説得【挿絵あり】
夏休みが終わり、学校が始まって数日が経った。
「ただいま」
玄関で靴を脱いだモルフォが居間を覗くと、祖父がいつもの席に座っていた。
「おかえり。モルフォ、手紙が来てるぞ」
「えっ」
ランドセルを背負ったまま駆け寄る。
祖父が差し出した封筒を見た瞬間、モルフォの胸が跳ねた。
もう何度も見た封筒だった。
「蛍瀬さんから……」
最後のつもりで送った手紙への返事。
これで駄目なら、もう手紙は送らないと決めていた。
「ほら、ランドセル下ろしてから読め」
「あ、うん」
モルフォはランドセルを下ろしてから、封筒を受け取った。
台所から祖母が顔を出した。
「今回は何て書いてあるかねえ」
光輝と手紙をやり取りしていたことを、両親はまだ知らない。
最初の一通からずっと、郵便受けを確認することの多い祖父か祖母が、モルフォ宛ての封筒だけ別で渡してくれていた。
「お父さんとお母さんには……」
「言ってないよ」
祖母が答えた。
「モルフォが自分で話すことだからね」
祖父も頷く。
「ただ、いつまでも黙ってるわけにはいかんぞ」
「大丈夫。これで最後だから」
モルフォは封筒へ視線を落とした。
これまで届いた返事は、どれも断る内容だった。
今回もきっとそうだろう。
恐る恐る封を切る。
便箋を取り出して、最初の一行を読んだ。
『分かりました。』
「……え?」
目を瞬く。
続きへ視線を落とした。
『ご両親の許しが出たら、下記のメールアドレスに連絡ください。』
その下にはメールアドレスが書かれている。
もう一度、最初から読んだ。
「……いいって」
「ん?」
「蛍瀬さん、いいって!」
思わず声が大きくなった。
「やった!」
便箋を握ったまま、顔を輝かせる。
最後の一通だった。
もう駄目だと思っていた。
それなのに、光輝から初めて「できません」ではない返事が来た。
「よかったな」
祖父が笑う。
祖母も嬉しそうに頷いた。
「でも、まだ終わりじゃないよ。モルフォはまだ子供だからね。ここからが本番だよ」
「……うん」
便箋には、しっかり書かれている。
――ご両親の許しが出たら。
一番難しいところが残っていた。
◇
その日の夕食後。
「お父さん、お母さん。話があるの」
モルフォが切り出すと、父と母が揃ってこちらを向いた。
祖父と祖母も席を立たずに残っている。
モルフォは昼間受け取った手紙をテーブルへ置いた。
「これ、蛍瀬さんから」
「蛍瀬さん?」
母の表情が変わる。
父が手紙を取り、中を読んだ。
「……モルフォ。これ、どういうことだ?」
「私が手紙を送ったの」
「いつ?」
「三回忌から帰ってきてから」
母が驚いたようにモルフォを見る。
「ずっと?」
「うん。何回か送った」
「私たち、知らなかったわよ」
「俺たちがこの子に直接渡してた」
祖父が口を開いた。
「親父たちが?」
父が祖父を見る。
「モルフォ宛ての手紙だからな。本人に渡した」
「でも、どうして黙ってたんだ?」
「この子が自分で話すことだと思ったのよ」
祖母が言う。
「それに今までは、ずっと断られてたんでしょう?」
「……うん」
モルフォは頷いた。
「これが最後のつもりだった。でも、今度は蛍瀬さんが、ご両親の許しが出たらって」
父がもう一度手紙を見る。
「それで、俺たちに許してほしいと」
「うん」
モルフォは膝の上で拳を握った。
「私、卓球したい」
三回忌の日にも言った言葉だった。
けれど、今度はそれだけでは終わらない。
「二年間やってなかったから、前みたいにできるか分かんない。途中で怖くなるかもしれない。でも、やりたいの」
父は腕を組み、黙って聞いていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……俺も、すぐ賛成とは言えないな」
モルフォは父を見る。
母も少し俯いたあと、首を振った。
「……やっぱり、お母さんも心配よ」
「どうして?」
「大会に出るなら遠くへ行くことだってあるでしょう。またバスに乗ることもあるかもしれない」
母の声が震える。
「あんなこと、もう二度と起きてほしくないの」
モルフォは何も言えなかった。
「でもな」
祖父が口を開いた。
「アゲハたちが亡くなったことと、卓球そのものには因果関係はないだろう」
母が顔を上げる。
「卓球をしていたから事故に遭ったんじゃない。飲酒運転の車がぶつかってきたんだ」
「それは理解しています。でも……」
「分かってるなら、少しだけ分けて考えてやれないか」
「分かってても怖いんです!」
母の声が大きくなった。
モルフォの肩がわずかに跳ねる。
祖父はそれ以上言わなかった。
代わりに、祖母が静かに口を開く。
「怖いのは当たり前だよ」
母が俯いた。
「私だって怖い。あの日みたいなことは、もう二度と起きてほしくない」
祖母はゆっくり続ける。
「でもね。どれだけ気をつけていたって、事故を全部避けられるわけじゃない。歩道を歩いていても、飲酒運転の車が突っ込んでくるかもしれない」
「……」
「だからって、怖いものを全部避けて、この子のやりたいことまで取り上げるのは違うんじゃないかい」
父も母も黙っている。
「何より、モルフォ本人がやりたいと言ってるんだ」
祖父が続けた。
「アゲハが亡くなってから、二年間もラケットに触れなかった子が、自分からもう一度やりたいって言ってる」
モルフォは両親を見た。
「私、やりたい」
少しだけ息を吸う。
「お兄ちゃんがやってたからじゃなくて、私が卓球したいの」
しばらく誰も話さなかった。
やがて父が、隣の母を見る。
「……どうする?」
母はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、小さく息を吐く。
「約束して」
「え?」
「無理はしないこと。怖い時は、ちゃんと怖いって言うこと。それと、遠くへ行く時は絶対に私たちに相談すること」
モルフォの目が大きくなる。
「それって……」
「卓球をやることまで、駄目とは言わない」
「ほんと?」
「ただし、勝手なことはしないで」
「うん! 絶対しない!」
モルフォは大きく頷いた。
母の顔にはまだ不安が残っていた。それでも、もう駄目とは言わなかった。
二年間、触れることもできなかった卓球を、もう一度始められる。
それだけで胸がいっぱいになる。
「よかったな」
祖父が笑った。
ところが、父は手紙を見ながら首を傾げた。
「ただ、一つ問題があるぞ」
「なに?」
「蛍瀬さん、東京に住んでるんだろ?」
「……あ」
モルフォは固まった。
「どうやって教えてもらうつもりなんだ?」
「……新幹線?」
「毎回?」
「……」
「誰がお金出すんだ」
「……お父さん?」
「無理だ」
「だよね」
その横で、祖父と祖母が顔を寄せる。
「俺の箪笥貯金なら、多少は……」
「何言ってるの。あれは老後のためでしょう。あなた、あと少しで後期高齢者なのよ」
「少しくらいならいいだろ」
「そういう問題じゃありません」
二人が小声で話している間に、モルフォはもう一度手紙を見た。
「じゃあ、蛍瀬さんに聞いてみる」
そう言ってモルフォは席を立った。
急いで自分の部屋へと戻り、パソコンを立ち上げ、手紙の最後に書かれたメールアドレスを慎重に入力する。
『両親から、卓球をしてもいいと言ってもらえました。
でも、私は仙台に住んでいます。
どうしたらいいですか。』
一文字ずつ読み返してから、送信する。
あとは待つしかない。
その夜、返事は来なかった。
◇
翌朝。
モルフォはいつもより早く目を覚ました。
顔を洗い、朝食も急いで食べる。
それからパソコンを立ち上げると、新しいメールが一件届いていた。
「来てる!」
差出人は蛍瀬光輝。
すぐに開く。
『ご両親の許可が出たのですね。分かりました。
仙台に知り合いがいるので、住まいを用意できないか掛け合ってみます。
練習についても、その人が関わっている卓球クラブを使わせてもらえると思います。
クラブの月謝は必要になりますが、私へのコーチ代は必要ありません。
詳しいことが決まったら、また連絡します。』
「……え?」
モルフォは画面を見つめた。
もう一度読む。
仙台に住む。
卓球クラブを使う。
コーチ代はいらない。
つまり――。
「蛍瀬さん、仙台に来るの……?」
自分に卓球を教えるために。
昨日までは、もう一度卓球ができるかどうかさえ分からなかった。それが今、少しずつ現実になろうとしている。
「モルフォ! 学校遅れるわよ!」
「あっ!」
母の声に椅子から立ち上がり、慌ててランドセルを背負う。
「行ってきます!」
玄関を飛び出したモルフォは、いつもより少し速い足取りで学校へ向かった。




