届くまで
「私の……コーチになってください!」
ロビーに響いた自分の声が消えたあと、モルフォは急に恥ずかしくなった。
目の前の光輝は、鞄を手にしたまま固まっている。
目を見開き、何を言われたのか分からないような顔でモルフォを見ていた。
「あ……」
頬がかっと熱くなった。二年ぶりにラケットを握ったばかりで、まだ一球も打っていない。それなのに、勢いだけでこんなことを言ってしまった。
「あの、その……」
さっきまでの勢いが、見る見るうちにしぼんでいく。
「モルフォ!」
後ろから母が追いついてきた。
そして光輝に気づくと、わずかに目を見開いた。
「あ……蛍瀬さん」
母が会釈すると、光輝も静かに頭を下げた。
「それで、モルフォは何してるの?」
「……」
言いづらかった。
けれど、ここで黙ったら、さっき勇気を出して言ったことまで消えてしまいそうだった。
モルフォは兄のラケットを胸元へ抱える。
「私、卓球したい」
母の表情が止まった。
「もう一回やりたいの。それで、蛍瀬さんに教えてほしくて……」
「駄目よ」
返事は早かった。
「どうして?」
「どうしてって……」
母は苦しそうに眉を寄せる。
「あんなことがあったのよ」
「でも、卓球は関係ないし――」
「モルフォ」
強く名前を呼ばれ、それ以上言えなくなった。
怒っているわけではない。
その顔を見れば分かる。
母は、怖いのだ。
事故のあと、大型バスを見るだけで顔を強張らせるようになったことを、モルフォも知っている。
父も、遠出の話には以前よりずっと敏感になった。
怖いのは、自分だけではない。
「……会場に戻りましょ」
母の手が肩に触れた。
それでもモルフォは動かなかった。
「私、卓球したい」
もう一度だけ言った。
母は何も答えない。
光輝は二人のやり取りを見ていたが、やがて深く頭を下げた。
そのまま背を向ける。
「あ……」
今度は呼び止められなかった。
ロビーの向こうへ遠ざかっていく背中を、モルフォはじっと見送った。
悔しかった。
二年間、口にすることさえできなかったことを、ようやく言えたのに。
けれど、不思議と諦めようとは思わなかった。
◇
仙台へ戻って数日が経った。
夏休みはまだしばらく残っていたが、光輝に教えてほしいという気持ちは変わらなかった。
問題は、どうやって連絡するかだった。
電話番号もメールアドレスも知らない。
どうすれば連絡できるのか考えているうちに、モルフォは父が保管していた事故関係の書類を思い出した。
告別式や一周忌の際に使われた、遺族や関係者の連絡先をまとめた古い名簿も、ほかの資料と一緒に箱へしまわれている。
モルフォは何枚もの紙から名前を探した。
「蛍瀬……蛍瀬……」
指で一つずつ追っていく。
「あった」
蛍瀬光輝。
名前の横には住所が書かれていた。
古い名簿だったが、その住所が今も使われているかなんて、モルフォは考えもしなかった。
自分のノートへ書き写すと、部屋へ戻る。
机の引き出しから、可愛い花柄のレターセットを取り出した。
便箋を一枚広げて鉛筆を握ったものの、なかなか手が動かない。
何を書けばいいんだろう。
しばらく悩んでから、一文字ずつ書き始める。
『蛍瀬さんへ
三回忌の時はいきなりすみませんでした。
でも、私はもう一度卓球がしたいです。
お兄ちゃんを教えていた蛍瀬さんに、私も教えてほしいです。
お願いします。
蝶番モルフォ』
何度も消して書き直したせいで、便箋には消しゴムの跡が残った。
それでも封筒へ入れると、財布を持って近所の郵便局へ向かった。
窓口で自分のお小遣いから切手代を払い、そのまま手紙を差し出す。
郵便局を出ても、胸のどきどきはしばらく収まらなかった。
◇
返事が届いたのは、それから数日後だった。
郵便受けに自分宛ての封筒を見つけたモルフォは、急いで家の中へ持ち帰った。
『申し訳ありません。
今は誰かを指導するつもりはありません。』
「……駄目か」
肩が落ちた。
けれど、返事は来た。
だったら、もう一回。
二通目を書いた。
『ちゃんと練習します。言われたことも聞きます。お願いします。』
返事。
『ごめんなさい。』
三通目。
『一回だけでも見てください。』
返ってきた手紙には、
『できません。』
それだけ書かれていた。
「短くなってる……」
モルフォは机に突っ伏した。
それでも、翌日にはまた便箋を出した。
四通目。
五通目。
送っては断られ、落ち込んではまた書いた。
光輝は一度も無視しなかった。
必ず返事をくれる。
けれど、答えだけは変わらない。
駄目。
できない。
教えられない。
「うー……」
モルフォは財布をひっくり返した。
机の上に硬貨が転がる。
一枚、二枚。
便箋に封筒、それに切手。何度も手紙を出したせいで、今月のお小遣いはほとんど残っていなかった。
「……あと一回」
これで最後。
新しい便箋を机に置く。
今までと同じことを書いても、きっと同じ返事が来る。
何を書けば伝わるんだろう。
鉛筆を握ったまま考えていると、ふと兄の声が浮かんだ。
『小さな蝶の羽ばたきが、いつか遠くで嵐を起こすんだ』
「あ……」
モルフォは便箋へ向き直った。
『蛍瀬さんへ
これで最後にします。
お兄ちゃんが、バタフライエフェクトのことを教えてくれました。
小さな蝶の羽ばたきが、いつか遠くで嵐を起こすって。
それで、お兄ちゃんと約束しました。
兄妹で嵐を起こそうって。
お兄ちゃんはいなくなっちゃったけど、約束までなくなったわけじゃないと思います。
私はもう一度、卓球がしたいです。
蛍瀬さんに教えてほしいです。
お願いします。
蝶番モルフォ』
最後まで書き終え、最初から読み返した。
字はところどころ曲がり、消した跡もある。
それでも、今までで一番、自分の気持ちを書けた気がした。
モルフォは残ったお小遣いを握りしめ、また郵便局へ向かった。
窓口で切手代を払い、その日のうちに手紙を差し出した。
◇
数日後。
光輝は届いた封筒を前に、小さく息を吐いた。
見覚えのある花柄の封筒。
差出人を確認しなくても分かる。
また、モルフォからだった。
何度断っても手紙が届く。
そのたびに返事を書き、これで終わるだろうと思うのに、しばらくするとまた郵便受けに入っている。
光輝は封を切り、便箋へ目を落とした。
途中で、視線が止まる。
『バタフライエフェクト』
その言葉を見た瞬間、古い記憶が蘇った。
アゲハを教え始めて間もない頃。
思うような結果が出ず、珍しく練習場の隅で俯いていたことがあった。
『俺、ちゃんと強くなってますか』
いつも負けず嫌いで、練習をやめようとしない少年が、その日だけは自信をなくしていた。
そんなアゲハに、光輝が教えた言葉だった。
『バタフライエフェクトって知ってるか?』
今日の一本が、次の一本を変える。そんな小さな変化が続けば、いつか大きな結果につながるかもしれない。
今すぐ結果が出ないからって、今日の練習が無駄になるわけじゃない。
そんな話をした。
アゲハは黙って聞き、やがてまたラケットを握った。
光輝にとっては、それだけの記憶だった。
まさかアゲハが、その言葉を妹へ伝えていたとは思わなかった。
便箋へ視線を戻す。
『兄妹で嵐を起こそうって』
光輝は目を閉じた。
自分がアゲハへ渡した言葉を、アゲハがモルフォへ渡し、今度はモルフォが自分へ返してきた。
もう一度誰かを教え、その夢に関わることが怖くないわけではない。また大切なものを失うかもしれないという思いは、今も消えていなかった。
それでも、何度断られても手紙を送り続けた少女に、また「できません」とだけ返すことはできなかった。
光輝は新しい便箋を取り出した。
ペンを握り、しばらく考えてから書き始める。
『分かりました。
ご両親の許しが出たら、下記のメールアドレスに連絡ください。』
その下に、自分のメールアドレスを書いた。
光輝は便箋を封筒へ入れた。
一人の少女の小さな羽ばたきが、今度は光輝の止まっていた時間を、ほんの少しだけ動かした。




