青葉けやき卓球クラブ【挿絵あり】
光輝からの連絡を待つ数日間、モルフォは落ち着かなかった。
学校から帰れば、まずパソコンを開く。夕食のあとにも一度。朝早く起きた日は、登校前にも受信箱を確認した。
「まだ来てない……」
「そんなに何度も見なくても、メールは逃げないわよ」
台所から母に言われ、モルフォは唇を尖らせる。
「分かってるけど……」
光輝は、自分に卓球を教えるために仙台へ来ようとしている。住む場所も、練習できる場所も探してくれているはずだった。
そして四日後。
学校から帰ったモルフォが受信箱を開くと、蛍瀬光輝の名前があった。
「来た!」
急いでメールを開く。
『住む場所と練習場所が決まりました。
九月十二日の午前九時に、青葉けやき卓球クラブへ来てください。
もしあればラケットと、練習できる服を持ってきてください。』
その下には住所と簡単な地図が添えられていた。
九月十二日まで、まだ数日ある。
今度は、その数日がやけに長く感じた。
◇
土曜日の朝。
母の香澄が運転する車を降りたモルフォは、目の前の建物を見上げた。
仙台の中心部から少し離れた住宅街。家々の間に、二階建ての小さな建物が建っている。
一階の入口には『青葉けやき卓球クラブ』の看板。その隣には、小さく『卓球用品』とも書かれていた。
「ここなんだ……」
「入るわよ」
「うん」
香澄と一緒に扉を開ける。
中にはラバーやボール、シューズなどが並んだ小さな売り場があった。
「あら。いらっしゃい」
カウンターの奥にいた男が顔を上げた。
背が高く、すらりとした体つき。ジャージ姿なのに、どこか華やかな雰囲気がある。
「もしかして、モルフォちゃん?」
「はい」
「はじめまして。笹塚天馬よ。このクラブの代表兼コーチ」
「蝶番モルフォです。よろしくお願いします」
モルフォが頭を下げると、香澄も続いた。
「母の蝶番香澄です。娘がお世話になります」
「あら、ご丁寧に。光輝から話は聞いてるわ。こちらこそよろしくお願いします」
天馬は店の奥へ顔を向けた。
「光輝、モルフォちゃん来たわよー」
少しして、奥から光輝が姿を見せた。
「あ、蛍瀬さん」
モルフォの声が少し弾む。
光輝は小さく手を上げ、それから香澄へ頭を下げた。スマートフォンを取り出し、画面を見せる。
『来てくださってありがとうございます。』
「こちらこそ。わざわざ仙台まで……モルフォのこと、よろしくお願いします」
香澄の言葉に、光輝は静かに頷いた。
そのあと香澄は、天馬から練習時間や連絡先について説明を受けた。
建物は防音されているものの、周囲は住宅街なので、夜十時以降は練習しないことにしているらしい。
「小学生をそんな時間まで残したりしないから安心して」
「分かりました。それと、蛍瀬さん」
香澄が光輝を見る。
「指導料のことなんですが」
光輝はすぐにスマートフォンへ文字を打った。
『以前お伝えした通り、私へのコーチ代は必要ありません。』
「それは駄目です」
香澄は即答した。
『ですが』
「仙台まで来ていただいて、娘を教えてもらうんです。何も払わないわけにはいきません」
光輝は少し困ったように天馬を見る。
「あら、助けを求めても無駄よ。お母様、引く気ないもの」
「当然です」
結局、光輝が折れ、香澄が指導料を支払う形で話がまとまった。
話を終えると、香澄はモルフォを見る。
「無理しないこと。何かあったらすぐ連絡するのよ」
「うん」
「終わる頃に迎えに来るから」
天馬と光輝にもう一度頭を下げ、香澄は店を出ていった。
「じゃ、中を案内するわね」
天馬が売り場の奥にある扉を開ける。
パァン。
乾いた音が響き、モルフォの足が止まった。
練習場には卓球台が二台置かれている。
奥の一台では、赤みのある濃い茶髪を高い位置で結んだ少女が一人で練習していた。
球出し機から次々と飛んでくる球へ踏み込み、フォアで振り抜く。
速い。
「里緒ちゃーん」
天馬が少女を呼んだ。
「なに? 今練習中なんだけど!」
「一旦ストップよ。こっち来なさい」
「もう……」
少女は不満そうに球出し機を止めると、ラケットを持ったままこちらへ歩いてきた。
「この子は、蝶番モルフォちゃん。今日から一緒に練習する仲間よ」
里緒と呼ばれた少女は、モルフォを上から下まで見る。
「……ちっちゃ」
モルフォの眉がぴくりと動いた。
「モルフォちゃんは、里緒ちゃんと同い年よ」
「え? あなた十歳なの?」
「うん」
里緒はもう一度モルフォを見る。
「ふーん。私は蛾ヶ丸里緒。卓球は七歳からやってるわ」
「蝶番モルフォ」
「それは聞いた」
天馬が苦笑する。
「はいはい。じゃ、モルフォちゃんは着替えてらっしゃい。更衣室はそこのドアを開けて右側にあるわ」
「はい」
言われた扉を開けると、すぐ右手に更衣室があった。
中には小さなベンチとロッカーが並んでいる。一人なら十分だが、二人で着替えるには少し狭そうだ。
モルフォは練習着に着替え、バッグからラケットケースを取り出した。
二年間、ほとんど使っていなかった自分のラケット。
右手で握ると、懐かしい感触が掌に戻ってきた。少しだけ胸がざわついたが、今はそれ以上に早く球を打ってみたかった。
練習場へ戻ると、天馬がラケットに気づいた。
「あら、それが使ってたラケット?」
「はい」
「ちょっと見せてもらってもいい?」
モルフォが差し出すと、天馬はグリップを確かめた。
「シェイクハンドね」
モルフォが使っているのは、握手をするように柄を握るシェイクハンド。もう一つ、ペンを持つように握るペンホルダーという持ち方もあるが、モルフォは卓球を始めた頃からシェイクハンドだった。
天馬は続いて、両面に貼られたラバーへ指を滑らせる。
「ラバーを最後に手入れしたのはいつかしら?」
「……昨日の夜です。でも、ラバーは二年前から張り替えていません」
「あら、そういうことね」
天馬が表面を指先で軽くこすった。
「綺麗にはしてあるけど、さすがに二年は長いわ。ラバーは球を弾くだけじゃなくて、こすって回転もかけるから、これだけ引っかかりが落ちてると厳しいわね」
「新しいのにした方がいいですか?」
「そうね。でも今日は買わなくていいわ」
「どうしてですか?」
「今のモルフォちゃんが、どんな卓球をする子かまだ知らないもの」
天馬はラケットを返すと、棚から別の一本を取り出した。
「打ち方を見てから、合うものを選びましょ。今日はこれを使って。クセの少ない貸し出し用だから」
「はい」
受け取って握ってみる。自分のものとは、重さも感触も少し違った。
「まず軽く打ってみましょうか。そこの台の前に立って」
モルフォは空いている台の前へ移動した。
天馬も反対側に立ち、ボールを手に取る。
「じゃ、行くわよ。構えて」
「はい」
腰を落とし、ラケットを構える。
天馬が球を出した。
最初は右利きのモルフォの右側、フォアサイドへ飛んでくる。フォアサイドとバックサイドは利き手によって左右が変わり、右利きなら右側がフォア、左側がバック。左利きならその逆になる。
モルフォは右腕を振り、フォアハンドで打ち返した。
パコン。
白い球が台へ入る。
もう一球。今度は反対側のバックサイド。
身体の前でラケットを振り、バックハンドで返す。
これも入った。
フォア、バックと左右へ送られてくる球を追う。少し速くなったところで、返球がネットにかかった。
「あ」
「気にしない。続けて」
すぐに次の球が来る。
目では追えるし、ラケットにも当たる。けれど、身体が以前のようについてこない。足も重い。
それでも楽しかった。
球を追い、打ち返す。それだけで胸の奥が弾んでいく。
「なるほどね」
何球か打ったところで、天馬が手を止めた。
少し離れた場所では、光輝もモルフォの動きをじっと見ている。
「里緒ちゃん。一ゲームやってみて」
「いきなり試合?」
「ええ。モルフォちゃん、二年くらい卓球から離れてたみたいだから、十一点一本だけね。モルフォちゃん、できそう?」
二年間、試合なんてしていない。
それでもモルフォは頷いた。
「……やります」
「あら、即答」
里緒がラケットを握り直す。
「手加減した方がいい?」
「いらない」
「言ったね」
二人は台を挟んだ。
十一点を先に取れば一ゲーム。十対十になった場合だけ、二点差がつくまで続く。
最初のサーブは里緒。
短い球がフォア側へ落ちる。
モルフォは前へ出たが、一歩目が遅れた。返球が高く浮き、里緒がフォアで打ち込む。
球がモルフォの横を抜けた。
二本目は長いサーブ。
今度は一歩も下がらず、台で弾んだ直後を叩く。
パンッ。
球が里緒のラケットを弾いて抜けた。
何とか一点取れた。
「まだ一点よ。慣れないだろうけど頑張って」
天馬の声が飛んでくる。
だが、その後は里緒が押した。
返しても、すぐ次が来る。フォア側、バック側と左右へ振られるたびに足が遅れ、点差が開いていく。
「三対七」
「はぁ……はぁ……」
もう息が上がっていた。
それでも、バウンド直後を捉え、相手の球の勢いを利用して返すと、里緒が詰まった。
浮いた球をモルフォが打ち込む。
「四対七」
「……やるじゃん」
里緒の口元が上がる。
しかし、次は里緒がフォアから球を強くこすり上げた。
前向きの回転をかけて打つフォアドライブ。勢いのある球が台へ鋭く沈んでくる。
モルフォはラケットを出したが、押し切られた。
そこからさらに点を奪われ、四対十。
あと一点。
モルフォは何とか一本返し、五対十とする。
だが次のラリー。
バック側へ来た球には追いついた。返した直後、今度はフォア側へ振られる。
一歩、足は出た。
けれど、身体がついてこない。
「あっ」
ラケットの先に当たった球が台の外へ飛んだ。
「十一対五。里緒ちゃん」
天馬の声がした。
終わった。
たった一ゲームなのに、脚が重く、息も切れている。二年間のブランクは、思っていたよりずっと大きかった。
里緒がラケットを下ろす。
「二年ぶりなんでしょ? だったら、まあまあじゃない?」
モルフォが顔を上げる。
「でも、今のままじゃ私には勝てないけど」
「……次は勝つ」
考えるより先に言葉が出た。
「へえ」
里緒がにやりと笑う。
「じゃあ、やってみれば?」
負けた。
悔しい。
なのに、それ以上に――もう一回やりたい。
モルフォは右手のラケットを握り直した。
二年間遠ざけていた卓球が、今はもう、すぐ目の前にあった。




