異国
「歩けるかい?」
神埼子都と名乗った老婆は鋭い眼光でこちらを睨みつけ、しゃがれた声で問いかけてきた。
俺は空港の待合室の椅子から立ち上がった。
長いあいだ座っていたみたいだ。下着やズボンの生地が肌にはりついている。
頭に霧がかかったようで体がだるい。
しかし、まだ調子は完全ではないものの、なんとか歩くことくらいはできそうだ。
「大丈夫みたいです」
俺は自分の持ち物を確認した。
ズボンのポケットには、よれよれになったパスポート。帰りの航空券。日付は1週間後の午後と書かれてある。
そして、財布。中身を確認すると、ウォン紙幣と思われるハングル文字の書かれた紙幣が大量に入っていた。
俺の持ち物はそれだけだった。
スマートデバイスは柏木に取り上げられてしまったらしい。
日本に連絡するのも簡単ではないかもしれない。まいったな……。
「寝ているあいだに殴られた場所を診させてもらったよ。派手にやられたみたいだが、大きな問題はなさそうだ。心配ないよ」と神埼子都は言った。
なんだか悪い人ではないような気がする。
しかし、安心はできない。
俺は人がいいと言われたことがある。
その言葉は、褒め言葉ではないだろう。
これまでの人生、ほとんど部屋に引きこもってゲームばかりしていたものだから、あまり多くの人と関わってこなかったのだ。
自分に人を見る目がないのは、よくわかっているつもりだった。
いくつかの疑問が頭に浮かぶ。
老婆は、ここが北朝鮮だと言った。
あたりを見渡すと、待合室の内部は広々としており、ガラス張りの天井からは月明かり差し込んでいた。もう夜だ。
床は石造りで高級感があり、壁にはデジタルアートが映し出されていた。
待合室の一角には軽食のサービスエリアがあり、料理の写真とともにハングル文字でいくつかのメニューが紹介されている。
北朝鮮といえばメディアではよくないニュースばかり取り上げられている恐ろしい国という印象があったが、思ったよりも近代的だ。
「腹が減ったのかい?」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
思わず否定したが、思えば昼食も食べていない。
そう思ったら急にお腹が空いてきた。
つい、俺の腹が音を立てる。
「ひっひっ。空港のメシは割高だ。安くてうまい飯屋を知ってるよ。そこに行こうじゃないか」
老婆は、金属製の無骨な杖をついてゆっくりと歩き出した。
俺もそのスピードにあわせて隣を歩く。
彼女は歩きながら周囲を注意深く観察しているようで、ときおり立ちどまってはひっきりなしにあたりのようすをうかがっていた。
まるで誰にも見られたくないみたいに。
「あの……」
「なんだい」と老婆がふり向いた。
暗く、濁った瞳がぎろりと光った。
「俺は拉致されるんですか?」
すると老婆はにやあっと汚い歯を見せて笑った。
「奏。おまえさんは本当に面白いことをいうねえ。悪の組織の話かなにかをしてるのかい? もし仮にそうだとして、こんな風が吹けば飛ぶようなババアをよこすとでも?」
「いえ……その……」
俺が困惑しながら言葉を選んでいると、老婆はひっひっと笑った。
「安心しな。ただし、ここにいる間はおまえさんの命はあたしが預からせてもらう。妙な真似は考えないほうが身のためさ。世界一安全な日本とは違うんだからねえ」
とりあえず今は、老婆に従うしかなさそうだった。
空港――平壌空港だろうか――を出ると老婆はタクシーを拾った。
日本とデザインは少し違うものの、日本と同じように完全に自動運転のようだ。
老婆が現地の言葉――おそらく朝鮮語だ――で行き先を伝えると、すぐに車が発進した。
車内では軽快なBGMが流れている。
流行りの曲だろうか。乗客が飽きないような工夫がされているらしい。老婆はAIとなにやら会話をしているようだった。
ときどき不気味な笑い声まであげている。
言葉がわからないので、俺には内容までは理解できない。
そんな俺のようすに気づいた老婆が続けて話しかけると、AIが反応した。
「お孫さんですか?」
どうやら、俺にもわかるように日本語で話すように指示を出してくれたらしい。
「まあ、そんなところさね。そんなことはどうだっていいじゃないか。なあ、奏」
「ええ、まあ……」
「失礼いたしました。まったくそのとおりでございます」とAIが言った。
こちらの自動運転AIは日本とは違い、なんだかやたらとおしゃべりだった。
車は市街を抜け、郊外へと向かっていった。
殺風景な景色の中に、ぽつりぽつりと小さな明かりが混じり始める。
空港はかなり近代化されていたものの、郊外では素朴な風景が広がる。
工事現場や畑も見えたが、近くにはロボットではなく人間が使うような道具が確認できた。
それに、監視用のドローンが飛び交っているものの、日本の都心部よりも数が少ないのが印象的だった。
三十分ほど走ったところでタクシーは停車した。山の中腹に位置する一軒の店の駐車場だ。
案内された店は、今にも崩れそうなボロボロの建物だった。
ただ汚いだけでなく、屋根の瓦や外壁のモルタルがところどころ剥がれている。
「汚い店が美味いんだよ」と俺の心を読んだかのように老婆が言った。
中に入ると、年季の入った店内は明るく賑やかで、他にもちらほら食事を楽しむ客がいた。
木でできた二人がけのテーブル席に着くと、店主がこちらにきてめずらしそうにじろじろ俺のことを見た。
中年くらいにみえる。
軽く頭を下げると、彼はこちらをじっと見たまま、それきり反応を示そうとしない。
店内で働いているのはロボットではない。
人間だ。
店員は他にいない。
どうやら店主がひとりでこの店をきりもりしているらしい。
日本で人間がつくった料理が食べられるのは、ほとんど儲けを考えずに趣味でやっているような個人店か、高級店しかない。
なにやら老婆が店主と話をしていた。
しばらくして店主が笑顔でこちらを見た。
「あたしはここの常連でね。孫が日本から遊びにきたって言ったのさ」と老婆が言った。
「田舎だからね。知らない人間が怖いんだよ。お前さんが気にすることはない」
俺はテーブルの上にあるメニューを見たが、日本語ではないのでなにもわからなかった。
せめて写真が載っていればと思ったが、そういった親切なつくりであるというわけでもない。
「なんでもいいよ。好きなのを選びな」
「よくわからないので、なんでもいいです。子都さんのおすすめで」
「わかったよ」
老婆が調理場の向こうにいる店主に朝鮮語で話しかけた。
すると、店主が返事をする。
食事が来るのを待っているあいだ、彼女はここでのルールを教えてくれた。
なるべく一緒に行動すること。
できるだけ人に会わないこと。
食べ物は必ず火の通ったものを食べること。
水は必ずボトリングされたものを飲むこと。など……。
生まれた頃から清潔な環境で生まれ育った日本人にとって、ここの食べ物は体調を崩す原因になりかねないとのことだった。
ひとりでブラブラどこか歩き回ろうという気も起きなかったので、なるべく一緒に行動しようと言ってくれたのはむしろありがたい。
ここでは誰も日本語が通じないだろう。
なんだか親切な人も多そうだ。
俺はこの老婆――神崎子都さんに、少しだけ心をひらきはじめていた。
子都さんはときどきお店の常連客と思わしき人たちと笑いあいながら会話を楽しんでいた。
この小さな店にいる人たちはみな顔見知りのようだった。
客の何人かは俺に笑顔でなにやら話しかけてくることもあったが、なにを話しているのかわからない。
それでも悪意がないことくらいはわかる。
俺にできるのは、笑顔で愛想笑いを浮かべることくらいだ。
やがて料理が運ばれてきた。
北朝鮮の伝統的な料理だろうか。
嗅いだことのないスパイスの香りが漂う、透き通ったスープに浮かぶ麺。
小さな餃子のようなもの。肉と野菜の炒めもの。大きな饅頭。巻き寿司。漬け物など。
かなり腹が減っていたのもあり、目の前の料理はどれも魅力的だった。
俺はいただきますをいうと、取り皿を使って金属製の箸で野菜炒めの肉を食べた。
「あ、うまい」
鳥の肉みたいだが、たぶん鶏ではない。
野鳥だろうか?
噛んだ瞬間に独特の野性味を感じる匂いが鼻を抜ける。ジューシーだ。日本の味付けとは違う調味料が濃いめに使われたソースも絶品だ。
炒められた色とりどりの野菜はシャキシャキしていて、個性が生かされている。
油の香り、香辛料の辛み。口の中に広がる味わいが複雑に舌に絡む。
「ゆっくり噛んで食べな」
提供された料理はどれも美味かった。
味つけは日本のものと違って大雑把なものが多かったが、逆にそれが新鮮だった。
次々と料理をたいらげて、俺は満足感に浸っていた。
子都さんも少し箸をつけたが、あまりお腹が減っていないようで、出された料理はほとんど俺が食べてしまった。
「子都さんは、どうして俺によくしてくれるんですか?」
老婆は汚い歯を見せて笑った。
「決まってるじゃないか。お前さんのマネージャーの柏木から金をたんまり受け取ったからさ。研究費はいくらあっても困らないから助かるよ。常に枯渇しているようなもんさね」
柏木は子都さんにいったいいくら払ったんだろう。
100万や200万ではきかない額を支払ったのではないだろうか。
根拠はないが、そんな気がする。
「こちらでお前さんを一時的に預かったあと、無事に日本に帰らせるって約束だからね。あたしは依頼された仕事をこなすだけ。淡々と。粛々とね」
なんだか彼女の瞳から一瞬光が消えたような気がした。
「それは、俺の脳にチップを……」
俺は思わず椅子から立ち上がる。
そうして、二歩、三歩とあとずさる。
周囲の客が異変を感じたのか、何人かがこちらに注目するのがわかった。
「座りな」鋭い眼光で彼女が俺を睨みつける。「どこへいくつもりだ? おまえさんはひとりではどこにもいけない。あたしについてくるしかないんだ。馬鹿じゃないならわかるだろう?」
「…………」
俺は椅子に座り直した。
汗をびっしょりかいたせいで、背中に張りついたシャツがつめたい。
「さあ、いくよ。妙な真似は考えないほうが身のためだ。抵抗されると、こっちとしても面倒だよ。お互いに面倒を起こさず、穏やかにいこうじゃないか」
そういって子都さんは、にやあっと歯を見せて笑った。
やはり、信用してはいけない。
たぶん、ここでは誰も。
「そうだ。気を許さないほうがいい。心を許す相手は、慎重に選んだほうがいい。ひどいめに会いたいなら話は別だがね」
子都さんは俺の心を読んだかのようにそうつぶやいた。
†
次に向かったのは、人里離れた山深い地にそびえる無骨な建物だった。
壁は高い石造りになっていて、いかにも堅牢だ。
それに、建物自体も大きい。何棟も連なっているし、敷地もかなり広い。
タクシーで山の中にまで侵入するのは不可能だったので、俺たちは少しのあいだ歩くことになった。
運動不足の体に、山道が厳しい。
明かりもないなかを獣道のように草がはげている細い道を、子都さんはペースを落とさず歩いていった。
俺は肩で息をしながら、彼女のあとをついていくので精一杯だった。
あたりはとても暗い。
動物や鳥の不気味な声、虫の鳴き声。カエルの鳴き声。風により木の葉のすれる音などがうるさいくらいに耳に飛び込んでくる。
ほんのちょっとでも子都さんの背中を見失うと、すぐにでも遭難してしまうような気さえした。
子都さんは特に息をきらしているようすもない。
ずいぶん歳をとっているように見えるが、俺よりもずっと体力があるみたいだ。
やがてたどり着いた門の脇には装置が設置されていた。
子都さんはなにやら装置に顔を近づけて入り口のロックを解除した。
虹彩認識かなにかだろう。
近くを通ると、石壁の表面を数匹のヤモリがちょろちょろと走った。
俺たちは門をくぐると、奥のほうで夜にもかかわらずなにか作業をしている人々の姿が見えた。
マスクをし、帽子をかぶっていて顔がよく見えないが、男性ばかりではなく女性の姿もあった。なにをしているのだろうか。
その後もいくつかのセキュリティを解除して、ようやく建物へたどりついた。
建物の外には金属の光沢がむき出しの状態の、警備員と思われるロボットが直立している。
俺たちが近くを通っても微動だにしない。
「こっちだよ」
彼女はそういうと、ゆっくりと建物の中に入っていく。
俺は黙ってあとをついていくしかなかった。
建物内はとても薄暗い。
夜の闇が建物の中にも侵入していて、30センチ先も見えないくらいだ。肌にじっとりと嫌な汗を感じる。
カァン……という高い音が鳴り響く。
直後、明かりがついた。
建物の内部が明らかになる。
子都さんが重そうな金属製の杖をついて、濁った瞳でこちらを見ていた。
ここは、なにかの研究施設だろうか?
監視カメラやなにかのセンサーがそこらじゅうに配置されてあるのがすぐに確認できた。
建物の内部に死角はないかもしれない。
監視は避けられないと思ったほうがよさそうだ。
「ついてきな」
中は薄暗く、ひんやりと涼しい。
エレベーターで2階に向かい、しばらく廊下を歩いた。
今日はもう、ずいぶん歩いた気がする。
子都さんはピンピンしているようだが、俺はいい加減、足が棒みたいだ。
廊下には扉がずらりと並んでいて、それぞれに番号がふられていた。
まるでホテルかなにかだ。
どうやら人が住めるようになっているらしい。
「トイレはここ。そして、風呂はここだ」細い廊下を歩きながら、彼女は建物の内部を案内する。「こっちは食堂」
そして、211と書かれた扉の前で子都さんが立ち止まった。
カードキーを入口にかざして扉のロックを外すと、扉は横にスライドして開いた。
同時に内部のあかりがともる。
「お前さんの部屋だよ。ここにいるあいだ、自由に使うといい」
部屋はだいたい六畳くらいで、内部には簡易的なベッド。
錆ついた金属製の机と椅子。
あとは、机の上にノートパソコンがあるのみだ。
まるで囚人の牢獄のような場所だな、と俺は思った。
「俺はこれからどうなるんです?」俺はたずねた。
「明日のことは明日考えよう」と子都さんはいった。「疲れただろう。今日はもう、おやすみ」
そして彼女は部屋から出ていった。
部屋が閉まるときの、ガシャンという音がやけに重く響いた。




