6.陽を願う鳥は雨に濡れる
かつては空をかけた翼も今はなく、この身を生かすのは誇りを奪った男への憎悪。
――その、はずだった。
もう二度と空に還れぬ自分が地上の陽に焦がれるなど、なんて皮肉だろうか。
それでも、あの頃に見た太陽のような笑みを守りたいと思わずにはいられなくて。
もうとっくに陽の差さない場所では生きられなくなっていることに気づく。
ぽたり、と雫が落ちた。城の中だというのに雨が降っているらしい。
でも、そんなことはどうでもいい。
彼が想うのは、彼の腕のなかで熱を失っていく太陽。
雲よ、彼女を覆い隠してくれるなと地を這う身で空に願った。
◇◇◇
重い扉が乱暴に開かれ、派手な音が辺りに響いた。
広間の扉を開けたカイトの目に映ったのは到底信じられそうにもない光景。
見知った顔の者も見慣れぬ者も関係なく地に倒れている中、ただ一人立っている人物がいた。……それはカイトもよく知る人物で。
「アイビス、さま……?」
情けなくかすれた声。
「アル……もう来ちゃったの?」
カイトの声に反応し振り向いた王女の手には短刀が握られていた。
呆然と立ち竦むカイトなど意に介さず王女は赤く染まった短刀を床に投げた。一瞬何か別のものを投げたと錯覚しそうになるほど自然な仕草で。
からんと硬質な音が耳に届いてハッとする。
「アイビス様、これはいったい……」
やっと絞り出したカイトの言葉は視界に入ったものへの驚きとともに途切れた。
「陛下!?」
なぜ、あの男が血塗れで地に伏しているのか。
神聖王国の国王であり王女の父親。カイトにとって最も憎むべき相手である男が、なぜ。
それは容易く察せられること。けれど、わかりたくなかった。
「お父様ってやっぱりすごいわ。ほとんどの毒に耐性があるってわかっていたから、お父様には皆と違う珍しいものを使ったのに」
“だから刺すしかなかったの”とふわりと微笑む王女はカイトの知る彼女ではなくて。
「酒に毒を盛ったのも……あなたですか?」
カイトの声は無様にも震えていた。
知ってしまえば永久に戻れなくなると直感する。けれど、問わずにはいられなかった。
恐い。怖い。……こわい。
得体のしれないものへの恐怖に、また大切なものを失うかもしれない不安。
その大切なものは初めからカイトのものではなかったけれど、そんなことがどうでも良くなるくらいに想っていた。
「ええ、そうよ」
王女が何の気負いもなく答える。カイトは自分の身に絶望が押し寄せてくるのを感じた。
(なぜ、あなたが……)
今夜の凶行がカイトが行ったことだというのならわかる。
けれど、なぜ王女が。何も知らぬ無垢な彼女が。
「……どうしてこんなことを」
カイトの口から漏れたのはあまりに陳腐な言葉。
「だって、この国は“悪い国”でしょう?」
「悪い……?」
「神聖王国は罪を犯した。他者の誇りを踏みにじり、良き隣人を獣と蔑み……それに何より、鳥から空を――あなたから自由を奪った」
歌うように語る王女の眼がカイトを射抜く。
息が止まるほどに驚いた。
国王が娘にはひた隠しにしていた“獣狩り”を知っていたことも、それを罪と断じたことも、その一言には及ばない。王女の言葉は“アル”ではなく“カイト”に向けたものだったから。
「知って、いらしたのですか」
カイトの言葉に、王女は少しきょとんとする。
「アルが有翼人だということ? もちろん、知ってたわよ。私の騎士のことだもの」
「この国での俺は人間だ」
「私はアルの背中を見たからわか……って、ええ!?」
(ああ、そうか。あのときか)
前に一度、鍛錬の後に井戸の近くで水を浴びていたところを王女に見られたことがある。そのときに背中に触れられた。慌てて追い出したが、あのときにバレたのだろうと見当をつける。
一目でバレないように傷口を焼いているため、見られただけではわからないが、触ればこの背に昔何があったのかに気づくだろう。脱いでいたのは上半身のみとはいえ、王女が乱入してきたことに気が動転してそのことを失念していたようだ。
「ア、アル……今、“俺”って……」
カイトが考え込んでいる間、今度は何やら王女が驚いている。
「もしかして、その話し方がアルの素?」
やたらときらきらとした視線に既視感を覚えた。
初めて会ったときと同じだ。あのときから彼女は変わらない。
(そうだ、変わらないじゃないか)
得体のしれないものなどではない。
目の前の彼女はアイビス・ファロン・ファレル。カイトが偽りの名で剣を捧げた相手。たとえ彼女が何をしたって、この身に秘めた想いも彼女がカイトを惑わす唯一の存在であることも変わらない。
「普段から敬語を使うほど俺は上品な人間じゃない」
「さっきまであんなに驚いてたのに、もう冷静。つまらないわ」
「驚きすぎて麻痺してきた。俺を驚かせ続けたいなら小出しにするべきだったな」
「ふふっ、ああ楽しい」
まるで緊迫感などないやりとり。
血濡れた広間は二人微笑み合うには向かない。その惨劇を作りだしたのが、一方であったのならなおさら。
そんな中で軽口を叩き合うなんて、言葉の通りいろいろと麻痺してきているに違いない。けれど、それで構わなかった。
「ねえ、アル……いいえ、違うわね。――あなたの名前を聞いても良い?」
この名を口にするのはいつ振りだろう。復讐を果たすまではと、今までずっと封印してきた名前だ。
「カイト・ビアス」
短く本当の名を告げれば、暗雲を晴らし空から陽がのぞく。
王女が浮かべたのは、いつもの彼女だと安堵しそうになるほど眩しい笑みだった。
「カイト」
大切そうに、宝物に触れるように、そっと呼ばれた名前。
王女にその名を呼ばれるのは初めてだ。それだけのことがひどく心を満たした。
「大好きよ、カイト」
いつか言えなかった本心を語ろうかと思って……止める。
代わりに他の言葉を口にした。
「俺は一生悔やむだろう。お前を血で汚したことを」
「カイトが気にすることじゃないわ。私が勝手にやったことだもの。……これは、私に自由を見せてくれたお礼」
カイトは王女に自由など見せた覚えはないし、周囲の光景は礼と言うにはひどく物騒だ。
「もう自由よ。あなたの背に翼を戻すことはできないけど、あなたを縛る復讐はもうない」
そう言って王女が取り出した見覚えのある小瓶に、毒入りの葡萄酒を飲んだはずのカイトが未だ生きている理由を悟る。あのひどい味の薬はおそらく解毒剤か中和剤だったのだろう。
舞踏会の前にカイトが飲まされた薬瓶の色は青。けれど、王女の手にある瓶の色はやけに不吉な赤。
「だから行って。最後は私だけだから」
「何を、言って……」
そう言いながら、王女が何をしようとしているかに気づいた。
彼女は、死ぬ気だ。
国の罪と己の犯した罪に殉じて。
解放した鳥に満足そうに笑いかけて。
多くを不幸にして、一人幸せそうに。
カイトの大切なものはいつも手からこぼれ落ちていく。
(間に合ってくれ……!)
伸ばした手は無情にも空を切った。
祈りは届かず、もう間に合わない。
「アイビスっ!!!」
カイトは王女しか見ていなかった。
だから、気づかない。彼女の後ろに迫っていた影に。
「…………っ」
後ろからの衝撃に王女の身体が揺れた。ぽたり、と血が落ちる。
王女の目が見開かれ、手から滑り落ちた瓶が音を立てて砕けた。
「な、に……?」
王女は何が起こったのかわからぬまま、前のめりに倒れる。
咄嗟にカイトは王女の身体を抱き止めた。ぬるりと嫌な感触が手を伝う――床にあったはずの短刀が王女の背を赤く染めていた。
絶望よりも深い闇に堕とされ、目の前が真っ暗になる。
「は、はははっ、はは、やった! 王女を、毒婦を殺した!!!……うっ……ごふっ」
高々と笑いながら血を吐く男には見覚えがあった。
レイヴン・ロイル・アンブラー。
神聖王国の筆頭貴族の子息で王女の婚約者。……その婚約者を刺した男だ。
(くそっ……)
不覚、と言うに他ない。
近くに倒れているのは知っていたが、息絶えているものだとばかり思っていた。
「なぜ、僕が死ななきゃならない! 僕は次期国王だぞ!!! 道連れだ! み、みみみ道、連れに、して……っ」
男は虚空に向かって叫んでいる。
毒の回った身体でかろうじて立ってはいるが、もう目も見えていないようだ。王女に刃が届いたのは執念だろう。
男は血反吐を吐きながら支離滅裂な言葉を紡いでいる。彼の命の灯が消えるまでもう間もない。もうすぐ、王女が奪った命の一つに名を連ねることになるのは間違いなかった。
「死ねえぇぇ!!!」
叫びながら男は再び王女へと襲いかかる。思いもかけず俊敏なその動きは最期の力を振り絞ったと言うに相応しいものだ。
だが、カイトが二度もその凶行を許すわけがない。男が王女に迫る前に剣を抜き、斬りつける。“ぎゃあ!”と悲鳴を上げた男の身体を蹴り飛ばし、傷を負った王女を庇った。
止めを刺すまでもなく男が絶命したのを見届け、その場に王女の身を横たえる。
「アイビス様! しっかりなさってください、アイビス様!」
「……ふふっ、カイトったら口調が戻ってる」
弱々しくもそう言って瞼を上げた王女にひとまず胸を撫で下ろした。
「こちらの方が慣れているんです。……止血しますよ」
「しなくて良いわ」
「っ、何を!?」
服の袖を破り、止血しようと伸ばした手は当の本人に止められる。
何を言い出すのかと表情を険しくしたカイトに王女は微笑みかけた。今にも消え去りそうな儚さで。
「もともとこのつもりだったもの。レイヴン様に刺されたのは予想外だったけれど」
“悪いことをすると自分にかえってくるって本当ね”と言いながら、王女は静かに瞼を下ろす。
その様子がまるで永遠の眠りにつくかのようでカイトは一瞬息を詰めた。
しかし、すぐに我に返り、死んだように動かない王女に必死に声を掛け続ける。
「おいっ、目を閉じるな!」
「アイビス様!!」
「頼むから目を開けてくれ!」
「お願いですから、目を開けてください!」
この声を聞く者がいれば、二人の男が声を上げていると思うだろう。
真実と偽りが、復讐者と騎士が、“カイト”と“アル”が混ざり合う。けれど、それはもともと二人ではなく初めから一人。どちらも一緒でどちらの想いも一つだった。
それはいつからか胸の奥にあって、ずっと気づかないように封じ込めていた心。
翼なんていらない。
自由なんて欲しくもない。
誇りをなくしたって、囚われていたって、彼女の隣を歩ける幸福さえあれば良い。
だから、どうか。
「死ぬな!」
声を枯らして叫んだ。
遥かな空まで届けというように一羽の鳥が鳴く。あまりに哀れなその様に、神も慈悲をくれぬだろうか。
彼女が助かるなら何だって捧げる。たとえこの身が滅びても、ただ唯一の陽は失えないから。
「頼むから、目を開けてくれ……っ」
感情が堰を切って溢れ出す。瞼が焼けつくように熱い。
ぽたり、と雫が落ちた。城の中だというのに雨が降っているらしい。
雨で視界が歪んでいく。
「カイト……泣いてるの?」
目を開いた王女の言葉でカイトは自分が涙を流していることに気づいた。
「泣かないで」
そっと頬に触れられる。
“なら、死のうとするな”と言うカイトに彼女はただ微笑むだけ。
「……アイビス」
カイトにとって唯一の名を囁く。頬に触れる手をとって、手のひらに口づけた。
この想いは恋なんかじゃない――何もかも捧げたってまだ足りないくらい、愛している。
◇◇◇
その日、関所を通ろうとする男はひどく怪しかった。
フードを目深にかぶり、顔を隠しているうえ何やら大きな荷物を担いでいる。
「そこの男!」
通行許可証を見せてあっさりとその場を過ぎ去ろうとした男を関所の兵士が当然のように呼び止めた。
男は動揺するそぶりも見せず、振り返る。代わりのように男の担いでいる袋がピクリと動いたのは目の錯覚だろう。
「おい、お前、フードを取れ」
「……なぜ?」
そう静かに問う男は、剣を腰にはいた物々しい出で立ちの兵士たちにも怯む様子はない。逆に、男の泰然とした姿に目の前の兵士二人の方が圧倒された。
しかし、兵士たちはすぐに悔しそうな表情を浮かべ、居丈高に言い募る。
「尊き方々を皆殺しにし、アイビス王女を攫った大罪人を捜しているのだ」
「貴様、何の用あって王都から出る。顔を見せて答えろ」
「行商の途中だ。重要な商品を取り扱っているから顔は見せられない」
「なっ、そんな言い分が通るわけなかろう!」
「俺の顔は無理だが……商品なら見せてやれるが?」
言葉に反応するように男の荷が揺れた。
「はっ、そんなもの……」
兵士の言葉が途切れる。
男が金を握らせたからだ。それも、一兵士には縁もないほどの大金を。
「わかった。お前のような善良な商人を罪人と疑って悪かったな」
「足を止めさせて悪かった。貴殿の商売が上手くいくことを祈ろう」
「ああ、ありがとう。話のわかる相手で助かった」
ころりと態度を変えた兵士たちにもう一度礼を述べ、男は関所を後にした。
すっかり人気がなくなった街道。
傍目にもわかりやすく男の荷がもぞもぞと動き始める。溜め息を吐いて男が荷を下ろすと、袋から一人の少女が顔を出した。
「……はあっ、苦しかった!」
「動きすぎです。まったく、バレたらどうするんだ」
「こんなの、バレない方がおかしいわよ! ……バレなかったけど」
ああいうのは単純な方がバレにくいものだ。
それに、金を積めば大抵のことはどうにかなる。王城からかっぱらってきただけあって、資金は潤沢だった。
「お前の動きでバレたら困るから言ってるんだ」
「バレたら城に連れ戻される?」
「そんなことさせませんよ。関所に死体の山ができるだけです」
さらりと物騒なことを口にした男――カイトは常体と敬体の混じった奇妙な口調で話す。あれ以来どうにも口調が定まらない。
あの後……あの惨劇の日の終わり、カイトは気を失ってしまった王女を抱えて城の医務室に駆け込んだ。役に立たない侍医の死体を蹴り出し、短い時間で王女の処置をし、必要な物を担いでカイトは王城から逃げ出したのだ。
カイトの適切な処置のおかげで王女の命は助かったが……死のうとする彼女の意思なんて無視して、もっと早くそうしていれば良かったと思わずにはいられない。
そうすれば、今とは別の形で二人在れたのかもしれないと思う。
(いや、別の形なんていらない)
きっと、今の形が最良なのだろう。
たとえ、命は助かった王女が他のものをなくしていても。
「ねえ、私が王女だっていうのは本当なの?」
唐突に問われ、カイトは過去から現実に引き戻された。
目の前の少女は忘れている。自分の名前も王女であったことも、カイトのことも。目覚めたとき、王女は――アイビスは全ての記憶を失っていた。
「本当ですよ」
「ふぅん……じゃあ、カイトが“尊き方々を皆殺しにし、王女を攫った大罪人”なの?」
アイビスにはあの惨劇のことは伝えていない。彼女が知っているのは自分の名前と王女だったこと、“アル”との関係。そして、カイトが城から彼女を攫ったことだけ。
アイビスが自分を攫ったと言う相手に大人しく付いてきている理由はカイトも知らない。
「そうだ、と言ったら逃げ出すか?」
「いいえ、どこに連れて行ってくれるのかってわくわくする」
“皆殺し”の辺りは気にならないのだろうか。
(まあ、良いか)
ささいなことだと、今まで考えていた全てがどうでも良くなる。だって、アイビスが笑うから。彼女が楽しそうなら、幸せなら、他は何だって良い。
そう思ってしまうほどに、カイトは堕ちきっている。
「もう一つ質問!」
「何だ?」
「なんでカイトは敬語だったりそうじゃなかったりするの?」
そんなの、カイトの方が知りたい。
「さあ、何でだろうな?」
本当のことを告げるのも癪で、そう言ってニヤリと笑って見せた。
ムッとした顔で黙るアイビスに悪戯心が芽生える。なるほど、カイトへの悪戯に明け暮れていた王女もこんな気持ちだったのかもしれない。
「愛していますよ、アイビス様」
初めて告げる愛の言葉。
どちらの口調で言うべきか悩む前に、するりと口をついて出た。言ってしまえば、堪え切れない想いが溢れる。
ゆるゆると目を見開いた彼女の髪を一房手にとって、口づけた。
そうしながら、アイビスの様子をうかがう。泣き出しそうに歪められた彼女の顔に嫌悪の色がなくてほっとした。
彼女の頬を伝う涙は悲しみからではない。それがわかるから、嬉しくて愛おしい。
「もう一回言って」
泣きそうな顔で告げられる可愛らしい我儘。
どうしてこんなにも彼女が愛おしいのか。
(理由なんてない)
鳥が空を焦がれることに理由はない。
人が光を求めることに理由なんていらないのだ。
「愛してる、アイビス」
「私も。大好きよ、カイト」
太陽が笑う。
嬉しくも懐かしい言葉にカイトはもう一度口づけた。今度は唇に。
かつては空をかけた翼も今はなく、己の内で燻り続けていた復讐心も消え去った。
嵐が去った後に唯一残ったのは――傍らで笑う最愛の人。




