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バタフライエフェクト  作者: シッピー&樽
【小学四年生】 立志編
4/10

届くまで

「私の……コーチになってください!」


 ロビーに響いた自分の声が消えたあと、モルフォは急に恥ずかしくなった。


 目の前の光輝(こうき)は、鞄を手にしたまま固まっている。


 目を見開き、何を言われたのか分からないような顔でモルフォを見ていた。


「あ……」


 頬がかっと熱くなった。二年ぶりにラケットを握ったばかりで、まだ一球も打っていない。それなのに、勢いだけでこんなことを言ってしまった。


「あの、その……」


 さっきまでの勢いが、見る見るうちにしぼんでいく。


「モルフォ!」


 後ろから母が追いついてきた。


 そして光輝に気づくと、わずかに目を見開いた。


「あ……蛍瀬(ほたるせ)さん」


 母が会釈すると、光輝も静かに頭を下げた。


「それで、モルフォは何してるの?」


「……」


 言いづらかった。


 けれど、ここで黙ったら、さっき勇気を出して言ったことまで消えてしまいそうだった。


 モルフォは兄のラケットを胸元へ抱える。


「私、卓球したい」


 母の表情が止まった。


「もう一回やりたいの。それで、蛍瀬さんに教えてほしくて……」


「駄目よ」


 返事は早かった。


「どうして?」


「どうしてって……」


 母は苦しそうに眉を寄せる。


「あんなことがあったのよ」


「でも、卓球は関係ないし――」


「モルフォ」


 強く名前を呼ばれ、それ以上言えなくなった。


 怒っているわけではない。


 その顔を見れば分かる。


 母は、怖いのだ。


 事故のあと、大型バスを見るだけで顔を強張らせるようになったことを、モルフォも知っている。


 父も、遠出の話には以前よりずっと敏感になった。


 怖いのは、自分だけではない。


「……会場に戻りましょ」


 母の手が肩に触れた。


 それでもモルフォは動かなかった。


「私、卓球したい」


 もう一度だけ言った。


 母は何も答えない。


 光輝は二人のやり取りを見ていたが、やがて深く頭を下げた。


 そのまま背を向ける。


「あ……」


 今度は呼び止められなかった。


 ロビーの向こうへ遠ざかっていく背中を、モルフォはじっと見送った。


 悔しかった。


 二年間、口にすることさえできなかったことを、ようやく言えたのに。


 けれど、不思議と諦めようとは思わなかった。



 ◇



 仙台へ戻って数日が経った。


 夏休みはまだしばらく残っていたが、光輝に教えてほしいという気持ちは変わらなかった。


 問題は、どうやって連絡するかだった。


 電話番号もメールアドレスも知らない。


 どうすれば連絡できるのか考えているうちに、モルフォは父が保管していた事故関係の書類を思い出した。


 告別式や一周忌の際に使われた、遺族や関係者の連絡先をまとめた古い名簿も、ほかの資料と一緒に箱へしまわれている。


 モルフォは何枚もの紙から名前を探した。


「蛍瀬……蛍瀬……」


 指で一つずつ追っていく。


「あった」


 蛍瀬光輝。


 名前の横には住所が書かれていた。


 古い名簿だったが、その住所が今も使われているかなんて、モルフォは考えもしなかった。


 自分のノートへ書き写すと、部屋へ戻る。


 机の引き出しから、可愛い花柄のレターセットを取り出した。


 便箋を一枚広げて鉛筆を握ったものの、なかなか手が動かない。


 何を書けばいいんだろう。


 しばらく悩んでから、一文字ずつ書き始める。


『蛍瀬さんへ


 三回忌の時はいきなりすみませんでした。


 でも、私はもう一度卓球がしたいです。


 お兄ちゃんを教えていた蛍瀬さんに、私も教えてほしいです。


 お願いします。


 蝶番モルフォ』


 何度も消して書き直したせいで、便箋には消しゴムの跡が残った。


 それでも封筒へ入れると、財布を持って近所の郵便局へ向かった。


 窓口で自分のお小遣いから切手代を払い、そのまま手紙を差し出す。


 郵便局を出ても、胸のどきどきはしばらく収まらなかった。



 ◇



 返事が届いたのは、それから数日後だった。


 郵便受けに自分宛ての封筒を見つけたモルフォは、急いで家の中へ持ち帰った。


『申し訳ありません。


 今は誰かを指導するつもりはありません。』


「……駄目か」


 肩が落ちた。


 けれど、返事は来た。


 だったら、もう一回。


 二通目を書いた。


『ちゃんと練習します。言われたことも聞きます。お願いします。』


 返事。


『ごめんなさい。』


 三通目。


『一回だけでも見てください。』


 返ってきた手紙には、


『できません。』


 それだけ書かれていた。


「短くなってる……」


 モルフォは机に突っ伏した。


 それでも、翌日にはまた便箋を出した。


 四通目。


 五通目。


 送っては断られ、落ち込んではまた書いた。


 光輝は一度も無視しなかった。


 必ず返事をくれる。


 けれど、答えだけは変わらない。


 駄目。


 できない。


 教えられない。


「うー……」


 モルフォは財布をひっくり返した。


 机の上に硬貨が転がる。


 一枚、二枚。


 便箋に封筒、それに切手。何度も手紙を出したせいで、今月のお小遣いはほとんど残っていなかった。


「……あと一回」


 これで最後。


 新しい便箋を机に置く。


 今までと同じことを書いても、きっと同じ返事が来る。


 何を書けば伝わるんだろう。


 鉛筆を握ったまま考えていると、ふと兄の声が浮かんだ。


『小さな蝶の羽ばたきが、いつか遠くで嵐を起こすんだ』


「あ……」


 モルフォは便箋へ向き直った。


『蛍瀬さんへ


 これで最後にします。


 お兄ちゃんが、バタフライエフェクトのことを教えてくれました。


 小さな蝶の羽ばたきが、いつか遠くで嵐を起こすって。


 それで、お兄ちゃんと約束しました。


 兄妹で嵐を起こそうって。


 お兄ちゃんはいなくなっちゃったけど、約束までなくなったわけじゃないと思います。


 私はもう一度、卓球がしたいです。


 蛍瀬さんに教えてほしいです。


 お願いします。


 蝶番モルフォ』


 最後まで書き終え、最初から読み返した。


 字はところどころ曲がり、消した跡もある。


 それでも、今までで一番、自分の気持ちを書けた気がした。


 モルフォは残ったお小遣いを握りしめ、また郵便局へ向かった。


 窓口で切手代を払い、その日のうちに手紙を差し出した。



 ◇



 数日後。


 光輝は届いた封筒を前に、小さく息を吐いた。


 見覚えのある花柄の封筒。


 差出人を確認しなくても分かる。


 また、モルフォからだった。


 何度断っても手紙が届く。


 そのたびに返事を書き、これで終わるだろうと思うのに、しばらくするとまた郵便受けに入っている。


 光輝は封を切り、便箋へ目を落とした。


 途中で、視線が止まる。


『バタフライエフェクト』


 その言葉を見た瞬間、古い記憶が蘇った。


 アゲハを教え始めて間もない頃。


 思うような結果が出ず、珍しく練習場の隅で俯いていたことがあった。


『俺、ちゃんと強くなってますか』


 いつも負けず嫌いで、練習をやめようとしない少年が、その日だけは自信をなくしていた。


 そんなアゲハに、光輝が教えた言葉だった。


『バタフライエフェクトって知ってるか?』


 今日の一本が、次の一本を変える。そんな小さな変化が続けば、いつか大きな結果につながるかもしれない。


 今すぐ結果が出ないからって、今日の練習が無駄になるわけじゃない。


 そんな話をした。


 アゲハは黙って聞き、やがてまたラケットを握った。


 光輝にとっては、それだけの記憶だった。


 まさかアゲハが、その言葉を妹へ伝えていたとは思わなかった。


 便箋へ視線を戻す。


『兄妹で嵐を起こそうって』


 光輝は目を閉じた。


 自分がアゲハへ渡した言葉を、アゲハがモルフォへ渡し、今度はモルフォが自分へ返してきた。


 もう一度誰かを教え、その夢に関わることが怖くないわけではない。また大切なものを失うかもしれないという思いは、今も消えていなかった。


 それでも、何度断られても手紙を送り続けた少女に、また「できません」とだけ返すことはできなかった。


 光輝は新しい便箋を取り出した。


 ペンを握り、しばらく考えてから書き始める。


『分かりました。


 ご両親の許しが出たら、下記のメールアドレスに連絡ください。』


 その下に、自分のメールアドレスを書いた。


 光輝は便箋を封筒へ入れた。


 一人の少女の小さな羽ばたきが、今度は光輝の止まっていた時間を、ほんの少しだけ動かした。

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