軍靴から滲み出した血が点々と続いている。
唇を噛み破り、奥歯を砕かんばかりに食いしばり、ただ純粋な『根性』と『狂気』だけで、崩壊寸前の五十万の肉体を強引に前へと引きずり続けている。
「……哀れな男だ」
水鏡越しにその姿を見つめながら、国王フェルディナンドが低く呟く。
「あの将軍は、疑いようのない傑物だ。だが、彼の背負っている常識が、彼自身と兵士たちを殺そうとしている」
「そうです。壊れるまで己を痛めつける努力を、美徳だと信じ込んでいる。だから、休むという合理的な判断ができない」
俺は水鏡の映像を掻き消す。
これ以上、あの惨状を見る必要はない。
彼らがアズライト渓谷を抜け、ルミナスの国境防衛線である『大深緑の森』に辿り着く頃には、彼らの体力と精神力は完全にゼロになっているだろう。
「さあ、父上。休憩は終わりです。あと少し歩けば、国境の防衛陣地です。そこでたっぷりと水分を補給し、完璧なコンディションで彼らをお出迎えしましょう」
俺は再び百キロの木箱の取っ手を握り、グッと持ち上げる。
ハリーが「きゅいっ!」と気合を入れるように鳴き、俺の腕の筋肉に力を与えてくれる。
五十万の軍勢など、もはや恐れるに足らない。
俺たちが相手にするのは、睡眠と栄養を削り、根性論で自らを破壊し尽くした『不健康の搾りカス』だ。
俺たちは健康だ。
極限まで鍛え抜かれた筋肉があり、潤沢な兵站があり、クリアに回転する脳がある。
戦争とは、より健康で、より合理的な生活を送った者が勝つゲームだ。
「歓迎しよう、不健康な侵略者たち。俺たちの完璧な『暴力』で、お前たちのその間違った努力を、根底から否定してやる」
突き抜けるような青空の下。
最強の健康国家ルミナスの、一方的で、どこまでも合理的な蹂躙戦が、ついに幕を開けようとしていた。




