最初の羽ばたき
白い球が、モルフォ側のコートで鋭く弾んだ。
八歳の蝶番モルフォは右手のラケットを振る。返球はネットすれすれを越え、兄のフォア側へ飛んでいった。
十四歳のアゲハは一歩だけ動くと、左手で軽く打ち返す。
球がモルフォの横を抜けた。
「あーっ!」
「ほら、モルフォ。足止まってるぞ」
「止まってないもん!」
「止まってたって」
「お兄ちゃんが変なとこに打つから!」
「試合じゃ相手も変なとこに打つって」
笑いながら言われ、モルフォは頬を膨らませた。
夏休みに入って間もない頃だった。
普段、アゲハは東京で暮らしている。仙台の実家へ帰ってくるたびに相手をしてくれたが、こうして兄妹で卓球ができる日はそれほど多くない。
だからこそ、モルフォは兄が帰ってくると決まってラケットを引っ張り出していた。
卓球が好きだった。
兄と打つのは、もっと好きだった。
「もう一回!」
「休憩」
「まだできる!」
「俺が休みたいの」
「うそ。全然疲れてないじゃん」
「ばれたか」
アゲハは笑い、近くの籠から球を一つ取った。
「なあ、モルフォ。バタフライエフェクトって知ってるか?」
「ばたふらい……?」
「バタフライエフェクト」
「知らない」
モルフォは即答した。
「小さな蝶の羽ばたきが、いつか遠くで嵐を起こすんだ」
「蝶が?」
「そう」
「そんなに強いの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話?」
アゲハが困ったように笑った。難しいことを言ったくせに、八歳の妹へどう説明するかまでは考えていなかったらしい。
「すごく小さなことでも、それがきっかけになって、ずっと先で大きなことにつながるかもしれないって話」
「ふーん」
「分かってないだろ」
「分かったよ。蝶が嵐を起こすんでしょ?」
「まあ、それでいいか」
苦笑したアゲハは、手の中の球へ一度視線を落とした。
「俺、もっと強くなるから」
「うん」
「全国で勝って、その先にも行く。世界まで」
「世界?」
「セプテントリオン・ゲームズ。俺、そこで金メダル取る」
その名前は、モルフォもテレビで何度か聞いたことがあった。世界中から選手が集まる、とても大きな大会だ。
モルフォには、兄より卓球が上手な人なんて想像できなかった。兄なら、きっとそこで優勝できる。そう信じていた。
「モルフォも強くなれよ」
「お兄ちゃんより?」
「……それは困るな。兄としてメンツが立たない」
「絶対追い抜く! バタフライなんとか、お兄ちゃんとやる!」
「バタフライエフェクトな」
「それ!」
アゲハが笑った。
「じゃあ、兄妹で嵐を起こそう」
「……うん!」
モルフォは力強く頷いた。
その時はまだ、約束が果たされないこともあるなんて知らなかった。
それが、兄と交わした最後の約束になることも。
◇
数週間後。
ジュニア強化合宿を終えた選手たちを乗せたチャーターバスに、飲酒運転の車が衝突した。
バスはガードレールを突き破り、崖下のダム湖へ転落。乗っていた二十人のうち、十三人が亡くなった。
その中に、兄……蝶番アゲハの名前があった。
八歳のモルフォにも、その言葉の意味は分かった。
兄が死んだ。
もう帰ってこない。
分かっているのに、信じられなかった。
「うそ……」
最初に出たのは、それだけだった。
母の目は真っ赤に腫れ、父も青ざめた顔で何度も電話をかけている。家には親戚や知らない大人たちが次々と訪れ、テレビでは事故のニュースが繰り返されていた。
湖。
ひしゃげたガードレール。
水際に集まる救助隊。
そして、引き上げられた大きなバス。
「うそだよね……」
誰も「そうだ」と言ってくれなかった。
誰も「間違いだった」と言ってくれなかった。
「お兄ちゃん、帰ってくるよね?」
母は答えず、口元を押さえたまま泣き崩れた。
それを見た瞬間、モルフォの中で何かが切れた。
「いやだ!」
喉が痛くなるほど叫んだ。
「いやだ! いやだよ! お兄ちゃん死んでない!」
父が駆け寄ってきたが、モルフォはその腕を振り払った。
「だって約束したもん! 兄妹で嵐を起こすって! 約束したもん!」
涙で何も見えない。
息もうまくできない。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
何度呼んでも、返事はなかった。
玄関の扉が開いて、いつものように「ただいま」と帰ってくる気がした。
東京から帰省するたびにそうだったように、大きな荷物を置いて、モルフォの頭を撫でて、それから「卓球するか」と笑ってくれるはずだった。
「会いたいよ……!」
最後には声も潰れ、母にしがみついて泣いた。
母もモルフォを強く抱きしめる。
二人とも、涙が止まらなかった。
その夜、泣き疲れて眠っても、目を覚ますたびにまた涙が出た。
次の日も、その次の日も。
テレビでは事故の映像が流れ続けていた。
亡くなったのはアゲハだけではない。合宿に参加していた子供たちや関係者――十三人もの命が失われた。
それでも、モルフォにとって失った兄の存在はあまりにも大きかった。
時間が経つにつれ、泣く回数は少しずつ減っていった。
悲しくなくなったわけではない。
涙が出なくなっていっただけだ。
部屋の隅には、自分のラケットが置かれたままになっていた。以前なら学校から帰ると触っていたのに、もう手を伸ばすことはない。
学校で卓球の音が聞こえればその場を離れ、テレビに試合が映ればすぐにチャンネルを変えた。
ラケットも。
白い球も。
卓球台も。
見るだけで兄を思い出した。
そして大型バスが視界に入ると、もっと駄目だった。
胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。白い車体と大きな窓を見ただけで、テレビに映っていた湖が蘇った。
あの日まで好きだったものが、何もかも兄につながってしまった。
卓球も。
大会も。
遠征も。
だから、遠ざけた。
明るくてよく喋っていたモルフォも、いつしか口数が減っていった。
そうして二年が過ぎた。
◇
十歳になったモルフォは、両親とともに東京へ向かっていた。
仙台から新幹線に乗り、東京駅で降りる。目的は、兄を含む事故犠牲者たちの合同三回忌だった。
東京は、アゲハが暮らしていた街だ。
駅を出ると、人も車も仙台よりずっと多く見えた。
父の少し後ろを歩いていたモルフォは、道路の向こうを通り過ぎる観光バスに気づき、足を止めた。
白い車体と、大きな窓。
一瞬だけ、何度もテレビで見た湖面が頭に浮かぶ。
「モルフォ?」
母の声ではっと我に返った。
「……大丈夫」
そう答えると、母は何か言いかけて口を閉じた。そのまま三人は再び歩き始める。
三回忌の会場には、すでに大勢の人が集まっていた。
亡くなった選手たちの家族や関係者。事故を生き延びた人たちの姿もある。
正面には十三人の写真が並び、その中でアゲハも笑っていた。
二年前から、変わらない顔で。
焼香を済ませたモルフォは、すぐに視線を落とした。
誰かと話したい気分ではない。
久しぶりに顔を合わせた人から「大きくなったね」と声をかけられても、小さく頭を下げるだけだった。
少し離れたところに、見覚えのある男がいた。
蛍瀬光輝。
兄のコーチだった人だ。
二年前、アゲハの告別式で遠目に見た時よりもずっと痩せ、目の下には濃い隈が残っていた。
光輝は会場の端に立ち、誰かに声をかけられても長くその場には留まらない。頭を下げたり、スマートフォンの画面を見せたりすると、すぐに人の輪から離れていった。
最初から、どこか居心地が悪そうだった。
どうやら事故のあと、声が出なくなったらしい。両親からそう聞いてはいたものの、本当に一言も発しない姿を前にすると、モルフォはどうしていいか分からなかった。
やがて光輝もこちらに気づいた。
目が合った瞬間、彼はわずかに目を見開き、それから静かに頭を下げる。
モルフォも慌てて頭を下げ返した。
それだけで終わった。
何を話せばいいのか分からないし、光輝もこちらへ近づいてはこなかった。
法要が終わると、張り詰めていた会場の空気が少しずつ緩み始めた。立ち話をする人、帰り支度を始める人。それぞれが動き出す中、モルフォは壁際の椅子に腰掛けていた。
早く帰りたい。
そう思いながら顔を上げた時、祭壇の脇に置かれた黒いケースが目に入った。
息が止まる。
細長い、卓球のラケットケース。
見覚えがあった。
モルフォは椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいていく。
一歩進むごとに、見間違いではないと分かった。
「……お母さん」
少し離れた場所にいた母を振り返る。
「あれ……」
母はケースへ目を向け、短く頷いた。
「事故のあと、東京から戻ってきた荷物に入ってたの。アゲハが一番使ってたものだから、今日持ってきたのよ」
そんなものを持ってきていたとは知らなかった。
モルフォはケースの前で足を止める。
手を伸ばしかけて、止まった。
二年間、ラケットには触れていない。
触れれば兄を思い出す。
また苦しくなる。
分かっているのに、今日はそのまま背を向けることができなかった。
震える指でファスナーを開く。
赤と黒のラバー。
使い込まれたグリップ。
縁には、小さな傷がいくつも残っている。
何度も見たラケットだった。
兄が握り、何千、何万という球を打ってきたラケット。
モルフォはそっと手を伸ばした。
兄がいつもそうしていたように、左手でラケットを握る。
自分のラケットより少し重く、グリップもまだ大きい。それでも掌に収めた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気に溢れ出した。
『足止まってるぞ』
『もう一回!』
『休憩』
『お兄ちゃんより強くなる!』
球が台を弾む音。
ラケットに当たる乾いた音。
始めたきっかけは兄だった。
悔しくて頬を膨らませたことも、一本返せただけで嬉しかったことも、褒めてもらいたくて何度も球を追いかけたことも、次々に蘇ってくる。
その全部が楽しかった。
自分は、本当に卓球が好きだった。
「……っ」
視界が滲んだ。
頬を伝った涙が一滴落ちると、もう止められなかった。
会いたい。
また打ちたい。
もう一度、あの台の向こうに立ってほしい。
どうして帰ってこないの。
どうして約束したのに。
二年間、胸の奥へ押し込めてきたものが、言葉にならないまま溢れていく。
その中に、一つだけはっきりした気持ちがあった。
――卓球がしたい。
もう一回、球を打ちたい。
兄がいなくても。
怖くても。
モルフォは袖で涙を拭った。
顔を上げると、光輝が鞄を手に出口へ向かうところだった。
法要が終わるのを待っていたかのように、誰にも声をかけず、そのまま帰ろうとしている。
兄を教えていた人。
世界で戦ったことのある人。
アゲハが何度も話していた人。
気づけば、モルフォの足は動き出していた。
「モルフォ?」
背中から母の声が追いかけてくる。
会場を飛び出し、ロビーでようやく光輝に追いついた。
「……待ってください!」
彼は驚いたように足を止め、目を見開く。
二年間、一度もラケットを握れなかった。
今だって、本当に球を打てるかは分からない。
また怖くなって逃げるかもしれない。
それでも、左手には兄のラケットがある。
小さな蝶の羽ばたきが、いつか遠くで嵐を起こす。
あの日の言葉が、胸の奥で蘇った。
モルフォはラケットを強く握り、光輝をまっすぐ見上げる。
「私の……コーチになってください!」




