第七十四話「岩が、動いた」
七十四話目です。
岩を動かす本番です。
大きな力を使う場面ですが、力だけでは動かない。感じ取ることと、信頼することが、同じくらい大事な話です。
では、どうぞ。
朝、霧が出ていた。
山の霧は、濃かった。
岩が、霧の中にぼんやり見えた。
「見えにくいですね」とルースが言った。
「霧は、関係ないです」とゴルは言った。「岩を動かすのに、目は関係ない。感じ取れれば、動かせる」
「霧があっても、感じ取れますか」
「関係ない」
ゴルが、岩に近づいた。
昨日より、堂々と近づいた。
よく知っているものに近づく歩き方だった。
「凪」
「はい」
「準備はいいか」
「います」
「今日、一発で動かす。失敗すると、岩が想定外の方向に動く。それだけは、避けたい」
「分かりました」
「私が、岩の声を聞く。お前が、力を送る。タイミングを、合わせる」
「タイミングを合わせる、というのは」
「私が、今、と言ったときに、力を送れ。それだけだ」
「分かりました」
「一度だけだ。二度目はない」
「一度で、やります」
ゴルが、岩に手を当てた。
目を閉じた。
私も、地面に手を当てた。
岩の状態を、感じた。
昨日より、岩が不安定になっていた。
「少し、動きが増えていますね」とゴルに言った。
「知っている。だから、今日やる。明日では遅い」
「そうですね」
「準備しろ」
「しています」
ヴァンたちが、岩の東側に回った。
昨日、平らにした地面が見えた。
岩が動いたとき、そこに落ち着くようにしてあった。
シロが、私の横に来た。
「今日は、少し離れていてください」
シロが、動かなかった。
「危ないかもしれないです」
シロが、また動かなかった。
「分かりました、一緒にいてください」
◇
ゴルが、ゆっくりと岩に力を送り始めた。
岩が、少し震えた。
「感じています」と私は言った。
「そうだ。岩が、目を覚ましている」
「目を覚ます、というのは」
「岩も、動く前に、準備をする。今、準備している」
「岩が、動く気になってきた感じですか」
「そうだ。あとは、背中を押すだけだ」
ゴルが、深く息を吸った。
「凪」
「はい」
「今から、岩の声を聞く。東に向かいたがっている部分を、探す。見つかったら、声をかける」
「そこに、力を送ります」
「そうだ。ただし」
「ただし?」
「力の大きさを、合わせろ。私が押す力と、お前が押す力が、違いすぎると岩が混乱する」
「合わせます。ゴルさんの力に、合わせます」
「そうしろ」
霧が、少し薄くなってきた。
朝の光が、少し入ってきた。
ゴルが、岩を触り続けた。
一分が過ぎた。
二分が過ぎた。
静かだった。
ルースが、記録帳を持って立っていた。
書いていなかった。
見ていた。
三分が過ぎた。
「今だ」
ゴルが、言った。
力を送った。
ゴルの力に、合わせた。
ゴルが、東に向けて押した。
私が、東に向けて力を流した。
岩が、鳴った。
低い音だった。
ゆっくり、動き始めた。
「動いています」
「まだだ。続けろ」
動き続けた。
少しずつ、少しずつ。
でも、確かに東に向かっていた。
「速くしますか」
「速くするな。ゆっくりでいい」
「分かりました」
岩が、ゆっくり動いた。
一メートル、二メートル。
ヴァンたちが、後ろから声を上げた。
「動いています」
「そうだ、どけ」とゴルが言った。
ヴァンたちが、さらに後ろに下がった。
岩が、また動いた。
三メートル、四メートル。
少し速くなってきた。
「速くなっています」
「いい。自分で動き始めた。力を抜いても、止まらない」
「力を抜いていいですか」
「抜け」
力を、少し抜いた。
岩が、まだ動いていた。
自分で動いていた。
「岩が、自分で動いています」
「そうだ。方向が決まれば、あとは自分で動く」
岩が、東側の地面に向かって、ゆっくり滑った。
そして、止まった。
大きな音がした。
地面が、少し揺れた。
静かになった。
「止まりました」
全員が、しばらく、動かなかった。
ルースが、岩を見た。
「動きましたね」と、小さく言った。
「動きました」
「川から、離れました」
「離れましたね」
ヴァンが、川を確認した。
「川が、通れます。せき止められていない」
「良かったです」
ゴルが、手を離した。
「終わった」と言った。
「ありがとうございます、ゴルさん」
「礼はいい」
「ゴルさんがいなければ、動かせなかったです」
「凪がいなければ、私も動かせなかった」
「二人でやりました」
「そうだ」
シロが、岩を見ていた。
それから、私を見た。
「終わりましたね」とシロに言った。
シロが、大きく尻尾を振った。
◇
昼前に、下山した。
川を見に行った。
水位が、安定していた。
昨日より、落ち着いた流れだった。
「変わりましたね」とルースが言った。
「変わりました」
「岩がせき止めていたから、変動していたんですね」
「そうです。岩がなくなれば、川は本来の流れに戻ります」
「時間がかかりますか」
「少し時間がかかります。今日明日は、まだ不安定かもしれないです。でも、一週間もすれば、落ち着きます」
「農民の人たちに、伝えます」
「伝えてください」
ゴルが、川を見ていた。
「川が、違う顔をしている」
「そうですね。さっきより、穏やかです」
「岩があったとき、川が苦しそうだった」
「苦しそう、というのが分かりましたか」
「分かる。水も、岩も、山も、苦しいときは分かる」
「そういう感じ取り方が、岩人の特徴ですか」
「そうだ。人間には分からないことが、岩人には分かる。逆もある。人間には分かることが、岩人には難しいこともある」
「お互いに、できることが違いますね」
「だから、今日できた」
「そうですね」
ゴルが、また川を見た。
「マエル川というか」
「そうです」
「良い川だ。岩がなければ、穏やかな川だ」
「そうですね。エルドの生命線だそうです」
「生命線か」とゴルは言った。「山の泉も、岩人の生命線だ。水は、どこでも大事だな」
「全部つながっていますね」
「そうだな」
◇
夕方、ルースが農民のマルを連れてきた。
七十代くらいの男性だった。
日焼けした顔が、疲れていた。
「凪さんが、岩を動かしてくれたと聞きました」とマルは言った。
「ゴルさんと、一緒にやりました」
マルが、川を見た。
「水が、落ち着いています」
「そうです」
「三年間、こんなに落ち着いた川を見たことがなかったです」
「三年間、大変でしたね」
「大変でした」とマルは言った。「毎年、被害が出ました。息子に、農地を継がせるのが申し訳なかったです」
「これからは、落ち着くと思います」
「本当ですか」
「一週間ほどで、安定します。その後は、前のような変動はないはずです」
マルが、また川を見た。
「前の川に、戻りますか」
「戻ります」
「ありがとうございます」とマルは言った。
「ゴルさんと、ルースさんと、ヴァンさんたちのおかげです」
「あなたがいなければ、できなかったです」
「気になることがあったので、来ました」
「気になること、ですか」
「川が変動していると聞いて、気になりました。気になれば、来ます」
マルが、私を見た。
「変わった人ですね」
「よく言われます」
「でも、そういう人が来てくれて、良かったです」とマルは言った。
「来て、良かったです。川が落ち着くのが見られたので」
マルが、川に向かって、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」と言った。
川に向かって言った。
私にではなく、川に向かって。
「川にお礼を言うんですね」
「川のおかげで、農地が育ちます。川が元気になったから、お礼を言いました」
「そうですか」
「おかしいですか」
「おかしくないです。川が聞いていると思います」
マルが、少し笑った。
三年間、疲れた顔をしていた人が、笑った。
「聞いていてほしいです」
「聞いています」と私は言った。
「言い切りましたね」とルースが言った。
「川が聞いていることは、言い切れます」
◇
夜、ゴルと話した。
「帰るか、明日」とゴルが言った。
「明日、帰りますか」
「山の用事が残っている。長くは来られない」
「来てくれただけで、十分です」
「泉の報告もしておく。今年は、去年より多く水が出た。レナが喜んでいた」
「そうですか。良かったです」
「レナが、いつかエルドを見てみたいと言っていた」
「レナさんが」
「山以外を見たいと言い始めた。お前が来たから、外の世界を知りたくなったのかもしれない」
「レナさんが来てくれれば、面白いですね」
「いつか来るかもしれない」
「歓迎します」
ゴルが、川の方を見た。
「良い川になった」
「ゴルさんのおかげです」
「また言う、きっかけを作っただけと言うんだろう」
「受け取ります。ゴルさんがいなければ、動かせなかったです」
ゴルが、少し目を細めた。
「受け取るようになったな」
「ガレス王に、言われました」
「良い王だな、それは」
「良い王です」
ゴルが、立ち上がった。
「石を、持っているか」
「持っています」
「次に来るとき、持ってこい。東側の斜面が、どう変わったか、一緒に見よう」
「必ず行きます」
「約束か」
「します」
ゴルが、短く頷いた。
「では、明日、帰る」
「気をつけて帰ってください」
「気をつける。お前も、帰れ。子どもが待っている」
「ルナが待っています」
「早く帰れ」
「帰ります」
ゴルが、また川を見た。
「良い川だ」とゴルは言った。もう一度言った。
川が、静かに流れていた。
七十四話目、書きました。
「今だ」という一言で、岩が動く場面。この物語の中で、一番短い合図で一番大きな動きが起きた瞬間でした。準備が整っていれば、言葉は少なくていい。ゴルという人物らしい場面でした。
「力の大きさを合わせろ」というゴルの指示。これは、技術的な話でもありますが、信頼の話でもあります。二人が同じ方向に、同じ強さで動く。それが、一発で成功した理由でした。
マルが川にお礼を言った場面。人にではなく、川に向かって頭を下げた。農民が、自然と直接話す関係を持っていた。凪が「川が聞いています」と言い切った場面も、そういう関係があってこそでした。
「レナが外の世界を見たいと言い始めた」というゴルの言葉。レナというキャラクターが、次の動きへの伏線になっています。
「良い川だ」というゴルの言葉を、二回言わせました。ゴルが同じことを繰り返すのは、それだけ本心だということです。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




